四月一日の告白
目が覚めたとき、見たことのある天井が伸の視界に飛び込んで来た。大きな星空の地図が貼付けてある、まるで子供部屋みたいな風変わりな天井だ。伸はそれを眺めたこともあったし、細々とした説明を受けたこともあった。けれども、このようにベッドの上から見上げるのは初めてだった。どうしてここにいるのだろう、と素朴な疑問を抱いて起き上がろうとすると、いつもと何かが違うように思えた。体が重いのだ。風邪のときのだるさの種類とは少し違う。どこか自分の体ではないような、そんな不思議な重みだ。
「伸、大丈夫か?」
聞き慣れた声がしてそちらを向くと、当麻が心配そうな表情で覗き込んでいる。伸は首を傾げた。そして思い出した。昨晩、当麻の家を訪ねて久しぶりに酒を飲んだのだ。飲み過ぎたのだろうか。
「ごめん。君のベッド、とっちゃったみたいだね。当麻はソファで寝たのかい? 今度、ちょっと手のこんだ料理をご馳走するから……」
そこで伸は言葉を止めた。当麻の表情が尋常ではなかったからだ。いつも冷静で理知的な彼が不安を露わに伸の顔を見つめている。当麻のベッドを借りてまで飲み過ぎるのがそんなに奇妙なことだったのだろうか。伸は彼らしくない焦りの滲んだ眼差しに居心地が悪くなりベッドから重い体を降ろした。
「そういや、今日は年度始めだから、社会人の君は忙しいんだっけ?」
当麻は高校を卒業したあと渡米し、二年で博士号を取得して自分で会社を立ち上げた。まだ社長兼プログラマーだがアルバイト三名を雇える程度には実績があった。一方、伸は未だ大学四年で就職活動中だ。当麻のことを仲間として深く誇りに思う反面、同性として、そして年上としてほんの少し悔しくもあった。
「まあ、うちみたいな業種はあまり年度始めは関係ないからな」
もごもごと口の中で言葉を濁す当麻を背後に伸は爪先を玄関へ向けた。どうも当麻の様子もおかしい。いつものさっぱりとした空気ではなく、どこか湿度の高い梅雨のような空気が部屋に充満していた。そこから逃げるように伸は当麻の家をあとにした。
伸が自分の体の変化に気づいたのは、当麻の家の最寄り駅に着いたときだった。ひどく喉が乾く、体の節が少し痛い、全身が火照ったように熱を持っている、といった具合だ。伸は風邪の初期症状だろうと思った。幸い、大学もバイトも休みで丸一日オフの珍しい日だ。家に帰ってたっぷりの果物を食べ、ゆっくり過ごせば良くなるだろうと頭の中で一日の計画を立てた。そのとき、一陣の風が吹き抜けた。風は伸の体を通り抜けるのではなく、抱きしめるように絡み付いた。伸の頭が反応するより早く体が反応した。絡みついた風に伸の身体は硬直し、灼けるような熱をもった。熱はじわじわと伸の思考を浸食した。何かの感触がよみがえろうとしているが、頭と体が別々に動いているかのように噛み合わない。風邪などではない、直感的に悟って伸は怖くなった。何かが違っていた。昨日の朝九時の自分の身体と、今の自分の身体は、言葉を持つ前のヒトと言葉を得てからの人類の文明の違いくらいの徹底的な隔たりを持っていた。
伸は自分の身体を抱き締め「何が起きたんだ」と呟いた。そして早足で駅の改札を通り抜けた。家に帰るという計画はすっかり忘れどこか遠いところに逃げたくなったのだ。できれば、風の吹かない場所に。
私鉄を乗り継いで二時間の駅で伸は降りた。駅名は分からない。駅名が分かってしまえば、また、あの絡み付くような風に囚われてしまうかもしれないという恐怖感があった。
駅前はバスロータリーとスーパーが一軒、それから鄙びた商店街があった。喉の渇きを潤そうとと自動販売機を探したが見当たらない。スーパーの店内を覗いたが、地元の客であふれかえっており、重い体が考えるより先に拒否をした。仕方なく商店街を歩いていると一軒の喫茶店を見つけた。都心で見かけるお洒落なカフェではなく、昭和から時間の止まってしまったような喫茶店だ。店頭に出されている壊れかけの木製の看板のメニューに「ミネラルウォーター」の文字を確認して伸は店内に入った。店の窓際には孫がいるであろう年頃の女性二人がコーヒーを片手に会話を弾ませていた。彼女たちは一度、伸の方を見てすぐに自分たちの世界に戻っていった。異郷の人間には興味がないらしい。マスターらしき男性は伸を二人席に案内すると、オーダーを尋ねた。その際、視線が一瞬、伸の首筋に釘付けになった。それに気づかない伸ではない。ミネラルウォーターとミルクプリンのオーダーを受けてマスターの姿が店の奥に消えるのを確認すると、伸は首筋に手をあてた。いつもより少し熱をもっているだけで、他に異常はなかった。この街では首筋で人を判断する風習でもあるのだろうかと伸は思った。
五分後にマスターがやってきて、昭和初期から磨かれ続けて来たであろうグラスと、ミネラルウォーターのペットボトル、そして小さなガラスの器に入った乳白色のプリンを持ってきた。そしてまた、ちらりと伸の首筋に目をやると、ごゆっくりお過ごしくださいと言葉を残してカウンターに戻った。食欲はなかったが、ミネラルウォーターだけ注文するのは失礼だと思いメニューの中で食べられそうなものを選んだのだ。まず、グラスに注いだ水をゆっくりと飲んだ。雨が大地に染み渡るようにミネラルウォーターは伸の体を潤した。心地よかった。体は火照ったままだったが頭がすっきりした気がした。もう一口、ミネラルウォーターを飲んで、スプーンでミルクプリンをすくい口に運ぶ。やわらかな乳白色のデザートが口の中に落ち着いたとき、伸は飲み込むことができず口を押さえて下を向いた。ミネラルウォーターで落ち着いたはずの思考が一気にショートしそうになった。口の中に入った異物が口膣を這い回り、神経を甘く麻痺させて全身を犯す。この感覚を知っている。けれども思い出せない。それにも関わらず、身体の熱が一気にあがり、硬直する。何かがじわじわと伸の身体を変えるこの感覚に堪えられず、伸は失礼にあたるという理性より逃げたいという本能で口を押さえたままトイレに向かった。
結局、ミルクプリンをほとんど残してミネラルウォーターだけ飲んで伸は店を出た。会計のときにマスターから意味ありげな視線を受けて伸は後悔した。無理にプリンを頼む必要はなかったのだ。
それから夕暮れまで、伸は名前の分からない街を歩いた。駅の北側には給水塔があり公園があり公営団地のようなものがあった。南側は様子が一変し、畑と林が広がっていた。畑と畑の間にある大きな家はおそらく地主のものだろう。立派な門と庭があった。庭には黒猫が五匹、置物のように座っていて伸が庭の前で止まると十個の金色の目でこれ以上近付くなと警告してきた。伸はその警告に従うように街を出た。
伸が家に着いたのは夜の八時十五分だった。相変わらず身体は重く火照ったまま、意識はどこか朦朧としていた。いびつな体の感覚が拭えず、食欲もない。靴箱に靴を入れるのも忘れ靴を玄関に脱ぎ捨てて、魚が水を求めるように浴室に向かった。
いつもよりぬるめの温度設定でシャワーの栓を開いた。勢い良く飛び出した水の粒の中に伸は頭から飛び込んだ。髪の毛の一筋一筋から足の爪先までぬるい水が伸の体を覆う。張り詰めた神経がほぐれて気持ちいい、と思った直後、伸の体が再び硬直した。伸の体を癒すはずの水が、何か別のものに変わった。いや、変わったように感じられた。肌を滑り落ちて行く水の流れが、身体に焼き付いた甘く痺れる感触に変わり、伸は自分でも聞いたことのない声をあげていた。声は浴室に反響し、伸の耳に再び飛び込む。その声に誘われたようにゆっくりと肌の上を指が這う感触を呼び覚ました。首筋から鎖骨へ、その指は両の乳首をもてあそんだあと、脇腹なぞり、双丘と太腿の内側を撫でた。さらに伸の欲求に応じるように、暴かれた敏感な場所は生温かな舌で舐められ、かじられた。伸はシャワーを止めて、一度浴槽から出て鏡を出た。右耳の下の首筋にくっきりと痣が残っている。ふたたび浴槽の中に座り込んだ。手を伸ばし、バスタオルを取ると肩にかける。小刻みに震えていた。怖かったのではない。自分の身体を変えてしまった相手が当麻だとわかってしまった。けれども、そこに至るまでの記憶がない。それはまるで、当麻を思い浮かべながら自慰行為をしているようなものだ。けれども、伸は当麻にそんな感情は抱いていない。住み慣れない大都会で唯一過去を共有できる、気の置けない尊敬する仲間、そんな存在なのだ。
寝間着に着替え、ベッドに腰を降ろしたのは十時を過ぎたころだった。頭も体もくたくただった。伸はもうそのまま寝てしまおうと、最後の一杯の水をグラスに入れてベッドサイドに置いた。何も考えたくなかった。グラスに手を伸ばしたとき、スマートフォンが音をたてた。当麻からだった。通話ボタンを押すのに十秒かかり、それから耳にあてるのに五秒。
「伸、伸!?」
飛び込んで来た声に、伸の心臓が飛び跳ねた。身体から何かがよみがえろうとしていた。
「当麻、どうしたんだい」
「よかった」
耳から忍び込む声に、じわりと伸の体温があがった。スマートフォンを持つ手がわずかに震える。
「具合悪くなったりしてないかって思ってさ」
「僕の首筋の痣を残したのは君かい?」
当麻は答えなかった。そして伸の記憶がパチンと音を立てて弾けた。それまで決して開かなかったビンの蓋がするりと開いておよそ二十四時間前のことを思い出す。
バイトが終わったのが夜の八時だった。伸のバイト先は銀座のカフェだ。夜になるとアルコールも出すその店に大学一年から週三で入っている。本当は三年の半ばで辞める予定だったのだが、店長から直角に頭を下げられてずるずるとバイトを続けている。二年の間に伸を目当てに通う客も増え、そういう客に限って飲み物もつまみもゼロがひとつ多い品をオーダーする。伸からにじみ出る育ちの良さややわらかな物腰が、それを生まれつき持ち合わせていない、金だけを持て余す種類の人間を惹き付けたのだろう。店長も伸を手放すまいと必死だった。伸に性的な視線を投げかける客も結構な割合で存在した。そういう視線に伸は敏感だ。異性からも同性からも感じ取ったその視線は、割合的には同性の方が多かった。そういう客への対処方法を伸は三年間で徹底的に学習し身につけた。けれども、昨晩の客はあまりにもひどかった。その客も店の常連で伸に対して半ばストーカー的な行為をたびたび繰り返していた。店長に苦情を出したが相手の肩書きが悪かった。国会議員の秘書だったのだ。彼は何らかの手段を講じて伸の素性を調べ上げ就職活動をしていることを突き止めたらしい。伸がワイングラスをテーブルに置いたその腕を掴んで囁いた。「就職先なら紹介しよう。年収一千万は約束する」。もちろん君の身体とひきかえに、という言葉が含まれていることを伸は一瞬にして悟り、憤った。こみ上げる怒りを微笑みでカバーしてその場から立ち去り、店長に一言、「具合が悪いので帰ります」と言い残して店を出たのだ。
電車に乗っている間、伸の頭はどうにかなりそうだった。男性が男性に性的に興味を持つ、そういうセクシャルマイノリティの存在は知っている。だからこそ自分がその視線の対象になっても差別しないように、そしてやわらかく自分はその対象外であることを分かってもらう振る舞いを学習した。けれどもあの男は違った。金で「毛利伸」という存在を買おうと言ったのだ。自分をまるでスーパーに並ぶ一匹の魚のように扱おうとしたのだ。物腰はやわらかいが、本来、伸は矜持が高い。幼いころからそういう環境で育って来た。そしてその矜持の高さを秘めるようにやわらかく笑うことを覚えた。その分、怒りが一度あふれると留まることを知らない。自分でも抑えられなくなるのだ。
気が付くと缶ビール二本を持って当麻の家の扉を叩いていた。伸が当麻の家に訪れるのは珍しいことではない。週に一、二度、部屋掃除と食事の作り置きをかねて遊びに来ていた。当麻も仕事が忙しくなければ伸の家に夕飯を食べに来る。少年時代に一緒に過ごした時間は二人を特別な縁で結びつけて離さなかった。
「ずいぶん怒ってるな」
プルトップを開けて当麻はごくりと喉を鳴らした。それから理知的な目で伸に「何があった?」と問いかけた。伸は安心した。彼はいつも冷静だ。愚痴を零すときも非常に明晰に分析しながら宇宙語で不条理を批判する。当麻はいつも正しかった。だからこそ、互いに愚痴を零し合える。
「ひどい客がいたんだよ」
そうして伸は、今日、バイト先であった顛末を話した。うまく話すことができたかどうか自信はなかった。けれども、彼ならきっと話のピースを繋ぎ合わせて正解を出してくれるだろうと期待した。当麻は缶ビールを片手に、じっくりと伸の話を聞き終えてから一言言った。プログラムを書いているときのように無表情だった。
「バイト先で伸が笑うのがいけない」
「でもねえ、接客業だからね」
伸はグラスに入ったビールの最後の一口を飲み干してテーブルに置くと、大きく溜め息をついた。
「あんな男に抱かれるくらいなら、君に抱かれた方がよっぽどマシだよ」
耳が痛くなるような沈黙が部屋に降りた。それからぴったり一分後、当麻の両目が細められ右手の缶ビールが軋む音が静寂を破った。
彼はしごく冷静に怒っていた。もちろん、伸に対してだ。
伸は戸惑い、そして何が当麻を怒らせたのか考えたが分からない。
当麻は缶ビールをテーブルの上に置いて、伸を見据えた。冷ややかでそしてどこか寂しさをともなった視線だった。
「俺は伸が好きだから、そういうことを言われると、正直、腹が立つ」
「君が、僕を? それ、何の冗談だい?」
失敗した、と伸が気づく前に部屋の空気が一度下がった。ひやり、と肌ごしに当麻の本気の怒りが伝わって来る。当麻の視線から逃げるように目を逸らせた先に置き時計があった。いつの間にか日付を越えていた。
「だいたい、君が愛しているのは理論や数式だろう。仮に僕に興味があるとしたら、それは勘違いだよ」
「勝手にそう思うのは自由だ。でも俺が好きだというのは嘘じゃない。証明してやろうか」
「なんのつもりだい?」
「今から伸を抱く」
「当麻、酔ってる? 正気かい?」
「他の男に抱かれるよりマシ、なんだろう」
伸はようやく理解した。当麻の言葉の正しい意味と、すれ違っている会話の流れの原因を。
「あいにく、五分前に四月一日になった。エイプリルフールってやつだ。午前中に起きたことは『嘘でした』ですむ。伸が嫌なら忘れてしまえばいい」
そうして当麻は伸の腕を引き、自室のベッドでその身体を組み敷いた。
そもそも、朝、起きたときに気づくべきだったのだ。伸は酒には強い方だから缶ビール一本で酔いつぶれるはずがない。記憶がなくなるなどあり得ないのだ。
「おい、伸。聞いてるか?」
はっと意識の焦点が現実に引き戻されて伸は自分の居場所を確認した。自室のベッドの上だ。白くて清潔で、そして空っぽだった。不必要なものは一切置いていない、自分自身のような場所だ。
「朝、様子がおかしかったからさ」
「原因を作った君が言う言葉じゃないと思うけどな」
「じゃあ、全部思い出したんだな」
「君の言葉、ひとつひとつね」
伸は左手を胸にあてた。心臓がいつもの倍以上の早さで機能していた。このままの早さで動き続ければ、心臓は壊れてしまうだろう。
「もしかしたら伸を傷つけたかもしれない。でも、俺は嘘は言ってない」
「分かった、当麻。その答えはちゃんと次に会うときに話すから、今日はもう電話を切っていいかい」
「やっぱり具合が悪いのか」
「そうだね。じゃあ切るよ」
伸は通話ボタンを一方的に切った。スマートフォンをベッドサイドに置いてベッドに倒れ込んだ。両の手で自分の身体を抱き締める。
寝間着が汗を吸い込み、火照った肌に貼り付いていた。当麻の声のせいだった。あの声が身体に焼き付いた曖昧な記憶を鮮明によみがえらせた。節の高い指がなぞったあと、生暖かい舌が触れた感触、耳元で囁かれた言葉、それらすべてが一気に押し寄せて、神経が焼ききれそうに麻痺してしまったのだ。甘い麻酔が全身にまわり、理性を吹き飛ばして恍惚に近い感覚をもたらしたのだ。
どれくらい経ったころだろう。荒い呼吸が徐々に落ち着いて伸は重い体を持ち上げた。グラスの水を少し口にしてから、ベッドから降りて部屋の窓を開けた。早春の名残を含んだ夜風が部屋を吹き抜け、伸の身体に絡み付いた。もう怖くはなかった。むしろこの夜風が気持ちいいと思えるくらいだった。
当麻のことを知っていると思っていた。ささいな癖や食べ物の好み、好き嫌い、そして彼の過去。それはすべて思い上がりだったのだ。友人として一緒に過ごす時間の中、彼からは性的なものは一切感じられなかった。そもそも、そういう「性的なこと」に価値を見いだす種類の人物ではないと勘違いしていた。もし彼が自慰行為をするなら、その相手はきっと数式か理論なのだろうと。
当麻はいつも正しい。自分みたいに失敗したり悩んだりしない。でもそれは、自分の知っている一面でしかなかった。当麻は勘のいい自分に悟られないように、どこかで悩み、失敗し、欲情していたのだ。一人の人間として。
伸は夜風に抱かれながら考えた。当麻のことをどう思っているのだろうと。ひとつひとつ丁寧に記憶を辿りながら、矛盾に気づいた。昨晩、正確には今朝方、酒に酔ってはいなかった。ならば当麻に抱かれることを拒否できたはずだ。つまり、そういうことなのだ。頭よりも身体の方が、はるかに正直なのだ。
「まいったなあ」
ふんわりと呟いて、伸は首筋の痣にそっと手をあてた。抱き締めるように吹き込んでくる夜風の声を聞きながら、次に会うときの一言目を考えていた。
武装演舞弐で配布したペーパーに掲載した小説です。

