聖夜に架かる月の路
当麻の通うボストンの大学の研究室の一部屋に、モダンかつ豪奢なリースがとりつけられたのはクリスマスの丁度一週間前だった。リラックスルームとして使われるその部屋を彩るのは水墨で描かれた抽象画と過去の研究生が残していった落書きの跡だけだ。普段、膨大な情報を呼吸している研究生にとってはそれくらいの殺風景さが丁度良かった。
『クリスマスくらいは少し華やかにしましょうよ。』
赤みを帯びた長いブロンドの髪と異性の視線を釘付けにする体型の女性研究生は、水墨画の飾られている丁度反対側の白い壁にクリスマスリースを取り付けた。決して大きなものではない。小さな松ぼっくりを金のスプレーで色づけしたものを円形に繋ぎ合わせ、ところどころに赤い葉と小さな実を差し込んでいる。直径にして30センチ程度のものだ。照明の当たり具合で松ぼっくりの一部が花にも見えるし葉にも見える。白い壁に飾られたリースはひどく存在感を持って部屋をクリスマスカラーに染め上げた。
翌日の朝十時。人影のないリラックスルームで当麻はぼんやりとリースを眺めながらコーヒーを飲んでいた。当麻にとってクリスマスの賑わいは全くの興味の対象外だった。しかし、クリスマスが全世界的に与える経済効果と照明芸術の進歩には非常に興味があった。情報と経済とテクノロジーの進歩は三位一体だ。
三口目をすすりかけたとき、当麻はリースの真ん中の丸い穴に影のようなものが過ったのを見た。近付いて覗き込む。薄い水の膜がリースの穴で揺らいでいた。そこに人影が三つあった。五歳くらいの幼い少年とそれよりも少し年上の少女。それからおそらく二人の母親と思われる女性。テーブルいっぱいの料理とその真ん中のケーキをかこんで三人はおだやかな時間を過ごしているようだった。その中で少年は弾けるような笑い声をたてている。部屋の片隅には丁寧に飾り付けられたモミの木があり、当麻はよくできたクリスマスのコマーシャルのようだと思った。しかし、なぜ、と疑問を抱いたとき、少年が振り向いた。海の底に光る青いガラスのような不思議な色の瞳をしていた。
「伸?」
当麻は思わず声を漏らしてリースに顔を近づけた。パソコンがシャットダウンするように映像が消えた。
翌日から当麻は、リラックスルームに人がいないときを見計らってクリスマスリースを覗き込んだ。
リースの中で伸は毎日成長していた。そして必ず、彼のクリスマスの日の様子が映り込んでいるのだ。
小学生の低学年の伸は家族と過ごしていたが、高学年ともなると友人のクリスマス会に誘われて同級生と過ごしていた。当麻が彼に出会ったときに散々見た、あのやわらかに他者を拒む微笑みを浮かべて、社交的にクリスマスというイベントをこなしているようだった。中学生になると、クリスマスというイベントに女子が加わった。伸の微笑みの質には拍車がかかりそれに比例するように男女問わず、彼に話しかける人間は増えた。
日を追うごとに、当麻は言葉で把握しきれない痛みを覚えた。ちくり、とどこかを刺されるのだがどこを刺されたのかわからない、そういった類の痛みだ。
当麻には幼い頃にクリスマスを祝った経験がなかった。ハイスペックな頭脳を誇る両親が広告代理店の仕掛けたようなイベントを重視するはずもない。五歳の時に父にサンタクロースについて訪ねると「聖ニコラウスの足跡」という本を渡された。思えばそれが、唯一のクリスマスプレゼントだった。四人の仲間と出会うまでクリスマスというイベントを体験したことがなく、高校を出てすぐアメリカの大学に入った当麻はまた一人でクリスマスを過ごすことになった。アメリカではクリスマスは家族で過ごす。だから当麻は去年も一昨年も、クリスマスはずっと研究室で寝泊まりした。自宅よりも研究室の方が設備が整っていて、おまけに誰もいない分、気楽に過ごすことができた。
その一方で、伸は幼い頃からずっと他人と一緒にクリスマスを過ごしているようだった。そのうちの二回は、自分も一緒だった。彼の作った料理の味や、声や、言葉がよみがえった。そしてその時の感情も一緒に思い起こされた。クリスマスだからそういう豊かな気持ちになれたのか、それとも彼がいたからなのか分からない。ただ、人生でたった二回のクリスマスは天空を彩る星々のようにきらきらとした記憶として当麻の脳に刻み込まれていた。そしてその鮮やかな思い出は日本を離れると同時に丁寧に封印された。
二十四日の朝、当麻が研究室のドアを開くと誰もいなかった。机の上にはメッセージカードと菓子の詰まったアルミ缶が置かれてある。毎年のことなので当麻は気にせず、缶の中からクッキーの袋を三枚持ち出してコーヒーを入れるとリラックスルームへ向かった。
クリスマスリースが鎮座する静かな部屋で当麻はクッキーを一枚食べ終えた。甘いだけのアメリカのクッキーにはもう慣れていた。二枚目を食べようと袋をあけたとき、クリスマスリースの真ん中にやわらかな光が浮かんだ。当麻は開けかけの袋を放り出し、リースに駆け寄った。いつものように、リースの真ん中には水の膜が漲っている。違うとすればその表面がわずか、光の粒子でも含んでいるかのように輝いているのだ。水の膜にはやはり伸が映っていた。ずいぶんと成長していた。勘違いでなければ、最後に羽田で会ったときより少し大人びていた。顎が少しシャープになり、髪が短くなっていた。彼の周囲に誰かがいる気配はなく、顔をあげて正面を見つめていた。何か深く考えている、そんな雰囲気だった。どれくらい時間がたっただろうか。伸は携帯電話を取り出して操作し始めた。そこで当麻は、しごく当たり前の、いままですっかり見落としていた事実に気づいた。ボストンと日本の時差は十四時間。当麻の過ごす朝十時は、伸の過ごす午前零時。クリスマスイブの真夜中だ。その時間に誰かに電話をするとすれば、それはたとえば、彼女だとかそういう「ごく限られた、彼に選ばれた人間」のはずだ。当麻の心臓が跳ね上がった。脈拍は早くなり呼吸は浅くなる。病的なまでの身体症状が当麻を襲った。今まで思いも寄らなかった、もしくは無意識に目を逸らし続けていた事実が当麻の頭のメモリを支配した。ウイルスに感染したかのように。伸もいつか大人になって、彼女を作って、それから家族や子どもができて……。そこで思考は停止する。当麻にはその選択肢が存在しない。けれども家を継ぐ伸にとってそれは使命の一部として人生を動かしている。
息を止めてリースに釘付けになっている当麻の耳に、スマートフォンの着信音が届いた。ジャケットのポケットから取り出すと着信相手の名前も確かめず当麻は通話ボタンを押した。目の前の伸のことに頭のリソース使い過ぎて他のことを気にかける余裕は残っていなかった。
「はい、羽柴です。」
しばらく沈黙があった。何かを探るような沈黙だった。それから小さく笑う声が続く。
「なんだい、そんなにかしこまっちゃって。僕だよ。忙しくて忘れちゃった?」
今度は当麻が黙る番だった。いや、正確には事態を処理できず手から力が抜けて、スマートフォンを落としかけたのだ。滑り落ちかけたデバイスを持ち直し、当麻は久しく口に出していない名前を押し出した。
「伸、なのか?」
「他に誰がいるんだい? それとももう、僕の電話番号なんて削除しちゃった?」
当麻の視線がスマートフォンの液晶画面を走った。確かに「毛利伸」と表示されている。当麻は大きく息を吸った。それから目を閉じ、息を吐いた。ひどく熱い息だった。
「ああ、悪い。ちょっとうたた寝してた。」
「朝から? てっきり今起きてきたんだと思ったよ。」
それからまた、くすくすと何かを含んだような小さな笑い声が続いた。
「今、こっちはきれいな満月なんだ。」
当麻の頭の中にNOAOの月齢のデータと三日前のチームメイトの言葉が同時にロードされた。『今年のクリスマスはフルムーンで、こんなハッピーなプレゼント、次は19年後よ』。
「僕の部屋に姉さんがくれたクリスマスリースがあるんだ。今、ガラスを通して満月の光がぴったりとリースの真ん中に差し込んでいる。ガラスにはリースが映っていてその真ん中にさっきから君がいて、ずっと僕の方を見ているんだ。何か言いたそうな雰囲気だったから気になって電話してみたんだけど。」
当麻はスマートフォンから目を離してリースを見た。淡い金色の光に包まれて、伸が携帯電話で話している。何が起きているのか当麻は持てる全ての処理能力を使い考えたが答えが出ない。今の状況を把握するには、当麻自身のOSを全く別のものにするしかなかった。しかし残念ながら、この不可思議な状況を解明するためのやわらかなOSは開発されていない。だから当麻は、考えるのをやめた。すると、たったひとつ、あたたかい、という感覚が体を包み込んだ。
「今はそっちは朝なんだよね?」
「ああ、十時を過ぎたくらいだな。伸の方はクリスマスイブの真夜中だろ。」
伸はすぐには答えず、当麻の言葉を吟味するような空白の時間を置いた。
「元気にしてるかい? 不摂生な食生活を送ってないかちょっと心配だな。」
「ハンバーガーにだってレタスは入ってるし、フライドポテトはじゃがいもだろ?」
「それは野菜とは言わない。」
言葉が少し尖って、しかし、次の瞬間には電波ごしにぬくもりが伝わるくらいのあまやかな声が当麻の耳をくすぐった。
「元気そうでよかった。」
当麻の呼吸が一瞬止まった。心臓の音の乱れと風邪の初期症状のような微熱を当麻は自覚した。
「俺が行方不明だって噂がネットで流れたのか?」
「そうじゃないよ。そう……一週間ほど前からかな。視線を感じていたんだ。誰かに見られているような気がして振り向くんだけど、誰もいない。三日くらい経ったころ、なんだか視線の持ち主に覚えがあるような気がしてね。気障で冷たいんだけど、本当は淋しがりで責任感が強い。そんな視線の持ち主、僕はひとりしか知らない。」
当麻は左手で後頭部を掻いた。参った、そういう時の癖だ。OSが機能しない今の当麻は小学生並みの語彙しか発音できない。もっとも、彼自身の小学生並みではあるが。
「今晩、誰かと過ごす予定はあるのかい?」
「特にない。そもそもこっちはクリスマスは家族で過ごすからな。研究室も空っぽになる。で、ほとんどの奴らは年が明けて半ばまで帰って来ない。」
「もしかして、アメリカに行ってからずっとそうだったのかい?」
「まあ、そういうお国柄ってやつだな。」
ふう、と溜め息が電波越しに漏れた。湿度のある音が当麻の体温をさらに上げた。
「じゃあ、もし、来年も予定がないようだったらこっちに帰って来なよ。」
「帰るっていってもなあ。俺の家、今、ライフライン止めてるからいろいろ面倒だし……」
「違うよ、僕の家。」
当麻は耳に届いた言葉を三度、反芻した。どの角度から聞いても、伸が、来年のクリスマス、彼の家に自分を招いている、という意味にしか聞こえなかった。アメリカ生活に慣れ過ぎて、日本語の文脈を忘れてしまったのかもしれないと当麻は心配になった。そうでもなければ、伸が言っているのは「来年のクリスマス、一緒に過ごさないか?」という言葉に集約されてしまうからだ。そんな都合のいい話があるわけがない。
「去年までは姉さんのところでクリスマスパーティの料理の準備を手伝ってたんだけど、やっぱり姉さんの家族は姉さんの家族だから、なんとなく遠慮しちゃって。今年は断ったんだ。」
「伸だって家族じゃないか。」
「姉さんも義兄さんも甥っ子も好きだけど、やっぱり家族とは違うよ。」
「俺にはさっぱりわからん。」
「そうだね。でもやっぱりクリスマスっていろんな料理を作りたくなるんだ。テレビや雑誌の罪は重いなっていつも思う。」
「罪については同意だな。」
そう言った当麻の口に唾液が溢れた。少年時代に食べたいくつもの料理の味が舌によみがえった。恐ろしいほどの空腹感を覚えた。
「でも作っても、食べてくれる人がいないと困るだろう? 君ぐらい食べてくれる人がいれば、僕もやりがいがあるんだ。」
「なるほど。」
当麻はスマートフォンを握る手に力を込めた。星の光が大気を通して揺らぐように当麻の手も少し震えていた。
「来年のクリスマスは伸の料理を食べに帰るか。」
「研究室で不摂生しながら研究するより百倍、世界に貢献できると思うけどね。」
「これからはコーヒーじゃなくて野菜ジュースを飲む回数を増やすさ。」
伸が声をたてて笑った。幼さの残る無邪気な声だった。
「じゃあ僕はそろそろ布団に入るよ。君と違って早寝早起きなんだ。」
「ああ、あまり連絡できないが遼たちによろしく言っておいてくれ。」
「わかった。じゃあ、おやすみ。」
「……Good Night.」
二秒の空白の時間があって通話が切れた。
クリスマスリースの真ん中の淡い金色の光も伸の姿も消えていた。全ては幻だったとでもいうように一気に現実が押し寄せて来た。静寂、壁の落書き、白い部屋、コーヒーの匂い、ひやりと乾いた空気の感触。当麻は慌ててスマートフォンの着信履歴を見た。「毛利伸」の名前がデータとして残っていた。安心した当麻は椅子に座るとマグカップに口付けた。コーヒー豆の匂いがゆっくりと脳神経を満たし止まっていたOSが動き始めた。
広告代理店の喧伝するクリスマスとやらに踊らされるのは不快である。けれども、その名前に便乗して伸の料理を食べられるのは悪くない。一年後に想いを馳せる。丁寧に盛りつけられた数々の料理皿、お酒、それから、あのやわらかで甘い声。そこで紡ぎ出される時間は間違いなく心地いいものだろう。柳生邸時代に味わったクリスマスのような、あたたかな時間がもう一度やってくる。
そうして当麻は、体の奥の熱い疼きから目を逸らすように一気にコーヒーを飲み干すと研究室に戻った。
これを書くために吉祥寺の花屋にクリスマスリースの取材に行きました(謎 続きはブログにて。今年一年、ありがとうございました。

