天水琴(2)



 二度桜が散った。
 丁寧に、そして冷酷に季節は過ぎて、俺は留年することなく大学三年に進級した。もちろん、同じ年に伸は大学四年に進級した。
 二年の間に、伸はバイト先を四度変えた。
 出会ったときに働いていた珈琲店(訪ねてみると、ひどく古めかしい喫茶店でクラッシック音楽のアナログレコードが店内の壁をぎっしり埋めており、旧式のアナログプレイヤーがショパンの舟歌を奏でていた)を二年の夏でやめた。その後、下北沢のライブハウスのスタッフ、高田馬場のジャズ喫茶、渋谷のバー、そして今は新宿のハワイアンカフェで働いている。バイト先を変えたことをいちいち言わなかったが、新しいバイト先にはいるとき、伸は靴を新調するので、靴を新調した日の夕食の席でバイトの話をふると、「新しいバイト先」について伸は俺に知らせざるを得なかった。気がつくと、伸のバイト先にはいつもなにかしらの音楽がかかっていた。偶然なのか意図したことなのか気になったが、なぜか聞いてはいけない気がして触れなかった。ただ、何度もバイト先を変えることがあまりにも伸らしくないと思い、俺が二年の夏、伸がジャズ喫茶でバイトを始めたその日に尋ねたことがある。
「そうだねえ。」
 食後の茶を飲む手を止めて、伸は少し、首を傾げた。
「まず最初に、僕はどのバイト先も半年以上の契約をしていないんだよ。続く気がしないから。それでよければ雇ってくださいって、最初から言ってある。」
「続く気がしない? お前がか?」
「妙な言いがかりだな。多分、僕、飽きっぽいんだよ。何事に対しても、ね。」
 伸は微笑み、例の、やわらかすぎて破ることのできない薄い膜を張った。それは彼自身も意図しないやんわりとした拒絶だ。
 一緒に暮らし始めて少年の頃には気づかなかった伸の癖をいくつか知った。伸は決して「NO」と言わない。彼の選択肢は「YES」か「曖昧に微笑む」かしかなく後者は「NO」の代用品だった。伸は他者に対して言葉で拒絶することができないようだった。だからこの時も、彼は曖昧に微笑むことによって、俺の質問に対してまっすぐ答えることを拒否した。だから俺もそれ以上、訊かなかった。別々に暮らしていれば、もしかしたらその理由を訊いたかもしれない。一緒に暮らしているからこそ、互いの距離をとらなくてはならないというルールは半年も過ぎたころに肌で覚えた。
 他にも伸には妙な癖があった。二、三ヶ月に一度、数日の間、行方不明になるのだ。
 初めてその事件、というより「現象」に出くわしたのは大学一年の秋の終わりだった。
 その日の朝、伸は何の変わりもないようだった。いや、なかった。フレンチトーストの焦げ目はいつもと変わらず、サラダに添えてある半熟卵の黄味のとろけ具合も同じだったのだから、あの朝の伸はいつもの伸のはずだった。ところが、夜九時を過ぎても伸は家に帰って来なかった。特に飲み会に参加するという話も聞いていなかったのでさすがに心配になり、携帯にメールを送った。三十分しても返信はなく、今度は直接、電話をかけてみた。電源が切られていた。
 何か事件にでも巻き込まれてしまったのではないか、そんな昏い予感に俺は軽い憤りすら覚えた。まず、冷静になれ。そう自分に言い聞かせて何か手がかりを考える。そう、手がかり。とりあえず、伸の部屋に何かないだろうかと思い滅多に入ることのない伸の部屋に入った。
 ベッドと勉強机と本棚と小さな箪笥。伸の部屋にはそれしかない。そしてそれぞれの家具には最低限のものしか置かれておらず、無愛想なくらいに整頓されていた。不要なものが全くないその部屋の中で、勉強机の上に置かれた一枚の白い紙は、スパイ映画の中で使われる暗号が記された極秘メモに見えた。手に取って文字を目で追う。
「明後日には帰る。冷凍庫に作りおきのおかずがあるからレンジで温めて食べること。伸」
 俺は紙を机に戻して盛大に溜め息をついた。
 とりあえず、事件に巻き込まれているわけではないらしい。緊張で強ばっていた体から一気に力が抜けて伸のベッドに仰向けにダイブした。
 しかしなぜ、こんなに突然に、行く先も告げずに出て行ってしまったのだろう。何か怒らせることでもしたのだろうか。ここ数日の記憶を遡ってみたが、全く心当たりがない。まあ、帰って来てから聞いてみればいいことだ。そう自分に言い聞かせて、俺はリビングに戻って冷凍庫を開けた。ぎっしりとタッパが詰め込まれていた。
 二日後の夜八時過ぎ、伸はなにごともなかったように「ただいま」と戻って来た。
 大学を終えてバイト先から帰って来た日と同じようにキッチンに立って料理の準備を始めたので、俺は慌てて伸の腕を掴んで言った。
「おい、伸。どこに行ってたんだ?」
 ふと、伸の体から妙な匂いがすることに気づいた。どこかで嗅いだことがある。潮の香りだった。
 伸は少し迷惑そうな顔をしてフライパンに伸ばしかけた手を止めた。
「それ、当麻に言わなきゃならないこと?」
「いや、お前のプライベートに立ち入るつもりじゃない。ただ心配になったからさ。ほら、もしかしたら俺がお前に迷惑かけて、怒って出て行ったのかなーとか。」
「そんなことで出て行くなら、最初からシェアハウスなんてしないよ。」
 そこで一旦、伸は言葉をおいて、帰って来てから初めて俺の目を見た。
「海に行ってたんだよ。」
「海って……もう寒いし入れるような海水温じゃないだろう。」
 不思議なことに、伸の口から「海」という言葉がでると、彼が海を泳いでいる姿しか想像できなかった。「海へ行く」と言っても、単に海沿いの街に行くとか、海を眺めるとか、いろいろあるにもかかわらず、彼が「海へ行く」ということはすなわち「海で泳ぐのだ」という妙な先入観に囚われていた。事実、彼の体からは潮の香りがしたのだ。
「天空の君は操る大気の気温が関係するのかい? しないだろう? それと同じだよ、水滸の僕にとって海水温なんて関係ないんだよ。水があるなら地球上のどこだって泳げるよ。」
 またあの、薄い膜を張って伸は微笑んだ。
「真冬の海でもか?」
「もちろん。北極海でも泳げるさ。もしかしたら水たまりでも泳げるかもね。」
 軽く受け流す流すことで、伸は海へ行く本当の理由を言うことを避けたようだった。だから俺もその理由を訊かなかった。
 それ以降、伸は二、三ヶ月に一度、数日の間、行方不明になった。帰って来たその日はいつも、伸の体からは俺の嗅覚に慣れない潮の香りが漂っていた。


*******************************************************

次回予告


大学二年の夏に、俺と伸の関係を決定的に変えてしまう事件が起きた。

---------「飲み会の席で……君との関係を聞かれた。」

柴誕、ギリギリになってしまいました〜〜。しかも前半だけって(汗 本当にすみません! 新しい設定を書き始めると前振りが長くなりますね。ここまでがっつり(?)当麻一人称は初めてで楽しかったです。次回11月になります。本当にすみません(涙 詳しくはブログにて。