天水琴 (前編)
「あくまでも『シェアハウス』だよ。」
『シェアハウス』という言葉に力を込めて伸は言うと、睨むように俺を見てからマグカップのビールを一気に飲み干してテーブルに置いた。
「シェアハウスで結構。なるべく伸には迷惑かけないようにするからさ。部屋ももちろん、別々でいい。」
「当たり前だろ。」
俺と伸のこの話のはじまりは、約二年前に遡る。
高校三年に進級した春、伸は一足早く東京の大学に進学した。三田にある有名な大学だ。進学祝いに久しぶりに純を含む六人がナスティの家に押し掛けて盛大に祝賀会を開いた。伸は喜びながらも俺たち四人にきっちりと釘をさした。
「君たちはこれから受験生なんだからね。気を抜いちゃだめだよ。」
まったくもって、彼らしい発言だった。
その約一年後、俺は渋谷に近い大学の推薦合格通知を受けとった。とりたてて有名でもない、大阪に住んでいる人間が聞けばその存在すら認められない平凡な大学だ。過去に一度、箱根駅伝で三位をとったことだけが、遺物と成り果てた記念碑だった。
多々ある大学、俺にとっては選び放題の全国の大学の中からその変哲もない大学を選んだのには深い訳があった。この学校の立地と校風である。「自由と自立」、その校訓の通り、この大学では履修する授業の初日に出席していてかつ、前期後期の最終日に行われるテスト及びレポート提出において「優」をとってさえいれば、その授業の単位がとれるのだ。十代後半から二十代前半の四年間の貴重な時間を、テキストに載っている言葉を黒板に羅列するだけの教授と、勉強する気のない学生に混じって、冷たい椅子に座り四年間を過ごす……それは俺にとって犯罪的に苦痛なことだと高校三年の春に思い至った。時間は有限なのである。金は頭の使い方次第でいくらでも稼ぐことができるが、時間は全ての人間の上に平等にやってきて何事もささやかずそっと過ぎ去って行く、そして二度と帰って来ない。それくらいに時間は人に冷徹なのだ。だから、大切に、そして丁寧に。プライドの高い女性を扱うよりもっともっと、繊細に気を配らなくてはならない。
そしてなによりも、伸の通う大学にほど近かった。
それが俺の大学選びの理由だ。この大学であれば、四年間、大学に縛られなくてもすむのだ。
高校の卒業式には興味がなかったから、俺は三月の頭には上京して下北沢駅近くの古いアパートに仮住まいを持った。荷物は少なかったから二日で引っ越しの片付けは終わった。その日に伸に連絡をすると、週末に顔を見せると言って電話を切った。
「その、とても言いにくいんだけれど。」
約束通り、伸は週末にやって来て、差し入れに持ってきたペットボトルの中のジャスミンティをマグカップに注いで口にした。家には飲み物を入れるものはマグカップひとつしかなかったので、俺はコーラをペットボトルごしに飲んだ。
「君の偏差値に似合わない大学に入ったね。僕の知る限り、特に有名な学科があるわけでもなかったと思うんだけど。」
彼は慎重に言葉を選んだようだ。何事も蔑むことを嫌う彼らしい配慮だと思った。
「校風さ。」
「校風?」
「『自由と自立』。」
伸は三度瞬きしたあと、マグカップに伸ばしかけた手を止めて不思議そうに俺を見た。
「ごめん、君が校風なんていう情緒的な理由で学校を選ぶと思えないな。」
「ひどいな。俺だって映画を見て泣くこともあるさ。」
「君の泣く映画というのは、ラストに計算式が解ける映画だろう?」
「伸は俺のことはなんでも知ってるんだな。」
「僕じゃなくても分かるよ。」
それからジャスミンティで喉をうるおした伸はぐるりと部屋を見回した。
「しかしなんだって、こんな……年季のはいったアパートを借りたんだい?」
確かに古いアパートだった。木造モルタル造りの二階建ての南向き物件。俺の産まれる三十年前に建てられたこのアパートは同じ1Kの新築のアパートの四分の一の値段の賃貸料だった。八部屋あるうちの三部屋は空いており、残り四部屋の住人を俺は一度もみかけたことがなかった。賃貸会社を通して借りたアパートだから家主の名前は分かっても会う必要はなかったし、こんな怪しげなアパートの住人に近付く人間もそうそういないだろう。俺にとっては好都合の物件だった。
「まあ、一時の仮住まいのつもりだからさ。三ヶ月しか契約してない。」
「仮住まい? また引っ越すのかい?」
俺はちょっとだけ猫背を正して、ペットボトルをテーブルに置いた。正面から真直ぐに伸を見て大きく息を吸う。季節外れのぬるい汗が背中を伝った。
「伸、ちょっと相談があるんだけど。」
「相談? 僕でよければ。」
「一緒に住まないか?」
ゆうに一分以上黙ってから、伸は子どもの駄々に付き合うときのような曖昧な笑みを浮かべた。
「どんな冗談を言うかと思えば。」
「いや、本気だし。」
「じゃあ余計に笑えないね。」
マグカップをテーブルの上に置いて、伸は非常に真面目な顔つきで再び部屋を見渡した。
「ここで住むという訳じゃなくて、ちゃんと広い部屋を借りて……」
「ああ、僕ね、君には言ってなかったけど彼女がいるんだよ。大学で出会ったんだ。時々、家にも遊びに来るし、もちろん僕も彼女の家に遊びに行くよ。だから君と住むなんてありえない。」
「へえ。」
俺は伸の睫が1ミリ震えたのを見逃さなかった。嘘をつくとき、真面目な人間ほど体のどこかにいつもと違う動きが現れる。
「じゃあ、仕方ないな。伸と住めば家事を押し付けられると思ったんだがな。」
「相変わらず君は調子いいねえ。」
呆れたように言って、伸は腕を組んだ。
「そんな理由でこのアパートを借りたんなら、さっさともう少し防犯設備の整った部屋に引っ越しなよ。僕が君と一緒に住むなんてありえないんだからさ。」
「なんだか俺に冷たいなあ。」
「君が勘違いしているだけだよ。」
もうこの話はここまで、とでも言うように伸は立ち上がるとキッチンに向かった。向かうといっても三歩もあるけば事足りる。
伸はまず冷蔵庫を開けて中身をチェックした。それから電子レンジと一口グリルをじっくりと眺めてから、換気扇の位置を確かめた。ユニットバスを覗き込み、ベランダに出て足を止めた。
「当麻、洗濯機は?」
「今取り寄せ中。この建物、古いだろう? 出回っている洗濯機だと大きさが合わなくてさ。」
「じゃあ今はコインランドリーなんだ?」
「そう。」
とりあえず、それらしく誤摩化しておいた。俺は三ヶ月以内にこの部屋を退去し、広めの部屋を借りて伸と住む予定でこの部屋を契約したのだ。小さな洗濯機など必要ない。
「冷蔵庫と電子レンジは前の家から持ってきたの?」
「ああ、まだ十分使えたし。」
これも嘘だ。とりあえず、中古で揃えた。
「冷蔵庫に飲み物以外ほとんど何も入ってなかったけど、食事はどうしてるの?」
「大体コンビニ。あとは吉野家。たまにココイチ。ココイチはライス400g増しで甘口。」
「ひどいな。」
投げ捨てるように伸は言って、もう一度冷蔵庫の扉を開けて中を見てから、盛大に溜め息をついた。
それから俺は延々と二時間半、野菜を食べることと自炊の大切さの講義を伸からうけるハメになった。
講義が終わる頃にはとっくに日が暮れていた。夜が一番長い冬至が十二月の終わりで、光の長さが長くなったと多くの人間が感じるのが二月の頭だ。その翌月の三月はさほど陽は長くない。
「伸、夕飯食ってけよ。」
と言うと、伸は俺から少し視線を逸らした。
「帰ろうと思ってたんだけど。」
「いつも一人飯で寂しいんだよ。ちょっと付き合ってくれてもいいだろ?」
「外食は嫌だよ。東京の人混みの中でご飯を食べるのにまだ慣れてないんだ。」
「そうかあ。じゃあ、コンビニ飯か出前だな。」
「当麻。」
今度はきちんと、伸の目は俺に焦点を合わせていた。
「君、本当に一人でご飯を食べるのが寂しいって思ってる?」
「思ってる。」
「ふうん。」
真意を探るように伸は俺の目をじっと見つめて、一人で納得して頷いた。
「コンビニでいいよ。」
それから俺たちは歩いて五分のところにあるコンビニへと向かった。
俺がいつものようにおにぎり三つと豚焼肉弁当をカゴに入れようとすると、伸が隣から手を伸ばして豚焼肉弁当を止めた。
「これはだめ。」
「は?」
「野菜がひとつもはいってないじゃないか。さっきの僕の話、本当に聞いてた?」
俺の手から豚焼肉弁当を取り上げて元の位置に戻した伸は、じっくりと検分するように弁当の棚を眺めてから幕の内弁当を二つと、隣の総菜売り場からサラダを二つ、カゴに入れた。
「肉、食いたいんだけど。」
「君の話じゃ毎日のように食べてるんだろ? 今日くらいはちゃんと食事しなよ。見てる僕が心配になる。」
「心配、ねえ。」
じゃあ、あの頃のように料理を作ってくれよ、とは言わなかった。留めておいた。そういうことを公衆の面前で言われることを伸は特に嫌うであろうことはなんとなく予測できた。伸は俺と違い世間の目と常識を非常に気にするタイプだ。
夕飯を確保したところでドリンクの並ぶショーケースの前に移動する。
「伸、何飲む?」
「お茶でいいよ。」
「酒は?」
「未成年だろ。あと、僕、お酒は飲めないから。」
「へえ。もったいない。」
酒は食事の最高の調味料だ。多少まずい弁当でも酒があればそこそこ満足できる。いつも発泡酒を数本冷蔵庫に常備しているが、昨晩に飲み切ってしまったので補充のつもりで青地に麦が描かれた缶に手を伸ばしたとき。
「発泡酒なんだ。」
と隣で伸が呟いた。どうやら無意識だったらしく、少しきまりの悪そうな顔をして発泡酒の棚から目を逸らした。
「伸も呑むか?」
伸はゆるく首を振った。
「まずくて呑めない。第一、それ、ビールじゃないだろ?」
「じゃあ、ビールなら呑めるのか?」
伸は俯いて、しばらく床に穴が開くんじゃないかと思うくらい熱心に睨みつけていた。時間だけが過ぎて行く。あまりにも長い沈黙に、暇を持て余しているコンビニの店員がこちらをちらちらと見る視線に気づいて俺は降参した。
「じゃあ、ビール買ってくから。茶もな。それでいいだろ。」
伸はようやく顔をあげた。
「言っておくけど、呑めないからね。」
「分かってるって。」
俺は金地に七福神の一人が描かれている282円の缶ビールを四本、カゴに入れた。
テレビを国営放送に切り替えると、ちょうど七時のニュースの時間だった。ヨーロッパのどこかの小さな国でゲイの議員が当選し、世界のLGBTの団体の代表が賞賛のコメントを送っていた。残念ながら、この日本という先進国ではLGBTの議員どころか存在すら社会的には抹消されている。時代を遡ればこの国の同性愛文化はキリスト教圏のそれよりも豊かだったのだが、どこをどう間違えたのか、セクシュアリティに関しては今では世界から置いてきぼりである。
そんなことを考えながら久しぶりに呑むビールの味は、やはりほんの少しだけ発泡酒と違っていた。美味しいかどうか、といわれればよく分からない。味が違うというだけだ。軽く気分が良くなるなら発泡酒もビールもさして変わりはない。違うのは値段だけだ。俺は飲食物の味の善し悪し吟味できる舌は持ち合わせていない。
「ねえ、当麻。」
幕の内弁当をつつきながら伸が訊いてきた。
「なんだ?」
「こういうのを訊くのも気がひけるんだけど、どうして君はあの大学を選んだんだい? 君が、というよりも君の頭の出来で選ぶところではないと思うんだ。」
「だから、校風が……」
「そういう問題じゃないだろう? 何を学びたくてあの大学を選んだんだい?」
問い詰められるであろうと予測していたことを伸は静かに訊いてきた。生真面目な彼にとって、大学とは学びの場であり学ぶことによって成長する場所なのだと思っているのだろう。そんな彼に不純な動機を知られては元も子もない。
そういう訳で俺は、親父から一度聞いたことのある、とある教授をネタに、ひとつフィクションをでっちあげるハメになった。
「実はな、あの大学にはすごい教授がいるんだ。」
「すごい教授?」
「三十年ほど前にな、宇宙の誕生から死を年表にしたんだよ。まだその当時、存在すら認められていなかったファーストスターについても論じた。」
「ファーストスター? なんだい、それ。」
「俺らは夜空を見上げたときに星は無数にあるものだと認識しているし、それが過去も未来も永遠のもののように感じるだろう? まあ、人類にとっちゃそうかもしれんが、宇宙の歴史からみると瞬きの前触れに目の筋肉が動く、そんな短い間だ。無数にある星だって、宇宙が生まれたときは数少なかった。その中で、一番最初にできた星、それが『ファーストスター』って呼ばれている。」
「へえ。すごい。」
伸は純粋に感動したらしい。先ほどまでの少し険をはらんだ声ではなく、彼独特のふわりと透き通った声で独り言のようにそう言った。
「まあ、これは三十年前の話だからな。まだ観測技術も遅れていたし、当時、教授は世界の宇宙研究の論壇から散々、バッシングを受けた。それでもともと人嫌いの教授は研究者をやめようと思ったらしいんだが、そこを今の大学の学長が引き止めて教員職についてる。二年から選べる物理科学研究科の宇宙科学専攻で教鞭をとっていて、一年に一人、一番成績のいいやつの卒論の担当につく。俺はその教授と話がしたい。」
「なるほど。当麻らしい。」
彼は深く頷いて、俺を正面に捉えた。
「君ならその教授と話があいそうだ。」
「何、伸の中の俺のイメージってそんな感じなのかよ。」
「褒めてるんだよ。人より何十歩も先を歩いてる。だから他人に理解されない。そして理解される努力もしない。なぜならそれほど他人を気にしていないから。」
「散々な言われようだな。」
「だから褒めてるんだよ。」
伸が弁当の煮物に箸を伸ばしたので、俺もつられて、あまり好きではない人参の煮物に箸を伸ばした。ただ甘いだけだった。
それから俺たちは、ニュースをBGMに黙々と弁当を食べ終わり、俺は冷蔵庫から二本目のビールを持ってきた。プルトップを開ける瞬間、伸がじっとこちらを見ているのに気づいた。
「どうした?」
「なんでもない。」
伸はマグカップに残りの茶を注ぎながら答えた。
ニュースが終わり、大河ドラマの派手なオープニングが流れ始める。俺はこのドラマをたいそう面白く見ていた。なぜなら、時代考証があまりにもあやふやで、ツッコミどころ満載なのである。そしてなによりも、国営放送のドラマにはCMがない。素晴らしいことだ。物語を理解するのにCMという雑音ほどやっかいなものはない。今日は主役が幼なじみと二十年ぶりに再会する回だ。主役の家臣が、屋敷の渡り廊下を駆け抜けるシーンからドラマが始まった。
「へえ、当麻がドラマ見るなんて知らなかった。」
伸も一緒にテレビを見ている。ちらと観察すると、わりと興味深そうな表情だった。
「そうか? 民放のドラマも見るぞ。恋愛ドラマじゃないやつな。俳優もそこそこ知ってる。ほら、このドラマの主役の腹心の筆頭家臣役な、時代劇だとヅラかぶってるから分かり辛いけど、今フジでやってる刑事ドラマに出てる。」
「……君、意外と暇人なんだね。」
「受験勉強しなかったからなあ。」
「ひどい嫌みだ。」
言いながら伸はマグカップを覗き込んだ。その視線はすっと俺の手の缶ビールに移った。
「もしかして茶、もうないのか?」
「うん、全部飲んじゃった。」
それから俺は、しばしの間、どういう言葉と態度が伸を怒らせないかを考えて、結局、もっとも単純な方法を選んだ。
「呑むか?」
まだ半分以上残っている金色の缶ビールを、伸の目の高さに移した。伸はまるで世界の終わりについて考えるような深刻な顔付きでしばらく缶ビールを眺めてから頷いた。
「グラスがなくて悪いな。」
「別にいいよ。」
彼はシンクでマグカップを洗うと、俺の前に差し出した。
「少しでいいからね。あまり呑めないから。」
「ああ、少し、な。」
俺はマグカップの半分だけ、ビールを注いだ。伸はマグカップに口をつけると、声に出さず唇の動きだけで「おいしい」と言った。
なるほど、と俺は納得した。
伸は「自称・呑めない」だ。おぼっちゃまの彼は未成年は公然とお酒を呑んではいけないと思っているのだろう。ただ、おそらく、人あたりのいい彼は新歓コンパなどでいくらかは呑まされたのだ。そしてお酒の味を知ってしまたっものの、やはり「未成年は呑んでははいけない」という常識に囚われて「自称・呑めない」を掲げているのだ。本当に呑めない人間というのは、酒の匂いも嫌う。発泡酒とビールの味の違いが分かる伸はおそらく俺より酒に強いのかもしれない。
「幼なじみと再会して、お酒を酌み交わして終わっちゃったね。」
ドラマが始まって四十五分後、伸はぽつりと感想を述べた。口調に少し、憤りが混じっている。
「今回は中だるみ回だったな。一年もやってるとこういう回もあるさ。ちなみにあの幼なじみと主人公は、史実上そんなに仲は良くなかった。」
「そうなんだ?」
「だからフィクションは面白い。歴史にしろ事件にしろ、作り手の意図が透けて見える。」
伸は自分の体を抱え込むように腕を組んで、苦い笑みを浮かべた。
「やっぱり君らしい。そんなの物語を楽しむとは言わないんじゃない?」
「そうか?」
言葉のついでに伸のマグカップの中を覗くと空だった。その時、俺の脳ではいつもの十倍くらいの処理速度で物事が判断され、ついでに運命の女神とやらの後ろ髪を掴むことに成功した。
「茶、500じゃなくて2リットルのやつ、買っておけばよかったな。」
「いいよ、気にしないで。」
「ビールならあるぞ。」
組んだ腕をほどいて、伸はマグカップの中を見つめた。それからゆっくりと俺の手の中の缶ビールを見て、もう一度、マグカップに視線を戻した。
「今、当麻が呑んでるのを分けてもらうよ。」
「悪い、あと二口くらいしかない。」
俺の缶ビールは、まだ半分以上残っている。これがグラスなら嘘もいいところだが缶ビールの中身と俺の戦略は金色のアルミニウムに包まれている。
「いいよ、三本目、取ってくるからそれ呑めよ。余ったら俺が呑むから。」
彼はしばし考えて頷くと、正座をしていた足を崩した。俺は冷蔵庫から三本目の缶ビールを出してきて、伸の前に置いた。伸は自分でプルトップをあけてマグカップに注いだ。半分ではなく、八分目くらいまで。そこで俺はこの勝負の勝ちを確信した。
ドラマ後の十五分のニュースの間、伸は三度、マグカップに口付けた。横目でマグカップの中の残りを確かめる。半分も残っていなかった。だから俺は、ここが勝負所だと判断して、背筋を伸ばした。
「なあ、伸。」
「ん?」
俺の目に狂いがなければ、そのときの伸は俺たち四人が今まで見たことのない「なまめかしい」貌付きをしていた。酒で頬が上気しているわけでもなかったし、目元が潤んでいるわけでもなかった。彼自身の存在が、匂い立つように「なまめかしかった」のだ。
「ナスティのところでわいわい過ごしてたときあったろ。」
「うん。」
「あのとき、俺、すごい楽しかったんだよ。基本、一人が好きだけど、やっぱ飯のときぐらいは人と話したい。」
彼からすっと「なまめかしさ」が消えた。そしてやわらかすぎて破ることのできない薄い膜を張った。
「だからさ、一緒に住んでくれないか。」
伸はうつむいて自分の右手を見つめていた。手相でも見るようにしばらく熱心に眺めて、顔をあげる。
「……君が、そう言うなら。」
シャボン玉がしゃべったような声だった。
こうして俺は、『幻の彼女』の存在を抹消して伸と暮らす権利を手に入れた。三ヶ月程度かかると思っていた交渉は八時間に短縮された。これが外交なら素晴らしい交渉技術だ。政治なら外務省で、警察なら交渉課で、十分にやっていけるスキルと言っていい。……ただし、相手は俺が興味のある人間に限る。
俺は翌日、仮住まいのアパートの退去届を賃貸会社に送り、めぼしい物件を探し始めた。「情報を集めるのは君の方が得意だろう?」と伸は物件探しを俺に一任した。但し、『一人一部屋使えること』『キッチンが整っていること』『学生相応の値段であること』という三点の条件を提示した。三点目、値段の問題さえなければ山手線沿線にいくらでも見つかったが、『学生相応の値段』という問題をクリアするのがなかなか難しかった。結局、山手線の駅に接続する私鉄の、各駅停車の電車しか止まらない駅前周辺に三軒、候補を選び、次の日曜に伸と下見に行った。どのマンションも学生二人が住むには適切な賃貸価格だった。伸は三軒の中から商店街に一番近い部屋を選び、一時間くらいマンションの周辺を歩いた。
「ここなら買い物にも困らないし、公園もあるから静かでいいんじゃないかな。大学にも三十分で行けるなら、今のマンションとあまり変わらないし。」
こうして、俺たちの生活が始まった。
四月に入り、俺は大学一年の前期が、伸は大学二年の前期が始まった。
俺が見る限り、伸の日々は非常に忙しかった。
平日の昼はきっちりと大学の授業に出て、夜はバイトをしていた。その頃は珈琲店で働いていて、時折、珈琲党の俺に非常に珍しい珈琲を煎れてくれた。夜の八時過ぎに帰って来て俺と一緒に夕食を済ませると、簡単な家事をこなして自分の部屋に戻った。
休日の午前中は、家の掃除や弁当の作り置きなどに時間を割いて、昼ご飯を食べてから大学のサークル活動に出て行った。話によると老人ホームなどで高齢者から昔語りを聞く傾聴会に参加しているらしかった。だから、その日の夕飯の席では、伸の口から積極的に傾聴会での話題がでた。戦争の痛み、戦うことの虚しさ、老いていくということの意味、語り伝えることの大切さ、そういったことを熱心に話した。
俺はといえば、履修科目の一日目の授業をとりあえず全部出席したあとは、まったくの自由人になったので気ままな日々を過ごした。気になる講演会を聞きに行ったり、図書館で一日をつぶしたり。たまに知人からプログラミングの助っ人を頼まれて某大企業の下請け会社でバイトをするときもあった。その際の日給は、伸がバイトで稼ぐ月給の半分だった。月に三度から四度そういう依頼があって、俺の収入源になっていたが伸には詳しいことは話さなかった。だから最初は、俺が家賃や生活費をどのようにやりくりしているか不思議に思ったらしい。俺の収入源について何度か尋ねてきたが返答は曖昧に濁しておいた。勝手な話だが、俺は伸の私生活についてひどく興味があったが、伸に俺の私生活を知られるのは嫌だった。まず、大学に登校していないことを問い詰められるであろうし、それによって、シェアハウス解消、ということにでもなれば元も子もないのである。
GWが終わり、街の新緑が濃い影をつくりはじめる頃だった。日曜日、伸はいつものようにサークル活動から帰って来るとキッチンで手際よく二人分の夕食を作ってテーブルに並べた。鮭のホイル焼、和え物、漬け物、納豆、具のたっぷりはいった味噌汁、大盛りのご飯。二人で「いただきます」と手を合わせて(これは伸から半ば強要されている)夕飯を食べ始める。俺が鮭のホイル焼を食べ終わったとき、伸が箸を置いて食事の手を止めた。
「当麻、相談、というか提案があるんだけど。」
「提案?」
口の中に残っていた鮭の身を飲み込んで俺も箸を置いた。
「なんだ?」
「明日から、料理以外の家事は公平に分担にして欲しい。」
一緒に住み始めたとき、家事については曖昧な取り決めしかしなかった。自分の部屋の掃除は自分ですること。洗濯、共用部の掃除も気づいた方がすすんでやること。料理については僕がやる、と伸は言った。俺も伸も、対等な他人と生活をするのは初めてで、互いの生活スタイルというものをまだ推し量ることができなかったから、手の空いた方がやる、という共通認識だったと思う。しかし、実際は掃除も洗濯も伸が全てやっていた。これは決して、俺がさぼったわけではない。俺は「掃除をするのは汚れたとき」と決めている。視認して「汚れている」と思えば掃除はする。しかし、伸は汚れていなくても勝手に掃除をしているのだ。洗濯もそうだ。俺は「洗濯カゴがたまったら洗濯をする」ことにしているが、伸は天気がいい日は勝手に洗濯機をまわしている。おかげで俺の出番は全くなかった。
「公平に、といわれてもなあ。」
俺と伸の家事に対する価値観が違っている限り、公平な歩み寄りなど存在しないが、あまり自分から意見を言い出さない伸が申し出る、ということは従わざるをえなかった。
「まあ、確かにこの一ヶ月、伸ばかりに押し付けてたしな。」
「僕も最初から君には期待はしていなかったからね。どうせ、汚れるまで掃除はしないし、洗濯カゴがいっぱいになるまで洗濯機をまわすつもりはなかったんだろう?」
「よく分かってるじゃないか。」
「君の素行の良さを見てると察しはつくよ。」
伸は両手首をテーブルの端に載せ、指を組んだ。
「掃除は僕が担当、洗濯は君が担当。どうだい?」
「根拠は?」
「簡単な方を任せただけだよ。洗濯機に放り込んで、あとは干すだけだろ? いつ洗濯するかは僕が朝食の前に言う。ここ一ヶ月、君を見ている限りそれほど忙しそうじゃないから、その日のうちにやればいい。干し方の細かいことは僕が休みの日に教えるから覚えてもらうよ。それでいい? それなら洗濯カゴいっぱいにならなくてすむだろう?」
伸は自分の提案に自信があるらしく、彼にしてはめずらしく勝ち誇ったような笑みを見せた。
「わかった。俺が洗濯な。」
伸の言う通りだったので、俺は快諾した。洗濯物をいちいち干すという作業が本当は苦手だったのだが、汚れてもいないところを非効率的に掃除するよりはマシだと思った。
こうして俺たちの生活の基盤ができた。
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