旅の温度
旅の始まりを人は知ることはない。それでも、運が良ければ、発車のチャイムの音を聞くことはできる。
秀はひそやかな旅の合図を、繰り返される日常の一場面で受けとっていた。
年明けの一月の陽は短い。夕方六時過ぎともなればすでにとっぷり暮れてしまい、外はただただ闇と寒さがその腕(かいな)で支配する。けれども、大家族の秀の食卓は、冬の思惑を吹き飛ばして、人のぬくもりに満ち満ちていた。家族七人で、大皿の料理を分け合い、言葉を交わし、笑い合う。
「ねえねえ、おおにいちゃん! あれ、すごいよ! 見て!」
ゆったりと流れる食事と会話の時間の合間を縫って、末の妹が無邪気な声とともにテレビを指差す。『おおにいちゃん』こと秀は、シューマイに伸ばしかけた箸を止めて、ほとんど無意識にそちらを見た。液晶画面には、蛇が這ったようなうねうねとした青黒い跡を、凍り付いた湖面に留める白銀の世界が映し出されていた。
『……年ぶりに諏訪湖で御神渡りが観測されました。地元の八剣神社では、このあと執り行われる神事のために、氏子らが……』
「ああ、『御神渡り』だっけか? 諏訪湖が凍るんだよな?」
テレビのアンウンスを最後まで聞かずに秀は呟いた。どこかで誰かに、そのことを聞いた覚えがあるはずなのだが、思い出せない。
「今年は寒いからねえ。温暖化で出番のなかった湖の神様も、喜んで出て来たんじゃないのかね。」
女性にしてはやや野太い声で秀の母はそう言ってから、末の弟の茶碗にご飯を盛った。
その夜、遅くに、秀は一本の電話を受けた。
相手は、年に二、三度、電話で互いの近況を話すだけの伸からだった。
秀の、伸に対する第一印象はあまり良くなかった。
出会ったのは紛れもなく戦場。十四歳という年齢で生死をかける戦いに身を投じ、これから進むであろう殺伐とした修羅の世界を想像し、武者震いをしていた。
そこに現れた伸、という存在は、秀の考える潤いのない荒々しい世界には似つかわしくなく、ふわりと輪郭の薄く、線のか細い、やさしげな面差しの、武器よりも本を手にしているほうが自然ではないかと思わせる風体だった。もちろん、鎧玉に選ばれた者の証として水滸の鎧をまとってはいた。それでもなお、秀は、伸に対して「こいつ、戦えるのかよ」という疑念を払えないでいた。
しかし、疑惑は数日も経たないうちに晴らされた。
水滸の鎧をまとった伸は、外見からは想像のつかない戦闘能力を持ち合わせていた。強さでは自分や征士に一歩、遅れをとっていたものの、敵を前にしたときの柔軟な判断力や、仲間を守るための防御力は他の面子に引けを取らなかった。
一戦士として、伸は、その外見とは裏腹に強かったのである。
だから、秀の、伸に対する第二印象は「意外なヤツ」であった。
阿羅醐を一度破り、遼の療養のために、富士山を望む緑豊かな湖のほとりのナスティの別荘で、半ば修学旅行のような共同生活を送ることになったとき、運命は、伸と秀を同室にしてその手のひらで弄んだ。
鎧を脱いでしまえば、やはりおっとりと、どこかおぼっちゃま然とした育ちの良さを感じさせる伸と同じ部屋になってしまったことを、秀は誰にも零さず自分の心の裡だけでぼやいた。そもそも、かもしだす空気が自分とも、自分の友人たちとも全く違うのだ。鎧という縁でなければ、「仲間」にもならなかっただろう、と。これから毎晩、どんな話題で付き合っていけばいいのか。こいつは、ゲームとか漫画とか、知ってるのか? どうせなら、遼は無理でも当麻あたりが良かったんだけどな、などと何度も何度も、反芻した。
一晩目は、二人とも言葉少なだった。連戦の疲れが出て、どちらとも言わず、寝入ってしまっていた。
二晩目、風呂上がりの秀に、伸が話しかけてきた。「これからどうなるんだろうね」と。それがきっかけで、二人は、互いがどのように迦雄須と出会い、鎧を手に入れたのか、ぎこちないながらも言葉を重ねた。初めて訪れた二人だけの小さく静かな空間。秀は、伸と会話を交わす時間の穏やかさと、心地よさに面食らいながらも、とても贅沢で人のぬくもりのこもった料理を味わうときと同じような幸福感を覚えた。これまで体験したことのないことだった。
三晩目、伸は秀に構わず、ベッドでずっと文庫本を読んでいた。手持ち無沙汰の秀は、寝床で転がるのに飽きて、夜更かしを怒られることを覚悟でリビングに降りてテレビでも見て来ようと思い、ベッドを降りた、そのとき。
伸は、秀にようやく届く声で言った。
「君と同じ部屋で良かったよ。」
「え?」
甘い香りのする、とても美味しそうな声だった。だから秀は、思わず、言葉の内容よりも声に反応して、その主を振り返った。体を起こしてこちらを見ている伸の貌は逆光でうっすらとしか見えない。笑っている様子はなかった。
「君なら、もし僕が弱音を吐いても、許してくれそうな気がしたからさ。」
「……へ?」
今度はちゃんと、言葉の意味を噛みしめた。それでも秀は咄嗟に言葉を返せなかった。
その台詞が、意外すぎたのだ。
伸はどんな時でも、自分で自分を管理して、誰かに泣き言を訴えたり、感情を見せることはないと思っていた。いつも口元に浮かべている微笑みらしきものは、それによって自分に深入りするなとの、周囲への忠告だと信じて疑わなかった。
真直ぐな性格に生まれて人を疑うことを知らない秀は、その言葉を真に受けて、自分の思い込みがひどく相手に対して思いやりを欠いていたことに気づき、沈黙した。
そんな神妙な態度を見て、伸はくすくすと笑い出した。いつもの微笑みではない。お腹の底からおかしいとでもいうように、彼は体を震わせて笑い始めた。
「な、なんだよっ!」
「今の本気にした?」
「はあ?」
「単純だなあ、思ったとおり、秀はおもしろいよ。」
秀の反応が楽しくてたまらないのか、伸は上半身を前のめりに笑い続けている。
馬鹿にされたことに気付き、秀は大声を張り上げた。
「なんだと! 伸、お前なあ!」
一気に頭に血が上り、育ち盛りの体が反応して、秀は伸のベッドに近付くと白く細い首を守る襟をつかみ上げた。
「人を馬鹿にすんのもいい加減にしろよな!」
「馬鹿になんかしてないよ。君と同室なのが僕にとって好都合なのは嘘じゃない。」
「俺は全然よくないぞ。」
伸の右手が、襟をつかむ秀の手へとそっと伸びた。撫でるように手を重ねて、言外に離すように伝える。静かな所作に操られるように、秀は手を引っ込めた。
「遼はあの通り、体調が良くないだろ? 征士はひどく生真面目でこっちが疲れそうだし、当麻は住んでる世界が違うからきっと話が通じなさそうだしさ。君ぐらい、ガサツで単純な人間の方が気を遣わなくてすむから、都合が良いんだよ。」
「あのなあ……。」
半ば怒りも忘れて呆れ果てた秀は、げんなりと肩を落とした。人生でこれだけはっきりと自分の性分をけなされたのは初めてだった。近付き難い優等生だと思っていた彼は、とんでもなく不真面目な一面を持ち合わせていたのである。
「それに……」
「なんだよ。」
「君、あったかそうじゃない?」
あまりにも直接的な表現だった。秀は太い眉を思いっきりしかめて、大きく息を吐いたあと、投げるように言った。
「はいはい、どうせ、俺は太ってますよー。」
そしてそのまま、くるりと踵を返して部屋を出て行った。
後に残された伸がその瞬間、泣き出しそうな表情を浮かべたことを秀は知るよしもなかった。
午前二時過ぎ。さすがに眠くなってきた秀はリビングから部屋に戻った。
まっ暗だと思っていた寝室に、一筋の光が射し込んでいる。月明かりのようだった。透明な月影は、手のひらほどのカーテンの隙間を縫って忍び込んでいた。
明かりは丁度、伸のベッドを斜に過り、ドアの真横の壁にぶつかって途切れいてる。
不躾な侵入者に気付くことなく、伸は安らかな寝息をたてていた。
秀は自分のベッドに戻ろうと歩みを進めて、はたと横を見た。冴え冴えとした光が、伸の寝顔を浮かび上がらせている。惹き付けられて目が離せなくなり、引き寄せられるように、一つ年上の少年の貌を覗き込んだ。
まるで眠り姫のようだ。
安らかに眠る伸の表情を見て、秀は、幼いころに妹に読み聞かせた絵本の一場面を唐突に思い出した。
見据えた視線の先の、月光に映える仲間の貌は、戦士には見えなかった。
長い睫が落とすほんのり淡い影、すっと伸びた鼻梁の線、男のものにしてはやけにふっくらとした唇。それらを乗せる土台の肌は春の曙の雪のようにはかなく白く、まろやかな卵形の輪郭を覆う亜麻色の髪は、月の光を一筋一筋に宿して、仄かに輝きを帯びていた。
触れてみたい衝動を押さえ切れず、秀は無意識に手を伸ばして、伸の頬に手を添えてからそっと撫でた。手のひらに伝わる感触に驚いて慌てて手を離す。
「なんだよ、コイツ……」
秀の知ってる感覚で言えば、むきたてのゆで卵のようだった。つるつるとしていて、弾力とハリがある。幼い頃の弟や妹の肌を思い起こさせた。
触れた手でそのまま、自分の右頬を撫でる。少しざらりとしたところのある、引き締まった男の肌だった。
その翌日から、秀は妙なことに気付いた。
伸が遼にひどくやさしい態度で接するのを見ると、悪い食べ物を口にしたあとと同じ、絞られるようにきりきりと胃が痛くなる。寝坊した当麻の面倒を細々と見ている姿を見ると、特別扱いをしているようで苛々とした気持ちになる。征士に打ち解けたような笑顔を見せていると、おいてけぼりを喰らったように感じる。
遼も当麻も征士もかけがえのない大切な仲間だ。これからもずっとそうだろう。だから、そんな気持ちになる理由がわからず、秀がいつもより夕飯の席で箸がすすまないでいると、隣に座る伸が秀の皿をひょいと覗いて、
「だめだなあ、秀。君の仕事は食べることなんだよ。三人前の計算で作ってるんだから、ちゃんと食べてね。」
と、取り皿に唐揚げと、ナスティ特製ドレッシングのたっぷりかかったサラダを取り分けた。
秀がもう少し、そういうことに敏感であれば、伸の言葉に隠されてしまった行動の意味に気付いたかもしれない。ただこのときは、秀もそして伸自身もその意味に気付かないまま、互いを偶然同室になった友人として認めるだけだった。
ナスティが外出したある夜のことだった。
夕飯を終えて、皆でいつものようにテレビを見ていた秀は、いつの間にか、一人、その場からいなくなっていることに気付いた。
「あれ、伸は?」
「洗いもんだろ? さっき、皿を片付けてキッチンへ行った。」
当麻に言われて、秀はテーブルの上が綺麗さっぱり拭きあげられている事に気付いた。
いつもは、ナスティと伸が楽しそうに皿を片付けて、二人の秘密基地に行くようにキッチンに向かう。それを、今日は伸が一人でやったのか、と思うと、秀は、また、例のごとく胃がキリキリと痛んだ。
一人で全部やってしまうのは、どれだけ大変だろう。なぜ、誰にも声をかけない?
……俺に声をかけてくれなかった? 俺ってそんなに頼りないか?
堪え切れない感情は、すぐに行動に出た。立ち上がったその足で、キッチンへ向かう。
「おい、伸!」
水の跳ねる音に包まれている伸の背中に、秀はやや荒っぽく声をかけた。
「ああ、秀。まだご飯が足りないかい?」
「そうじゃなくてさ。後片付け、大変だったら何で他の奴らに声かけないんだよ。」
蛇口の栓を一度止めて、伸は振り返った。いつもの、人に壁を作る薄い微笑を浮かべている。
「慣れないことを頼んでも、逆に手間がかかるだけだからね。」
「俺んち、家族も多いしかあちゃんも厳しいから食事の後片付けは一通りできるぞ。」
「そうなんだ。」
伸の堅い笑みがふっと緩んで、わずか、目が見開かれた。青にほんの少し、緑を溶かし込んだ神秘的な瞳が秀を見つめている。考えるときの癖なのか、無意識に左手を顎に当てて、しばらく思案したあと、伸は言った。
「じゃあ、お皿、拭いてくれる?」
秀は二つ返事で引き受けて、伸と二人でシンクに並んだ。
しばらくの沈黙のあと、伸は呟くように言った。
「僕は君に感謝しているよ。」
「え……?」
予想もしない素直な言葉に驚いた秀は、その手を止めて、伸の方を見る。
「僕一人が食器を片付ける事が大変だと思ったから来た、その打算のない単純さはいいね。」
「あーあ、わかったわかった。どうせ、俺は脳みそ筋肉で単純だよ!」
拗ねるように言い返し、秀は口元をヘの字に曲げた。
褒めているのかけなしているのか分からないいつもの軽口に、秀は心の中で溜め息を吐く。しかし、悪い気分にはならなかった。自分でもどう説明していいのか分からない。伸のその物言いが自分に心を開いてくれているようで、妙な安心感を覚えた。
「シンプルイズベストだよ、秀。ちょっと、憧れるかなあ。」
「俺だって伸みたいに、いろんな気配りの出来る男になりたいって思うぞ。」
「嫌だね、そんな秀は見たくない。」
いつもの微笑ではない。心から楽しそうに、にやり、と伸は笑って再び、蛇口の栓をひねって食器を洗い始めた。その様子に、まんまとやられた……と気付いた秀は、思わず皿を落としかける。つまり、憧れるのなんのは、いつもの軽口の延長らしい。それでも、と秀は思う。几帳面で他人にはやさしいくせに、ひどく自分に対して厳しいところのある伸が、ほんのわずかでも自分に心を解き放ってくれる瞬間が、この手強い冗談なのだとしたら、とても嬉しいことではないだろうか、と。
その後、秀と伸の関係は非常に良好だった。
伸の軽口が「自分だけ」に向けられているらしいことが分かると、秀は優越感に浸ることができた。自分だけに気を許してくれている、そんな気がした。他愛ない冗談は、育った環境のせいで自分自身にひどく厳しい伸の甘えのようにも思え、可愛らしいと思った。
だから、伸の軽口は、秀にとって特別なものになってしまった。
戦いが終わり、実家に帰って、うんざりするほど何事もない日常に戻ったとき、秀の中にぽっかりと穴が空いてしまった。あの美味しそうな声で言われる甘ったるい軽口は、すっかり秀の体に馴染んでいたのだ。
どこか物足りない、けれども何が足りないのか分からない日々が始まって、すでに四年が過ぎていた。
待ち合わせは新宿だった。
出発ギリギリの特急あずさに乗った伸と秀は、ようやくのことで指定席につくと、ジリジリジリという発車音を聞いてぐらりと車体が動き出してから、ようやくゆっくりと互いの顔を見合わせた。
「今日は突然、ごめんね。」
窓際に座る伸が、隣の秀の顔を覗き込むようにして手を合わせる。
「いや、別にいいけどよ。どうしたんだ? 急に諏訪湖に行きたいなんてさ。」
「御神渡りのニュースは見たかい?」
「ああ、昨日、テレビでちらっとな。それがどうかしたのか?」
伸は少し沈黙して、一度、悼むように瞼を閉じてから、秀を見ずに言った。
「前に皆で暮らしてたとき、遼と征士と一緒に僕は諏訪湖に行ったんだけど、覚えてる?」
「ああ、そういうこともあったな。でも、あのときは夏だったよな?」
「そう、夏でね、諏訪は丁度、気候のいい時期だったんだけど。実はあのとき、僕ら、御神渡りを見たんだよ。」
「は? 御神渡りって冬に湖が凍るんじゃないのか?」
声をあげて、秀は伸の横顔を見た。その表情は外の寒さを映し込んだように静かだった。
「妖邪がいたんだ。…………凍龍鬼という名のね。彼が、諏訪湖ごと、人も魚も全ての生き物を凍らせてしまった。あの頃の僕らは、妖邪はすべて敵、倒さなくてはならないものと信じていたからね。この手で、倒した。」
「当たり前じゃんかよ。今だってそうだろ。」
「ふふ、やっぱり秀は相変わらずで良かったよ。」
その軽口が昔とは違い、どこか頼りなげで物悲しく聞こえて、秀は思わず突っかかりそうになるのを止めた。
「でも凍龍鬼は、本当は、妖邪の手から、自分の故郷を守りたかったのだと、消える寸前に言ったんだ。そして彼が消えるとき、夏なのに、御神渡りが現れた。それがずっと気がかりだったんだ。」
「じゃあ、諏訪湖はその凍龍鬼とかいう妖邪の故郷なのか?」
「そう、その故郷を守りたかった彼と、皆を守りたかった僕、何も変わらなかったはずなのに……。」
何かを言いたげに語尾を濁して、再び伸は黙した。
背後から車内販売のカートと販売員が、声とともに現れた。秀は片手をあげて、珈琲を二つ頼むと、その片方を伸に渡す。
ありがとう、と受けとって、伸は一口、啜っただけで続きを話そうとしないので、秀の方から切り出した。
「つまり、そのだな。お前はそのとき、その妖邪を倒したことを後悔していて、御神渡りを見てそいつが生きてるんじゃないかと思って、はるばる諏訪まで行くってことか?」
「そうだね、後悔というよりも懺悔に近いかもしれない。あとでね、いろいろ勉強して考えたんだ。御神渡りというのは、とても貴いものなんだそうだ。だから、凍龍鬼は、諏訪の土地に眠っていた神様じゃなかったのかってね。」
もう一口、コーヒーを啜って、伸は疲れの見える青白い貌でゆっくりと秀を振り返った。焦点の合わない虚ろな瞳が揺曳している。
「本当にあのとき、僕が凍龍鬼を殺していたのなら、僕は神殺しの罪に問われる。」
「何、馬鹿なこと言ってんだよ。そいつ、お前らのこと、攻撃してきたんだろ。だから応戦して倒したんだろ?」
目だけでそうだと伸が応じると、秀は力強い太い眉をしかめて、伸の両肩を掴んで揺らした。
「だったら、何も問題ないじゃんか。俺たちは鎧戦士で妖邪を倒さなきゃなんねえ。お前はそれに従ったまでだ。」
秀の荒っぽい言葉に、伸はうっすらと笑みをはり付かせて頷いただけだった。
下諏訪駅に着いたのは、昼下がり、お茶の時間だった。長旅の疲れを癒すため、近くの旅館の経営する定食屋で遅い昼ご飯を食べた。帰り際、少し腰の折れた、人懐っこい笑みを見せる定食屋の女将に、「よくおいでなさったなあ。今日は、ほれ、御神渡りの見物客で昼頃は人が混んでまして、お客さん方、いい時間に来られましたよ。冬の諏訪は寒いですけど、どの季節よりも空気が澄んで綺麗ですから堪能してくださいな。」と声をかけられ、二人は並んで行儀良くお辞儀をして店を出た。
下諏訪駅から諏訪湖までは、約半時ほどだ。観光地とは名ばかりの、ごく普通の民家の連なる道とも路地ともつかない道路をただひたすら南に下る。民家の屋根が途絶えた向こうに、凍りついた白銀の湖が見えた。
女将の言っていた通り、湖を囲む道路には、車が何台も路上駐車されており、湖に面した小さな公園は人だかりができていた。諏訪特有の底冷えに慣れない観光客が、互いに寒いねえと交わしながら、温かい缶の飲み物を飲んでいる。幻想的な光景をフィルムに焼き付けようとカメラマンは三脚を立てて撮影し、御神渡りの珍しさに地元の子供たちがお祭り気分で走り回っている。
「すごい人だな。」
「うん、思いのほか、多かったね。」
人混みをすり抜けて、冬なお濃い緑をたくわえる常緑樹で仕切られている公園の端の、人がまばらになっているところに二人は落ち着いて、あらてめて諏訪湖を見る。
湖とはいいながら水はない。視界いっぱいに青味がかった銀の氷が広がってまぶしいばかりに陽の光を反射している。氷原には蛇が這った痕跡を思わせる青黒い曲線が描かれて、家が豆粒ほどに見えるはるか向こう岸まで続いていた。
伸と秀の少し後ろで湖を見ていた、刻まれた深い皺に笑顔を溜めている老夫婦の会話が観光客の雑音の合間に漏れ聞こえた。
「ありがたいですねえ、おじいさん。生きている間にもう一度、御神渡りを拝めるとはねえ。」
「いやあ、本当にありがたい。……しかし、なんだかこう、以前みたく神様の姿が見当たらない気がするのは儂だけかのう。」
「まあ、おじいさん、神様に失礼じゃありませんか。きっと観光客が多くて隠れていらっしゃるんですよ。」
二人の間の空気が一瞬にして凍った。伸の身体が、裡から溢れる恐怖でわなわなと震え出す。
「僕のせいだ……」
上擦った声が漏れた。聞いたことのない友人の声音に驚いて、秀はその貌を覗き込む。血の色をなくして、蝋人形のように真っ青だった。
「おい、伸! 何言ってんだよ!」
「だから僕が殺したんだ!」
血を吐くほどの叫びを上げて、伸はその場に膝をついた。俯けた頭に左手をあてて肩を竦ませ、外界から身を守るように右腕で自分の体を抱き締めている。
よく似た場面を、どこかで見たことがある、と秀は思った。
……そうだ。輝煌帝の時だ。
遼と征士のいないナスティの別荘で、伸が初めて見せた激情。いつもは穏やかな海が突然荒れるように、伸の感情は、唐突に内側に爆発するのだ。
僕が……と何度も呟き、地面を睨みつけて、己を責め苛む姿はあまりにも痛々しい。伸の様子を見兼ねて、秀は、両腕を掴んで、立ち上がらせた。ふらりと足元の覚束ない伸の二つの目は、ひどく虚ろだ。光を失った昏い瞳を見つめて、秀はまじないをかけるように、低い声でゆっくりと言った。
「一人で抱えるな。お前は悪くない。だからそんなに、自分を悪者にするなよ……なあ、伸?」
周囲の雑音が消える。静寂の帳がすっと二人を包んで、去った。何度か瞬きをして、伸は伏し目がちに呟く。
「君ならそう言ってくれると思った……」
「……え?」
予想外の伸の言葉に、秀はためらって掴んだ両腕を離しかける。途端、伸の双眸からほつり、ほつりと露が落ちた。
「え、ちょっ、し、しん!」
思いがけない伸の涙。見た事のない脆さ。
秀は慌てて、離しかけた両腕に力を込めて引き戻す。引き戻したものの、何と声をかけていいのか分からない。これが弟や妹や、(いないけれども)彼女なら、ぎゅっと抱き締めてやればそれでいい思う。けれども、伸は身内でもないし、ましてや女でもない。華奢な見た目からは想像できない、自分とは違う豊かな強さを備えた戦士だった男だ。どうすればいい、と幾度も自問している秀の耳に、くぐもった伸の声が届く。
「ちょっと胸、借りるよ。今の僕、きっと最高に情けないから。」
ふわり、と、伸の体重と体温を全身で感じて、秀は息を止めた。トクン、トクン、と心臓が騒ぎはじめる。
これまでずっと、軽口でしか伸の本音に触れられないものだと思っていた。その伸が、感情を露に自分の目の前で泣いている。哀しい、と行動で示している。
二度ほど、深呼吸をして。
受け止めよう、と秀は決意した。
両腕を背中に回す。かつて鎧をまとっていたとは思えないほど、心許なかった。
このまま旅館に帰りたくないと言い出したのは伸の方だった。宿に電話を入れ夕飯をキャンセルして、下諏訪駅近くの居酒屋に入った。突き出しは定番のわかさぎの佃煮とサラダ、その他、地元産の野菜と魚をふんだんに使った料理がテーブルに並ぶ。一杯目から信州の銘酒、神渡を飲みはじめた伸に、友人の意外な一面を見て秀は唖然とした。居酒屋の座布団に座って人心地ついても無口だった彼は、酒がすすむにつれて、ぽつり、ぽつり、と話し始めた。
「秀は御神渡り、初めて見るんだろう? どうだった?」
「あ、うん、そうだな。テレビで見たのよりすげーというか。でかいというか……」
ビールを飲みながら言葉を探す秀に、伸が小首を傾げて訊いた。
「君の岩鉄砕なら、あの氷、割れそうかい?」
「うーん、一部ならともかく、あの広さはどうだろうな。」
「きっと、秀でも無理だよ。」
他愛ない会話が続く。料理にはあまり箸をつけないで、秀との会話をつまみに、伸は満足そうだ。けれども、三杯目を注文しようとしたとき、秀は慌てて止めた。伸はすっかり酔っていた。頬と耳たぶがほんのりと赤い。とろんと惚けた海色の目は、時折、秀を通り越してあらぬ所を見ている。いつもはきっちり結ばれた唇はほんのわずか開いて、熱く細い息を吐いている。少しだけ右に傾いだ体勢で酒を啜り、秀を見るその姿は盛りの牡丹のように艶かしい。
そんな伸の姿はテーブルのどの料理よりも美味しそうだった。だから、つい見とれて秀の箸も止まってしまう。
「あのな、伸。」
冗長に交わされていた会話の空白に、秀は言葉を差し挟んだ。
「何?」
「せっかく、いい気分のところを悪いんだけどさ、一つ、聞かせてくれよ。」
伸は、お猪口を片手に黙る事で、秀の言葉を促した。
「凍龍鬼のこと、今まで誰にも話さなかったのか?」
秀の言葉の意味を計り兼ねたのか、何度かゆっくりと瞬きしたあと、伸は頷いた。
その様子に、秀はまた、例の、胃がキリキリと引き絞られるような嫌な気分になって、口元をヘの字に曲げた。
なぜ、伸は、老人の些細な言葉で感情を爆発させてしまうまで、ずっとその傷を一人で抱えてきたのだろう。矜持の高い伸が、自分の弱みを他人に見せたがらないのは理解できる。それでも、血の繋がった家族になら、壁を作らずに話せるのではないのだろうか。自分は弟や妹の泣き言をたくさん聞いてきた。自分自身も、父や母や祖父、血縁関係にある年上の人たちに支えられて来た。そうやって、互いに支えて支えられて生きてきたのだ。
そこまで思い至って、秀はあることに気付いた。
伸の家族構成。伸は長男。父親は早くに他界したと聞いた。母親は病弱で、年上の姉が一人。
……伸には、頼りたくても頼れる人間がいなかったのだ。毛利家の長男という、その立場のせいで。
そのとき、初めて、秀は、伸が時折見せる危うさの理由が分かったような気がした。
同時に、自分はこれまでずっと、伸に頼られる存在ではなかったのか、と思うとひどく悔しかった。
「俺には話して欲しかった。」
伸に対する感情をなるべく押さえた声で秀が言うと、伸は不思議そうに首を傾げる。
「電車の中で話したじゃないか。」
「そうじゃなくてさ、お前ん中で、こんなにこじれる前にさ。ちょっと電話のついでに話してくれても良かったじゃんか。」
「ふうん、心配してくれてるんだ?」
伸が笑んだ。見た事のない笑みだった。極彩色の鮮やかさを放ちながら、触れれば消えてしまいそうなくらい透明で儚い笑顔だった。
「……ありがとう。」
お猪口を升に戻して、伸は俯いた。呟いた言葉は、秀には届かない。
店を出るときには、注文した料理の半分も手を付けていなかった。秀は、店の人に申し訳なく思い、体格のいい体でぺこりと頭を下げた。
旅館に着いた伸は、部屋の片隅に荷物を置くと、若干危なげな足取りで大きな窓に近寄った。躊躇うことなく一気にカーテンを開ける。
夜の闇の中、光る金平糖をまきちらしたように、赤、橙、緑、黄……さまざまな色の灯りが湖に沿って弧を描いて秀の目に飛び込んだ。
「すごい、夜の諏訪湖がよく見える。綺麗だなあ。」
言いながら、伸は窓も開けた。冬の諏訪の冷気が一気に部屋を蹂躙する。
無邪気な伸の態度を背中越しに見て、秀はきりと唇を噛んだ。御神渡りを見たときの激情、そして涙。自分の気持ちを誤摩化すようにお酒を浴びる伸の姿。友人として何の言葉もかけられなかった後悔が、苦い水を飲んで気分が悪くなったときのように、喉にせり上がってくる。
「あのさ、伸。」
「何?」
「俺、なんだか役に立てなくてごめんな。気の訊いたことも言えなくてさ。」
「何のことだい?」
伸は振り返らず、秀の言葉の意味など無視して応じた。それから、
「それよりもさ、秀。景色は素晴らしいんだけど、さすがに寒いんだ。温めてよ。」
「は?」
「君、あったかそうじゃない?」
お前なあ、と思わず溜め息をつきそうになるのを、あやうく止めて、ある考えに行きついた。この台詞を聞いたのは、二度目だ。一度目は柳生邸の二人の部屋だった。あのときは、疑うこともなく自分への揶揄だと思っていたが、実は四年前から伸自身が無自覚に自分を頼りたいというサインを「あったかそうじゃない?」という言葉に秘めて来たのだとしたら。ならばどうする、と考える。答えは一つしかなかった。頼られて応えられなければ、伸は二度と、自分に寄りかかって来ることはないだろう。居酒屋で見た艶かしい姿が脳裏を過り、一瞬、躊躇したところを、秀は自分自身で叱咤した。
……最強の鎧をまとう俺が、伸一人を支えられなくてどうする。
そう決意して、改めて伸の方を見る。
無防備に眼前に晒された背中。
こんなにも小さかったのだろうか?
痛いほどに凍てついた夜風が音も立てずに忍び込んで来て、また、室温が一気に冷えた。寒いのか、伸の背中がふるりと震える。うしろ姿が泣いているようだった。秀は静かに窓辺に近付いて、華奢な体を抱き締めた。回した両腕に感じる腰の細さ、見下ろす位置にある亜麻色の頭、寒いとはいいながら、密着した身体は酒で火照って熱い。その熱を意識した瞬間、秀の頭に沸騰した鉄が流れ込んだ。心臓が、全力疾走したあとのように暴れている。
……熱いのは、俺の身体の方だ。
「あ、あのさ、俺で良かったのか? 遼とか、征士とかの方が良かったんじゃないのか?」
「どうしてそう思うんだい?」
それは……と口ごもる秀に、伸は呟くように言った。
「相変わらず、君は鈍いね。」
「どうせ、俺はお前みたく繊細じゃないさ。」
「それが君のいいところなんだけどね。」
落ち着いた声音でそう言った伸は、ゆっくりと秀の腕の中で体を反転させて、肩を押し戻した。拳二つ分くらいの距離をとって、自分を抱きすくめる友人を見つめている。目を見開いて成り行きを見守る秀に、伸は、神聖な言葉を殉教者に与えるように言った。
「こんな大事な旅行にどうでもいい友人を付き合わせるほど、僕は寛容じゃないよ。」
また風が吹いた。伸の瞳に浮かぶ厳しさと同じくらいの冷たい風だった。
室温は低いはずなのに、秀の体は熱に浮かされて暑い。緊張で背中が汗ばんでいる。伸の視線は、それを咎めるように厳粛で、加えて魅惑的だった。秀はごくり、と息を呑んで、言葉の意味を理解した。
「それって、そのだな、伸……?」
わずかに顔を伏せて考えていた伸は、すっと面を上げると、秀の二つの目をやんわりと睨みつけた。
「これ以上、僕に言わせるなら、僕は鈍感すぎる君に愛想をつかしてしまうかもね。」
「ちょっ、ちょっと待て、伸!」
秀は慌てて、離れてしまった小さな亜麻色の頭を抱き寄せた。腕の中で小さな笑い声が起こる。
「今度は俺が旅行に誘ってもいいか?」
「そうだなあ。なんなら、僕の旅券の半分を君にあげてもいいけど?」
「旅券の半分?」
抱え込んだ小さな頭をわずかにずらして、秀は伸の顔を覗き込む。いたずらっ子のような笑顔を見せて伸は言った。
「人生というのは旅だよ、秀。」
人生というのは旅……と秀は口の中で繰り返して、三回、瞬きしてから、「マジかよ……」と言葉を漏らした。驚きのあまり呼吸が浅くなり、体を巡る血液は燃え上がりそうだ。心臓の五月蝿さが、伸にまで届いていないかと心配になり、落ち着け、と何度も命令した。
「僕は君と出会ったときから言ってるだろう? 君で良かったって。君の温度はね、僕に丁度いいんだよ。」
幼い頃の思い出を懐かしむような口調で言って、伸は綺麗に笑った。その表情に、十五歳のやさしげな少年の貌が重なる。秀の脳裏に深く深く刻み付けられた一場面が蘇る。月の光に浮かびあがった伸の寝顔を見たあの夜から、俺は……。
「伸! 俺っ!」
繊細な身体を力一杯抱き締める。
「ぜってーに、いい旅にしてやるから!」
「こら、秀、少しは力加減してよ。僕がつぶれちゃうよ。」
言葉とは裏腹に、伸は秀の胸に頭を預けた。心音を聞くように身体を寄せ、目を閉じる。その貌に、やさしく凪いだ、穏やかな春の海の如き表情が浮かぶ。
始まったばかりの二人の旅を、諏訪の湖上に坐す神だけが見守っていた。
おそらく、最初で最後であろう秀伸です。なので結構難産でした。特に冒頭の一文は何度も書き直しました。あらためて読み直すと、「がんばったな自分!」と褒めたくなります(笑) 秀と伸ってやはり私の中では「お友達」感が強いので、よくここまでくっつけられたなと。

