はるか翡翠の風に呼ばれて

 はるか翡翠の風に呼ばれて


 ゴールデンウィークの晴れた日は洗濯に限る。
 初夏に近い五月三日の朝の太陽の陽を浴びて、ベランダに白く輝くシーツを眺めながら伸は満足気に頷いた。
 大学三年ともなれば、故郷を離れた東京のうつろう一年の四季にあわせてどのように生活を組み立てていくかが嫌でも身につく。ゴールデンウィークは友人の多くが実家に帰ったり旅に出たりする。伸も彼らに誘われ何度か付き合いはしたが、そうするとそのあと夏まで続く前期が慌ただしく、生活サイクルが落ち着かない。だから、今年はすべての誘いを断って長い休日を四月にやり残した雑務と家事にあてることにした。どうやらその判断は間違っていなかったらしく、こうして有意義かつゆとりのある時間を過ごすことができている。
 さあ、次は買い出しだ。
 そう思い立って、伸がシーツに背を向けたとき。
 ざあっと一陣の風が吹いた。
 頬を撫でる風に呼ばれたような気がして振り向く。光を弾いてまばゆいシーツがはためいている。そこに、起こりえないものを見て取って伸は目を見開いた。
「え……」
 ベランダに、桜吹雪が舞っていた。風にあおられ、宙空に無数の淡いさくらいろが踊っている。無意識に一歩、花吹雪の中に伸は足を踏み出す。花びらを泳がせる風に抱かれる。
 ……ああ、この風はここで吹いているものじゃない。過去から渡って来ているんだ。
 五月の風はそのように彼方からの記憶を吹き込んでくる。
 伸の記憶の中の当麻はいつも風をまとっていた。風の戦士だから当然なのかもしれないが、五月の新緑に似た翡翠色の風の雰囲気をいつも滲ませていた。瘴気のむせる妖邪界でも彼のまわりだけは明るく澄み切った翡翠色の風が吹いていた。 
 最後に会ったのは、二年と少し前だ。アメリカの大学に進学する当麻を皆で見送った。空港のロビーで仲間の一人一人に、関西人の彼らしい冗談を交えながら挨拶の言葉を渡して、最後、伸の前で立ち止った。「向こうでもがんばれよ。ジャンクフードばかり食べるなよ」と言うと、当麻はひどく困ったような顔をしてただうなずくと、伸の前で黙り込んでしまった。それから奇妙な沈黙をたっぷり三十秒ほど保って一度俯き、再び伸の顔をまっすぐに見た。その時の彼の表情を伸は鮮明に覚えている。いつもの知的でどこかすましたような貌は跡形もなく消え去り、あどけない子どもの表情で必死に何かを伝えようと伸の瞳の奥底を見つめていた。けれども、語彙の豊富なはずの彼の口からは一言も言葉はなく、ただ、最後につたない笑顔だけを向けて、遠い空へ飛び立った。
 だから、伸の印象にある当麻は、智将であると同時に幼い子どもだった。五人の中で一番年下だということも一因かもしれない。
 五月、新緑の時期に吹く翡翠色の風が明るい軌跡を街に描く時期になると、そんな当麻のことを思い出すのだ。同時にちくりと胸が痛む。あれから一度も当麻からは連絡がない。彼があのとき、何を言いたかったのか、分からないまま。
 伸はふわりふわりと舞う桜吹雪の中、そっと手を伸ばしてひとひらを手のひらに載せた。
「ねえ、当麻。今、何やってるんだい?」
 伸の問いに応えるようにぶわり、と桜吹雪が逆巻いた。優雅に舞っていた花びらがまるで伸を抱擁するように濃密に集まる。その中からしゃぼん玉が喋るような声がした。
「……アイタイ……アイタイ、アイタイ」
「当麻……か?」 
 返事はない。ただ花びらが渦巻いている。そしてまた、ざあっと一陣の翡翠色の風が吹き抜けた。伸はその方角を見遣り、部屋を飛び出した。

新築の住宅街を走り抜け、いつも長話をするお婆さんの営む小さな煙草屋をちらと視界に入れて、それから角を曲がると駅への近道だ。翡翠色の風はそちらに吹いている。伸は風と一緒に街を駆け抜けた。二つのベンチと藤棚がある小さな公園を横切って駅へと続く裏通りを走る。そして路地裏から駅前の大通りに出る角に出たとき。
 どん、という軽い音とともに視界が反転しかけた。自分の不注意で他人にぶつかってしまったことへの罪悪感と転んだはずなのに体が道路にぶつからない疑問が一度に伸の頭を占領する。
「……すみません。」
 咄嗟に口をついたのは、ぶつかってしまったことへの謝罪だ。その言葉を絞り出したあとで、伸は自分が地面に追突しない理由に気づく。相手に抱きとめられているのだ。
「大丈夫か?」
 影になって見えない相手から返事があった。聞き覚えのある声だった。宇宙の深淵が声を紡ぎ出したかのような深みのある低い声。
「嘘、だろ?」
 相手に支えられながら体勢を立て直して、その顔を確かめようとした。雲が晴れて光が戻る。
 五月の太陽の下に明らかになったのは翡翠色の風をまとう伸の知らない男だった。正確には……少年から男へと成長してしまった仲間。
 濃いブラウンのカジュアルなスーツ姿の彼は、伸が少し首をあげないと視線が合わない。整った顔立ちは昔とそれほど変わらないが、顔を構成するいくつものパーツの曲線がひきしまっていた。なによりも、伸の心に深く印象づけられていた、あの、あどけない幼さの影はどこにも見当たらなかった。
「どうして、当麻がここにいるんだよ。」
「いやあ、腹が空いたらさ。伸のメシが喰いたくなって。そしたら飛行機に乗ってた。」
 当麻が無邪気に笑う。けれどもそこから無垢なものは完全に消え落ちて、かわりに相手を懐に包み込む「ゆとり」のようなものがあった。
「な……っ」
 伸は一歩、右足を退いて当麻から少し離れると早くなる鼓動を自分の胸で聞きながら、声を跳ね上げていた。
「二年も連絡なしで、いきなり押し掛けて……。そしたら、お腹が空いたって? 僕は君の家政婦じゃないぞ!」
「悪い悪い。向こう行ったらいきなりラボに閉じ込められてさ、気が付いたら腹が減ってた。そんで伸の飯を思い出した。」
「どんな生活してたんだよ、君は!」
 きっと睨み上げる伸を、当麻は面白そうに眺めて頬を緩める。
「元気そうで良かった。」
 声と同時に当麻の長い両腕が伸の背にまわされる。頬を擦り寄せるように顔を近づけられて伸は息を止めた。
「ちょっ! 街中でいきなり何するんだよ!」
「向こうじゃハグは当たり前だろ。」
「ここは日本だ!」
 目頭や頬や、体のあちこちが熱くなって、それを当麻に悟られないように伸が身を捩って力強い腕から逃げようとすると、許さないとでもいうように、さらに両腕に力が込められる。
 こんなのはハグとはいわない、抱擁だ。心の中で伸がそう呟いたとき。
「さっきのは、嘘。」
「え?」
「向こうで桜を見たら、あのころを思い出して、そうしたら、伸に会いたくなった。」
 あのころ、と言いながら、当麻は伸からすっと顔を離して視線で海色の瞳を捉える。伸もまた、宇宙の神秘を溶かした瞳を覗き込んだ。
 ……あのころ。
 出会って間もないころ。少年だった日々を。
 あの日々は桜が常に五人につきまとっていた。生と死、両方の意味で。
「俺は運命なんて非論理的なものは信じない。でも、鎧玉がなければ、俺は伸に出会えなかった。それが運命に縛られた出会いのようで、嫌だった。だから、もう一度、ちゃんと出会いたかった。」
 明るく透き通った翡翠色風が吹き抜けた。懇願するような真摯な顔で、もう一度、出会い直したいのだ、と、当麻は言った。
 伸の脳裏に二年と少し前に空港のロビーで見た彼の、困ったような幼い顔が鮮明によみがえる。あのとき、当麻が言いたかったのは。
 怒りと嬉しさと、それから様々な感情が千々に入り乱れて揺れていた心が、皐月の海のように凪ぐ。新緑の香りを含んだ翡翠色の風が水面を渡る。
 伸は当麻から体を離すと、右手を差し出した。
「初めまして。僕は毛利伸。この近くの大学の三年生。よろしく。」
「俺は羽柴当麻。さっきアメリカの大学から帰って来たところ。お腹が空いたんで、飯喰わせてもらえないかな。」
「残念だけど、僕、家事は苦手でね。他をあたってもらえるかな?」
「いや、それはないな。」
「どうして初対面の君がそんなことを言えるんだい?」
 当麻はすっと伸を指差した。つられて伸は自分のお腹のあたりを見る。洗濯の最中に飛び出して来たのだ。淡い水色のエプロンを着けたままだった。
「あ……」
「エプロンをつけてる奴は家事が上手い。」
 先に吹き出したのはどちらだったか。
 雑踏の中、二人は笑い合う。
 伸はこの日、初めて、羽柴当麻という、明るく透き通った翡翠色の風をまとう、一風変わった男に出会った。


2014SCCのフリーペーパーに載せた話です。陰陽伝の伸とはかなり違うキャラのイメージでした。(私の頭の中では)イベント前に唐突に思い立って、時間のない中、一気に書き上げた記憶が……。