キスのコトダマ。

 キスのコトダマ。


 ナスティの隣で食器を拭いているとリビングから遼の悲鳴に近い叫び声が聞こえて、僕は慌てて駆けつけた。
「どうしたんだい! 遼!!」
 皆のくつろぐ空間は特に荒れた形跡が残る訳でもなく、ただ大型のテレビには若い俳優達が演じているドラマが流れているだけだ。
「ちいとばかり、遼には刺激的すぎるシーンだったな。」
「だ、だって俺たちまだ中学生で……」
 秀のどこかからかうような口調に遼がどもりながら抗議する。
 感情が昂りすぎている当事者に尋ねてもまともな答えが返ってこなさそうなので、静かにその様子を伺っている征士にそっと尋ねた。
「何があったのさ、征士。」
「ああ、ドラマで接吻の場面があったので遼が驚いたらしい。」
 なるほど。確かに遼はそういったことには疎そうだから納得できる。テレビドラマなんて見る性格じゃないから、もしかしてそいう場面を「初めて」見たのかもしれない。 
「そういう征士はどうなんだい? 君もテレビなんか見なさそうだけど。」
「テレビで見るのは初めてだな。だが時代小説で口吸いもまぐわひも読んだ事はあるぞ。」
 征士らしい答えに僕は苦笑するしかなかった。キスのことを口吸いなんていう中学生は日本中探しても、征士だけだと思う。でも、古い言葉とはいえそれをてらいなく口にのせられるというのは、征士は意外とそっちの方面に関しては僕なんかよりも大人なのかもしれない。
「なんだ、征士。読むだけで実践したことはないのか、伊達の殿様の癖に。」
 ソファで本を広げ我関せずという態度だった当麻が、突然、僕たちの会話に割り込んで来た。
 その言葉に、征士の白皙の頬がさあっと赤くなる。
「ならば貴様はどうなのだ。」
「そうだよ、君の方が本とパソコンの知識ばっかりで本当は何も知らないんじゃない?」
 いつも静かな面持ちの征士が慌てふためくのが可哀想になってつい味方をしてしまう。
 当麻は一瞬、征士ではなく僕の方をきつい眼差しで見つめてから、本に視線を戻した。それから全く感情を伺わせない冷たい声音で誰に言うともなく呟いた。
「キスくらいで騒いでる奴らを相手にする程、俺は子供じゃないからな。」



 その夜、僕は変な時間に目が覚めた。時計を見ると2時。いつもならぐっすりと寝入っている時間だ。
 喉が乾いていた。身体の細胞が水で潤して欲しいと叫んでいる。
 秀を起こさないように静かに寝室を出てキッチンへ向かう。
 驚いた事に、キッチンには先客が居たようで灯りが灯っていた。
 中を伺うと。
「なんだ、当麻か。」
 相変わらずの宵っ張りぶりに僕は呆れてその一言しかでてこなかった。
「なんだとはなんだ。それより、伸の方こそどうしたんだ? 寝てたんじゃないのか?」
「ああ、うん。なんだか喉が乾いて。」
 言いながら思わず喉のあたりをさすってしまう。どうしたんだろう。この喉の乾きは。
 ふと当麻の手の先に目を遣ると、専用のコーヒーのマグカップがあって、彼はそれをさっと洗ってから丁寧に拭いて食器棚に戻すと、いつもの怜悧な瞳でこちらを見た。
「冷蔵庫にポカリが残ってたな。水分補給なら水よりもそれを飲め。俺はもう寝るから。」
「あ、うん。」
 キッチンのテーブルの上で当麻のノートパソコンが寂しそうにこちらを見ていた。
 寝ると言った筈の当麻は、それに気をかける風もなく僕の方に歩み寄ってくる。
「何?」
 中途半端な時間に起きたせいでまだ頭がぼんやりしている。なので、近付いてくる当麻との距離がいまいち掴めずぼうっとしていると、突然、腰を強い力で引き寄せられた。一気に目が覚める。何が起きたのかを一瞬で理解して、目をあげると当麻の顔が間近にあった。
「見た目より細いんだな。」
「え?」
 僕の疑問の言葉を遮るように、当麻の唇が僕のそれに重なった。
 一回目は軽く触れる様に。
 二回目は角度を変えて、深く。
 驚きを通り越して動けなくなってしまった僕の意思をどう捉えたのか、当麻はそのまま舌を入れて来た。
 僕は味わった事のない異物感に恐怖を覚えて僅かに身を引いたが、当麻はそれを許さないとでもいう風に項に手を伸ばして来て強く押さえてきた。
 当麻の温度を持った舌がゆっくりと僕の口膣を這う。
 息ができない。苦しい。
 そして、当麻が怖い。
 僕の思惑をよそに当麻の舌は僕の舌を絡めとり犯し始めた。
「ん……っ。」
 別人のような当麻に心は怯えているのに、何故か身体は甘くじれったい感覚に支配され始めている。当麻の舌から与えられる熱い熱が心臓に注ぎ込まれた様に、胸が悲鳴をあげている。足下が覚束なくなっている。
 僕は僕を失いそうになって、最後の力を振り絞り両腕で当麻の肩を押して自分の抵抗の意思を示した。 
 すると当麻は、何事もなかったようにすっと僕から離れてテーブルの上のパソコンを手に取ると、キッチンから出て行った。
 出る間際、呆然としている僕に一言、置き土産をして。
「智将の俺にできないことはない。」
 僕の中には、珈琲の味と、当麻の舌の感触と、じれったい熱が残った。


 それから当麻は、人目を盗んで僕にキスを仕掛ける様になった。
 キッチンで、人のいないリビングで、時には屋外でも。
 でも、決して唇に触れる事はなく、頬や額や首筋に悪戯するかのようなキスだけだった。
 だから、それは当麻なりのスキンシップだろうと思って僕はそんな彼の悪ふざけに付き合っていた。


 戦いが終わって、ただの学生に戻ってからも当麻と僕の奇妙な関係は続いた。
 東京の高校に転校した僕は、学校からほど近いマンションで一人暮らしを始めた。
 すると、毎週のように当麻が押し掛けて来たのだ。
「ナスティん家の文献を漁ってたら、最終の電車を逃しちまって」
 それが彼の言い訳だった。
 当麻らしいといえば、それはとても当麻らしいので、僕は文句をいいながらも週末は彼の面倒を見る羽目になった。  
 そして、当麻は相変わらず、スキンシップのようなキスを繰り返す。
 悪い気はしない。
 あの夜のような激しいキスはその真意が分からないので、いや、正直言えば分かってしまうのが怖くて、きっと些細な態度でそれを当麻にさせないように促していたのかもしれない。
 でも、どこかでそんな僕の我がままが通らなくなる日が来る事を心の中では知っていた。
 溢れる水はいつか大きな流れとなり、堤防を壊してしまうのだ。 
 僕の中にある、ちっぽけな堤防を。



 その日は意外にも早く訪れた。
 僕が大学一年のクリスマスイブ。
 翌年の春には、当麻はアメリカの研究室へ行く事が決まった時期でもあった。
 二人で鍋を食べて未成年だけど軽くお酒を飲む。
 鍋とアルコールで、僕の身体はひどく火照っていて、意識も僅かながらおぼろげだ。
 だから、当麻のその言葉に即座に反応できなかった。
 テーブルの正面に座っていたはずの彼は、いつの間にか 、僕の隣に座って身体をぴったりとくっつけていた。
「なあ、伸。一つ聞きたいんだけど。」
「何?」
「今晩、抱いていい?」
「何を?」
 しばらく沈黙があって、それから当麻が酷く自嘲めいた笑い声をあげた。
「当麻、どうしたの。酔ってるのかい?」
「酔ってるのはどっちだよ。」
 不意に身体を抱き寄せられる。
 瞬時に僕は、あの夜の事を思い出して、身体に緊張を走らせる。それからようやく当麻の言いたい事を理解した。
 僕を抱きたい、というのだ。
 そしてまた、あの感覚が蘇る。
 当麻の熱、熱病に冒されたような熱さ、熱を与えられ早くなる鼓動。
 身体の細胞が、甘い痺れを求めてじれったくもがいている。
「大体、」
 酔いと熱さではっきりしない頭を精一杯整理して、僕は最後の反撃をした。
「君は大切な事を何も言ってないじゃないか。」
 そうだ。僕は当麻から一度もその言葉を貰った事はない。
 なのに抱きたいという。
 僕を抱き寄せたまま、当麻は紺色の瞳で僕を観察するように眺めてから、とても冷静な声音で言った。
「違うな。俺はちゃんと言ったぞ。一番最初に。」
 最初? 最初って何のことだろう。
 そんな大切な言葉なら忘れる訳はないのに、当麻は言ったという。
 酔った僕の記憶はそんなに曖昧になっているのか……。
「忘れたなら、もう一回言うぞ。今度は逃げるなよ。」
 言うが早いか、当麻の顔がゆっくりと近付いてくる。
 思わず僕は目を閉じてしまった。
 唇に軽く触れるキス。
 目を開けると、戦場で戦っていた時よりも、何かを思い詰めたような真剣な当麻の眼差し。
 ああ、そうか。
 あの夜が。
 その言葉はあまりにも大切だから、当麻は口移しに伝えたのか。
 言霊を外に放つのではなく、まさに魂を吹き込むように僕に伝えたのか。
 だから、あれ以降、スキンシップのようなキスしかしてこなかったのか。
 飄々とした当麻の中の、とても純粋な部分に触れたような気がして僕は思わず笑みを零してしまう。
「……どうした?」
 当麻が訝しげな表情で僕を覗き込んでいる。
「うん? 君って意外に純情なんだなと思って。」
「悪かったな。」
 当麻は眉を顰めたがそれは一瞬だった。
 僕が身体を許したことを感じたのだろう。
 当麻の顔が再び近づいてくる。そして僕は目を閉じる。
 もう、怖くはなかった。当麻から与えられる熱に溺れてもいいと思った。
 人生で二回目の深い口付けは、僕のちっぽけなプライドを解放して広い広い世界へといざなってくれた。



これはアップしようかどうか迷いました(笑)いわゆる「殴り書き」に近い話ですし。確か、「読みたい人いらしたら挙手お願いします」ってブログに書いたような。読み返すとこっぱずかしいーー!(脱兎)