時をめぐる水色の夢路
……皆の気配が薄らいでゆく。
湖畔に腰を下ろしていた伸は、遠ざかる皆の姿に思いを馳せ、鬱蒼と生い茂る緑の木々の方を見遣った。折からの風が夏の清々しい高原の香りを運んでくる。澄んだ湖面は夏の強い日射しを反射して、明鏡のように周囲の風景を映し込んでいた。いつもなら、元気を与えてくれる水を湛えた風景も、今の伸には遠い世界を切り取った写真のように思えた。
伸は再び湖面に向き直り、自分の姿をその水面に映し込んだ。そこには、友に手を伸ばす事が叶わず、青ざめた顔色の少年の姿がある。そんな自らに向き合いながら、伸は今の状況を心の中で整理していた。
当麻も秀もナスティも純も、黒い戦士から遼と征士を助けるために遠い異国へ旅立った。仲間を救出することが、いつも自分たちの最優先事項だった。皆それぞれが、生まれて初めて出逢うことのできた大切な人たちだったから。
けれども僕は、ここに残った。
弱い心。
不安に満ちた魂。
戦士として欠落した何か。
友の、そして自分の纏う鎧が信じられない自分。
そういうものに、がんじがらめになって足を踏み出す事ができないまま。
ばさり、という鳥たちの羽音が伸の思索を遮った。何が来たのかと思わず立ち上がる。
「……白炎。」
いつの間にか、白くやさしい獣がそこに姿を現していた。愛しい我が子を見守るような慈愛に満ちた黒い目で、伸の方を見ている。そして、戸惑っている伸の足下に体を軽くこすりつけると、グルル、と喉を鳴らした。
伸はその声が、自分の想いを受け止めてなお、水滸を纏う戦士の存在を肯定しているように聞こえ思わず唇を噛み締める。そのやわらかな被毛を撫でながら、呟く様に言った。
「ごめんよ。白炎。今の僕には戦士として戦う何かが欠落してしまったのかもしれない。」
再びグルル、というやさしい声。
伸はいたたまれなくなり、白い獣の頭に手を置いたたまま視線を逸らす。
湖は相変わらず、静かに光を湛え、涌き出す水の流れがいくつもの波紋を作っている。永遠に続くかと思われる湖面の形象。それは湖の中に閉じ込められたまま、決して外に出る事はできない。何度繰り返そうとも、何も動かすことができない。
まるで今の自分のようだ、と思い伸は自嘲しながら目を閉じる。
刹那、ざあっと強い風が吹き木々の梢を揺らせ、伸を抱き締める様に包んだ後、彼方へと消えた。
突然の風に驚いて、伸は思わず体を強ばらせた。そして、再び目を開けた時、そこには木立も湖もなかった。
視界の一面に広がるのは、見覚えのある紺青の海。懐かしい潮の香りを含んだ浜辺特有の風が吹いている。足下には自然に打ち上げられた漂流物が所々に見える砂浜が広がり、伸は瞠目してしばらく言葉を失っていた。
何度か瞬きした後、独り言つ。
「どうして実家の浜辺にいるんだ?」
誰に対しての問いなのか、伸自身も分からなかった。ただ、唐突に、先程までいた現実世界から放り出されたような不安に襲われ、形の良い眉を顰めて周囲を見渡す。
と、その視界に子供の姿が飛び込んで来た。
年の頃は八歳くらいだろうか。
喪服に身を包み、背筋をすっと伸ばしたまま、睨みつける様に海を見ていた。
既視感。
そんな言葉が伸の脳裏を過る。記憶に間違いがなければ、あの少年は自分であり、父の葬儀の後に想いの全てを海に流すつもりで、ここに来たはずだった。
静かに逝った父の顔は安らかで、親族の皆が「人徳は死んでからも消えないのね」と言っていた記憶がある。それくらい、父はいつも静かで、笑う時は穏やかに笑い、人を諭す時は正論を振りかざすのではなく、相手の立場に立って丁寧に言葉を紡いでいた。そんな父だったから母は深く愛し、姉も僕も大好きだった。いつまでも、自分たちをやさしく守り続けてくれる、そう信じて疑わなかった。
その父が、僕たちを置いて逝ってしまった。僕は悲しさよりもどうしようもない怒りを覚え、次に足下からすべてが消え去り、立っているのも覚束ないくらいの恐怖に襲われた。
母はずっと泣いていた。親族から哀悼の言葉をかけられるたびに、涙を零して挨拶をしていた。姉は、そんな母を支えるために雑事をこなし、時をみては母を励ましていた。まだ幼い僕に出来た事は、彼らに迷惑をかけないことだった。それは、大人しく、逝った父の息子として礼儀正しくあることだった。
不思議と涙は出なかった。
泣いてしまうと、父の死を認めてしまうようだったから。
父のいない世界を、僕は信じることができずにこの海へやってきた記憶がある。
そう、この時の僕も訪れる未来に不安に満ちた魂を抱えていた……。
風化しかけていた記憶が、次々に蘇る。
あの少年は、幼い頃の僕はどのようにしてこの不安から立ち上がれたのだろう。
そんな素朴な思いを胸に伸が近付くと、少年は驚いた様にそちらを見た。ここには自分以外の人間はいないはずだ、とでも言いたげな鋭い瞳だった。
「こんにちは。」
簡単な挨拶。しかし、少年はそれに応えることすらしなかった。それでも伸は納得した。この時の僕は、必死になって涙が溢れそうになるのを我慢していたのだから、挨拶すらできないだろうと。それくらい弱かったのだ、と。
少年は、再び視線を海に転じて黙り込む。
それから随分と間があって、少年は海を見たまま、独り言のように話し始めた。
「父さんが死んだんだ。僕は『あとつぎ』だから、泣いちゃいけないんだ。父さんのように、いつも穏やかでいなきゃいけないんだ。そうじゃなきゃ、お母さんも姉さんも守れない。」
「そうか。……逃げていたら、何も守れないんだね。」
少年の姿に自らの姿を重ねて、思わず伸は心の裡を言葉に乗せてしまう。意味が分からない少年は、キョトンとした顔つきで、伸の顔を覗き込んだ。
「あなた、誰ですか……?」
伸が返答に困り、幾許かの空白の時間が出来た時、それを破るように少女の声がした。まだあどけなさを含んだ瑞々しい声は、伸の記憶にある幼い姉のものだった。彼女もまた、黒い衣装に身を包み長い髪を風になびかせ、こちらに歩み寄ってくる。
少年は伸の事など忘れたかのように駆け出して、少女に抱きつき顔を埋めた。少女は幼い弟の頭を何度も何度もやさしく撫でている。
その姿を見ていた伸は、唐突に思い出した。
『よく我慢したわね。』
腕の中に飛び込んだ僕に、姉はそう言ってくれたのだ。僕はその一言ですべての不安を忘れて泣く事ができた。姉もまた、一緒になって静かに涙を流していた。だからその時、幼いながらに本気で母と姉を守ろうと思ったのだ。涙を流してでも守りたいものがあるのだと、幼いながらに心に決めたのだ。
ざあっと、海の方から強い風が吹いてきた。静かだった水面が小さな波頭を立てて砂浜に打ち寄せる。
ああ、またこの風か。
伸がそう思う間もなく、目の前の景色は絵の具が水に溶ける様に消え去った。
ふわふわと足下が不安定になるような目眩を覚えて、伸は目を閉じる。
次に目を開けた時、視界に飛び込んで来たのは白い大きな建物と、たくさんの緑に恵まれた公園と、数人の看護士の姿だった。
ここはどこだろうと思い、伸は周囲を見渡した。
病院だということは分かったが、何故そこに居るのかが分からない。過去にこんな大病院に世話になった記憶がないからだ。
足下には、陽の光を浴びて元気よく咲いている蒲公英と、どこか慎ましやかに佇んでいる名前の分からない小さな白い花が絨毯を作っていた。陽気に恵まれた春の一日らしい。
その絨毯を目で追っていくと、人影が見えた。
細身の男はベージュのスーツを身に纏い、太い楡の木に身を預けて、その視線は白い建物に向けられている。先に何があるのかと問いたい程真剣な眼差しだ。
不思議な事に、伸は瞬時にその男が未来の自分であると理解できた。そう、必ずやってくる未来に居る、自分。彼は一体、何を見ているのか。
「こんにちは。」
不審がられないように、伸はトーンを落として声をかけた。通院する人間を装ったつもりだが未来の自分を騙す事は出来るだろうか。
男は伸の存在にわずかに驚いた様子を見せた後、やわらかく笑って「こんにちは」と応えた。
「病院に、誰か逢いに来たのかい?」
男の問いに、伸は小さく首を傾げて返答に迷った。病院であること以外、ここがどこか分からないのだ。逢いに来る人などいるはずがない。
黙り込んでしまった伸に、男は気を遣ったのだろうか。まだ少年の面影が残る柔和な顔に静かな笑みを浮かべて言った。
「ごめんね。その……こんな場所だといろいろ事情があるんだから、無理に言わなくても構わないよ。今は……僕の方に余裕がなくて、そんな当たり前のことに気づいてあげられなくて。」
「何があったんですか。」
余裕がなくて、とやや憂いを浮かべて言った男の言葉に伸は嫌な予感を覚えて尋ねた。
男は、困ったな、という風に右手を額に当て、大きく溜め息をつく。
「息子が生まれたんだ。」
えっ、と伸は音にならない声を漏らした。心臓が大きく跳ねる。僕の、子供が生まれた、と。
「一度、この腕に抱いて、言葉にできないくらい嬉しかったんだけれど、同じくらい不安になったんだ。今の社会は子供たちにとってあまり幸せだとは思えない。だから、辛い体験をしたり、弱い自分に落ち込んだりするのか思うと……。そんな息子を僕はちゃんと見守っていけるのかと。」
そこまで言って、男は照れたようにはにかんだ。
「すまないね。名前も知らない大の大人がこんな愚痴を零してしまって。どうしてだろう。君とは初めて逢った気がしない。」
「僕もそうです。」
だって、貴方は、不安に満ちたこの僕を乗り越えて未来に生きている僕だから。今の僕と同じ弱さを抱えたまま、なお父親になろうとする未来を選んだ僕自身だから。
二人の間に静けさが宿り、互いに言葉よりも想いを伝えようとした時。
「伸!」
木立さえ揺らしそうな元気な声が聞こえてきた。息をはずませてこちらに駈けてくる。
「遼。」
伸と話していた大人の伸は、その声でがきっかけで伸の存在を忘れたかのように、明るい笑顔でそちらを見た。伸も驚いて大人の遼を見る。生き生きとした瞳と艶のある黒い髪は変らなかったが、背はずいぶんと高く、いくつもの困難を乗り越えてきたような深みのある面立ちをしていた。不思議なことに、遼は伸の存在に気づかなかった。全く見えないようだ。
「こんな所にいたのか。探したぜ。」
「ごめん、ちょっと考え事があってね。」
「どうせ伸のことだ。生まれてきた子供のことで、あれこれ悩んでたんだろう。」
「遼には隠し事、できないみたいだね。」
「伸が下手なんだよ。」
そこで一旦、遼は言葉を切って笑顔を消した。しばらく何かを考えるように空を仰いだ後、すっと伸の顔に近付いた。
「信将、だろ。自分の弱さを知りながら戦える一番強いお前だ。弱さを知ってなお、自分を信じられるのが伸だ。そんなお前に俺たちは救われてきた。だから、大丈夫だ。」
その言葉に、伸と、過去から来た伸が同時に息をのんだ。弱さを知ってなお、自分を信じられる己。そんな風に思った事がなかった。弱さはいつも、自分の足下をすくうような不安をかき立たせるばかりだと、そう思っていた。
「ありがとう。」
遼と話していた伸は、大きく胸で息をついて、大切な仲間の肩にぽんと手を置いた。
「僕はいつもみんなに助けられてばかりだ。」
その時、ごうと風が吹いた。まるで、春一番のような空をかき乱す強い風。
木々の葉が互いにこすれあう音と、ぬくもりを帯びた大気が伸の体を包み込む。
ああ、次の瞬間、おそらく僕はこの世界にいないのだろう。
そう覚悟をして伸は目を閉じた。
次に目を開けた時、周囲には夜のベールが落ちていた。嵐のような強い風が吹いている。黒々とした木々が荒ぶるように揺れて、どこか禍々しさすら感じさせる影絵にも見えた。風は、伸の体に体当たりでもするように後から後から質量をともなってぶつかってくる。
眼前に広がる湖面は大きく波打っていた。不吉な出来事の前兆のように赤黒く光を放っている。波頭が次々と岸にぶつかっては、細かい水滴をまき散らして消えてゆく。
遼たちに何かあったんだ。伸はすぐに理解できた。鎧玉がなくても肌で分かる仲間の危機。遼たちの笑顔が頭を過っては消えてゆく。積み重ねた会話が何度も胸に反芻されて息苦しくなる。見えないはずの仲間の叫びが聴こえてきそうで、伸は項垂れた。
僕は弱い。
戦士としては不合格だろう。
それでも幼い頃、母や姉を守ろうと決意した。
未来の僕は、新しい命を育てる決意をした。
戦いは嫌いだ。
けれども、生きてゆくということは常に何かと戦っていることだ。
守りたいものがあるなら、戦わなくてはいけないのだ。
弱い自分を抱えた己を信じながら。
自分を信じてくれる人たちがいるから。
伸は顔をあげて湖を睨んだ。その底には水滸の鎧玉が沈んでいる。仲間に巡り合わせ、伸に戦う事を求めた水滸の鎧。
戦いは嫌いだ。
もう一度、念を押すように伸は呟いた。
けれども、踏み出さなくては大切なものを守ることができない。
弱い自分を抱えたままその身を放り出してても、失えないものがある。
そして、僕はそんな自分と一緒に、この先もずっと生きてゆくのだ。
意を決して、伸はゆっくりと確実な歩みで湖に歩みを進めた。
そして、水滸の鎧玉を手にするために湖に飛び込む。
後には、自らの弱さと、それを抱えてもなお戦うと決めた戦士の作った大きな波紋がいくつもいくつも輪を描き、波打って消えて行った。
もりもり本に参加させて頂いた原稿です。輝煌帝伝説の例のシーンの脳内補完(笑)私の仲の伸のイメージの集大成かもしれないです。

