矢島家に着くと玄関先で年老いた女性が笑顔で当麻を出迎えた。顔に刻まれた皺から考えると彼女はすでにこの世ではなくあの世に近々籍を置くであろう年齢だった。深い紅葉色の着物の上から白い割烹着を着た女性は「うちの旦那にこんな若い男の子が用にくるなんて本当に珍しいこともあるわねえ」と、ころころと笑って当麻を屋敷の二階の一番奥の部屋に案内した。
「旦那は毎日この部屋で朝から晩まで史料を読んでいるのよ。もう足が悪いからほとんど外に出ることもなくてね。ちょっと取っ付きにくい性格だけど悪い人じゃないから相手をしてやってくださいね。」
彼女は当麻の手をとって、よろしくね、とでもいうように軽く握りしめるとそのまま来た廊下を戻った。
当麻は深呼吸して背筋を伸ばした。諏訪の歴史に会う。期待と緊張と祈りの想いを込めて扉をノックする。
「失礼します。守矢史料館から紹介していただいた羽柴です。」
しばらくの無音。それから枯れ木がしゃべったような音で「入れ」と声がした。
当麻が扉を開けると慣れない匂いが溢れ出した。日本酒独特の甘ったるい匂いだ。視線の先で深く椅子に腰掛けた男性が黄ばんだ和綴じ本を読んでいる。モノクロ写真でよく見る文学者のような風貌だ。時折、机の上の湯呑みを舐めるように飲んでいる。隣には一升瓶が居座っており、湯呑みの中身を物語っていた。
当麻は男から視線を外し部屋を見渡した。壁面すべてが本、もしくはかつて本だったもの、あるいは文字が記されているであろう紙に溢れ歴史の迷宮のような様相を呈していた。
「お時間を割いていただいてありがとうございます。」
返事はなかった。男性は当麻の存在に気づかないかのように本の文字を目で追っている。
当麻は待った。こういうことには慣れていた。研究者が自分の時間を大切にしすぎるあまり他者の存在に気づかないことは父で十分に勉強している。そして、集中している時間を他者に妨害されることのうっとうしさは自分自身で学習済みだ。
十分も過ぎたころだろうか。ようやく男が口を開いた。
「君はどこから来た。」
「東京からです。」
「生まれは西だろう。」
当麻の思考が止まった。思い描いた展開とは全く違う方向に話が転がった。
「西の訛りがある。」
「はい。生まれは大阪です。」
「どうして東京に出た。」
当麻は『困った』という言葉通りに困った。あらためて、東京に『居る』理由について考える。大学に入るならどこでもいい。東京という場所があらゆる情報とネットワークに接続できる世界的な街である、それが主な理由だ。もっとも、大阪にいてもどこにいても、『帰らなくてはならない場所』が存在しない、というのも大きい。要は知的欲求を満たし自由に生活できるならそれで良かった。それを、目の前の矢島、という男性にどう伝えるか。離れた世代の価値観の差は大きい。
「多くの情報や史料に当たることができるので大学は東京の方がいいかと思って。」
「君の御両親はそれに賛成したのかね。」
当麻は三度ほど瞬きして矢島を見た。彼が何を自分から聞き出そうとしているのか、まったく見当がつかない。そうしてふと考える。東京の大学を受験すると両親に相談しただろうか。記憶にある限りまったくなかった。母だけに事後報告はしたけれども。
「俺の父は研究者で母はジャーナリストです。二人とも多忙なので相談するタイミングもなかったから特に許可をもらったわけではないですが……」
「ほう、君の母親は新聞記者なのかね。」
矢島が当麻の言葉を遮り初めて顔をあげた。当麻を検分するような鋭い眼光が目の奥に潜んでいた。
「いえ、今はニューヨークで主に雑誌に寄稿しています。」
「女がアメリカで記者をする。そういうのがいるからいかんのだ。」
当麻は目を見開いて矢島の口元を見た。確かに彼の口から母の雑言を聞いた。間違いなかった。次いで怒りがこみ上げて来た。今まで人種を越えた価値観の違いを感じたことはあったが、同じ人種に対してこれだけの価値観の相違を感じたことはなかった。
「家を守り、血を繋ぐ場所を築くのが女の役割だ。違うかね。」
「お言葉ですが。」
堪え切れなくなって当麻の口から考えるより先に言葉が迸った。
「お袋……いえ、母は確かに自由な人です。だから研究者だった父ともうまくやれていました。」
当麻はそこで一呼吸置いて、矢島を見た。当麻の怒りを気にもとめない様子だった。
「昔は女性が家を守らなくてはならない時代もあったと思います。しかし、今は女性も男性も権利は平等です。世界の紛争地帯で活躍する日本人ジャーナリストがいるのなら、アメリカで女性がジャーナリストとして働くことは決して現代社会の女性の役割を逸脱しているとは思いません。」
「それは君の意見かね?」
「俺は母を尊敬しています。」
矢島は本を机の上に置き、体ごと当麻の方を向いた。腕を組んで目を細める。
「この国は『血』によって守られてきた。」
その言葉に当麻の体が硬直した。つい先日、そのための祭祀に参加したばかりではなかったか。
「その『血』が失われつつある。若い人間は故郷を捨て街に出る。家族制度は維持されず伝統は継承されない。そんな国はいずれ滅びる。そう、この諏訪も同じだ。」
当麻は何も言い返せなかった。善悪の問題ではない。矢島の言っていることは矢島世界という括りにおいて鉄壁の正しさを持っていた。そしてその正しさが矢島世界だけでなく普遍的に正しいとの証明のための祭祀につい先日、出たばかりだった。当麻自身はまだ答えを出していないが、連綿と受け継がれていく『血』が呪物として東京を守る、そういう非現実的な要求も突きつけられた。『血』の力についてはここ一ヶ月で嫌というほど味わっていた。
「そんな現代社会を良しとして民俗学を学んでいる君が何を求めているのかは知らない。だがそんな人間に教えることなど何もない。」
静かで鮮やかな拒否。
当麻は唇を噛みしめ、これまでの矢島とのやり取りを最初の一言目から最後の一語まで再生した。自分と矢島との間の溝は深く、そしてもうやり直しのきかない状況であることを理解した。けれども当麻に諦めるという選択肢は存在しない。己自身の全てを捨ててでも矢島の協力が必要だった。
当麻はリュックを下ろして床に置くと直角に腰を折って頭を下げた。湯呑みに手を伸ばしかけた矢島の手が止まった。
「確かに矢島さんのように日本の伝統を大切にしてきた方にとっては、俺みたいな人間の生き方は許しがたいのかもしれません。」
太腿の横に置いた両手を握りしめ、当麻は言葉を絞り出した。
「こうして矢島さんに言われるまで『血』の重要さも知識としてしか知りませんでした。実感がなかった。でも、今の俺には『血』よりも守らなければならないものがあるんです。」
「そんなものは存在しない。『血』を連綿と受け継いでいくことがこの国の歴史を守ることだ。わしにとってそれ以上の価値のあるものはない。」
矢島は湯呑みを啜って深い息を吐いた。部屋に充満するアルコールの匂いが濃くなった。
それから長く重い沈黙があった。当麻と矢島の距離を重さにして表したような沈黙だ。
先に口を開いたのは矢島の方だった。
「一体君は、何のためにここに来た?」
矢島の口調が少し変わった。険をはらんだ物言いがほんの少し溶けた。当麻は折っていた腰を戻して矢島を見た。研究者ではなく人間らしさの見える顔をしていた。
「守りたい人がいます。」
「恋人かね。」
当麻の背中にぬるい汗が滲んだ。脳裏に伸の顔が過る。恋人ではない。そんな飴玉のような軽い関係ならここまで来ることもなかった。そう言い聞かせて小さく頭を振った。
「そいつが今、危ない状況にあります。そこから救い出すのに、矢島さんの諏訪についての知識をお借りしたいんです。」
湯呑みを置いた矢島はもう一度手を組んだ。背もたれに体を預け、当麻の頭の先から爪先までじっくりと精読するように眺めたあと、視線を部屋の隅の椅子にすべらせた。
「座りたまえ。」
当麻は深く一礼をした。どうやら壁を乗り越えたらしいという安堵感とともに椅子に腰をかける。同じタイミングで扉を叩く音がした。
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