風の降る里(2)
翌日、諏訪大社上社本宮を訪れた当麻は、これといった成果もなく諏訪大社上社前宮に向かう東参道に出た。午前八時五十分。まだ熱を持つことのない太陽は清々しい光で諏訪の朝を照らしていた。高部地区方面へ向かう細い道を歩いて五分くらい経ったころだろうか。一筋の風が通り過ぎた。下諏訪駅で感じた風とは全く異なる風だった。当麻にもはっきりと分かるくらい、土の匂いと水の匂いを含んでいる。まるでその風の軌跡が見えない境界であったかのように、突然、空気が変わった。体感気温が二度ほど下がり当麻は思わず周囲を見渡した。これまで遠景として見えていた諏訪の山々の木の葉の一枚一枚がくっきりと見えるくらい、世界が明るく鮮やかに浮かび上がった。鳥が高い声で鳴いた。透明に澄み渡る鳴き声が遮るもののない自由な青い空に吸い込まれていった。『聖域』。その言葉が当麻の脳裏を過った。許された者しか入ることのできない場所。そこに足を踏み入れたのだ。自然、当麻の背筋が伸びた。
諏訪大社上社本宮から前宮までは距離にして3キロほどだ。その中央に山を割るように高部扇状地が広がり、当麻の今回の最大の目的地、守矢史料館がそこにある。諏訪大社と深い関わりを持って来た守矢家が代々伝えて来た古文書を保存してある場所だ。ネットの情報通り、史料館は非常に目立つ建物だった。青々とした諏訪の緑となだらかな斜面にはり付くように広がる畑の中に、時代の特定が不可能な奇妙な形の宇宙船が降り立ったとでもいう目立ち方だった。周囲の家より一つ頭突き抜けた背の高い小麦色の棟の一角から地面ぎりぎりまで焦げ茶色の長い屋根が伸びている。屋根が地面に辿り着く少し前のところに二本の木がそびえていた。当麻は建物を一周し、ようやく入り口を見つけた。「ご自由にお入りください。入館料 百円」と書かれてある。木の把手を引き、足を進めようをしたところで声がかかった。
「お客様、申し訳ありませんがここは土足禁止なんです。」
声の方を見ると、受付と思われる小さなガラス扉の向こうから人の良さそうな年配の男性が、当麻に興味深そうな視線を注いでいた。慌てて足元を見ると、確かに二足、男物の靴が揃えられている。
「一応、入り口に書いてあったんですが。」
「気付かなくてすみません。」
当麻は靴を脱ぎながらリュックを背中から下ろした。
「細川さん、やっぱ、あれ、見えづらいんだよ。」
ガラス扉の奥から野太い声がした。当麻と話した男性よりもひどく訛りのある口調だ。
「やっぱりそうですね。今度、館長に話しておきます。」
「あの、入館料はここでいいですか?」
二人の会話の間に割り込む形で当麻は聞いた。男性は嫌な顔することなくあらためて当麻の方を見ると、ああ、すみません、と笑って、ガラス窓に貼付けられているプレートを指差した。
「入館料は百円になります。」
リュックから財布を取り出し百円玉を渡すと、男性は入館チケットと史料館の案内パンフレットを当麻に差し出した。
「どちらからいらっしゃったんですか?」
「東京です。」
「学生さん?」
「まあ、そんなもんです。」
当麻は男性が首からぶら下げている身分証を見た。『茅野市職員 細川』と書かれてある。なるほど、ここは個人の史料館ではなく市の管轄だったんだな、と妙なところに感心していると、男性が指で示しながら言った。
「手前の常設展示は撮影可ですが、奥の企画展示は撮影できないので注意してくださいね。今は武田信玄が守矢家に宛てた書簡を展示してあります。」
どうも、と当麻は小さく頭を下げて中に入った。
いきなり視界に飛び込んで来たのは、一目では数え切れないほどの鹿の頭の剥製。天井の上からからびっしりと埋め尽くされ、一匹一匹が今にも悲鳴をあげそうな生々しい顔をしている。その下には兎を尻から頭まで串刺しにしたものが桶の中で炭火焼にされている。隣には『猿の脳あえ』と書かれた桶がある。当麻は軽い吐き気を覚え、展示の要であろう剥製の動物たちから目をそらした。その視線の先に小さな本棚を見つけた。並んでいる書籍の背表紙のタイトルに目を走らせる。「諏訪大明神絵詞」「年内神事次第旧記」等々。まったく聞いたことのないものばかりだ。本棚の端からかたっぱしに本を取り出し史料の内容に目を通していると、背後から声をかけられた。
「諏訪の歴史に興味がおありですか?」
ひょろ長い男性が親しげに笑っていた。先ほど、受付でやりとりした「細川」という身分証を首からぶら下げた男性だ。
「ええ、諏訪上社について少し。」
「民俗学? それとも考古学?」
返事に迷い当麻が黙ってしまうと、細川は手のひらを胸の前に出して、すまないね、と言ってから続けた。
「ここの本棚を漁るのは民俗学か考古学の学生か研究者しかいなかったからね。」
「考古学関係の人も来るんですか?」
「そうだね。この高部扇状地は縄文時代から続く『高部遺跡』という場所だから。諏訪といえば諏訪大社のイメージが強いけど、このあたりは考古学的にも面白い場所なんだ。でも史料が一般に出回っていないからね。専門的な知識が欲しい人がここに来る。」
当麻は考えた。この目の前の人の良さそうな市の職員が果して千早樹のことを知っているかどうか。思案すること三秒。リトマス試験紙にかけてみることにした。
「俺は民俗学を専攻していて、諏訪に根付いているといわれるミシャグチ神について調べているんです。」
「ほう、ミシャグチさんね。」
「しかし謎の神だとか真実味のない怪しい逸話ばかりしか見つからなくてここに伺いました。」
細川は何度も頷きながら当麻の言葉を受け止めて、唐突に企画展示室の方を指差した。
「ミシャグチさんは謎の神でもなんでもないよ。そこにいらっしゃる。」
「え?」
「この史料館の裏にミシャグチさんを祀っている社があるよ。この守矢史料館の館長の守矢さんが代々ミシャグチさんを祀って来たからね。」
当麻の脳細胞に電気が走った。雷が空を走るように鮮明に千早樹の名が出て来た。うるさいくらいに心臓が鳴り脈拍が上昇する。リュックの中から美術雑誌の特集に掲載されていた千早樹の写真をコピーしたものを取り出して細川に見せた。写真の中で千早樹は桔梗色の着物をまとい朱の唇にあえかな微笑みを浮かべていた。
「守矢家の関係者の方に、この人はいますか?」
細川は一度写真を覗き込み、それから胸ポケットから眼鏡を取り出してもう一度写真を見た。一分ほど記憶を遡るための沈黙をおいてから首を捻る。
「これはいつの写真かい?」
「ごく最近のものです。」
もう一度黙り込んで、細川は腕を組んだ。
「僕はここで働き始めて十五年になるけど、守矢さんの関係者でこんな人はいないと思うなあ。」
「守矢家の関係者じゃなくてもいいんです。諏訪上社に関係のある人でもいいんです。」
思わず早口になり、当麻は語尾で舌の先を噛んだ。鉄の味がじわりと口に滲んだ。
当麻の豹変ぶりに細川は驚いたらしい。わずか、上半身をひいて両手のひらを当麻に向けた。待ってくれ、のポーズだ。
「おーい、太田さん。」
受付の方を向いて細川は声をかけると、「太田」と身分証を下げた男性がやって来た。細川の二倍の腹回りの男もまた、興味深そうに当麻に視線を注いだ。
「細川さん、どうした。」
「いや、この学生さんがね、この写真の人を探しているらしいんだよ。守矢か、もしくは諏訪上社に関係あるらしいって話なんだけど。」
太田が写真を覗き込んだ。眠そうな目を何度か上げ下げしてから、薄くなった灰色の髪を掻いた。
「この人、何歳くらいかね。」
訛りの強い口調で当麻に尋ねた。
「ちょっと年齢までは……。一応、公開されている限りの情報では年齢不詳の日本画家ということになっているんですが。」
「日本画家なあ。守矢の人で画家になった人はいないなあ。遠縁でもいないはずだ。」
「うん、聞いたことがないね。」
隣で細川が相槌を打ち、それから何かに気づいたように手を打った。
「もしかしたら五官家の親類にならいるかもしれない。」
「五官家?」
突然出てきた未知の言葉を、当麻は鋭い疑問の口調で反芻した。
「ああ、矢島さんなら知ってるかもな。」
「矢島さん、最近どうですか。」
「相変わらずお元気だったよ。一昨日、奉納酒を届けに伺ったときはきちっと杖で立って出迎えてくださった。」
当麻の頭上を『矢島』という謎の人物が通り過ぎて行く。しかし、自分を無視されている不快を覚えることはなく、むしろ目の前の二人がこの『矢島』に対してひどく敬意を払っていることに興味を覚えた。鍵、そんな言葉が脳裏を過る。
「噂の女の子には会いました?」
「残念ながらいなかったな。」
太田が口を大きくあけ豪快に笑って、それからひょいと当麻を見た。
「ああ、悪い悪い。お客さんの前だった。」
それからもう一度、写真を覗き込んで、それから当麻に言った。
「悪いがこの人については俺たちでは分からん。こういう史料館で働いているから、諏訪の知識はそれなりにある。諏訪大社の神職より俺たちの方が諏訪の歴史には詳しい。あっちは神社の歴史、こっちは諏訪の歴史だからな。だが、それでも分からん、ということは、『矢島さん』に頼るしかない。」
「先ほどから出て来る『矢島さん』というのはどういう方なんですか?」
「諏訪本来の歴史を背負う最後のお一人なんです。」
細川が言った。その直後、館内の空気がぴんと張り詰め貴い静寂に包まれた。館内に設置された振り子時計の秒針が二十五回動いたとき、ゆっくりと時間が動きだして太田が口を開けた。
「学生さん、名前を聞いてもいいかね。」
「羽柴といいます。」
「ほう、太閤さんか。」
太田は独り言のように呟き、写真を指さした。
「『矢島さん』は諏訪のすべてを知っている。つまり、『矢島さん』がこの写真の人物を知らなければ羽柴さんの目的は果たせないが、それでもいいか?」
「はい。」
太田は受付に戻り、それから五分後に帰って来た。
「今、『矢島さん』と連絡をとった。羽柴さんのことを話したら会ってくれるそうだ。」
「ありがとうございます。」
当麻は小さく頭を下げて、『矢島』と呼ばれる男性の姿を想像した。諏訪の全てを知る人物。歴史を背負う最後の一人。諏訪の深い森の奥で隠棲する賢者、そんなイメージが湧いて来た。
「お宅はこの近くだ。史料館の前の道を渡って道なりに右に歩くとお屋敷がある。」
「今から行って会ってもらえるんですか?」
細川が目の縁に皺を寄せて頷いた。
「『矢島さん』はお一人では外に出られない方なので、一日中家にいらっしゃいますから。少し気難しいところもありますので、失礼のないようにしてくださいね。」
当麻はもう一度、ありがとうございます、と頭を下げて史料館を後にした。
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