第54話 風の降る里 

 風の降る里 (1)




 あずさ17号を降りて下諏訪駅のプラットホームを踏みしめた瞬間、山の奥で生まれたばかりの清冽な風が当麻の頬をなで、そして去って行った。
 懐かしい。
 そういった種類の感情が体を通り抜けて行った。
 当麻は風の軌跡を目で追った。煌めく一条の筋が見えた。
 遮るもののない空から降り注ぐ光は世界をくっきりと色鮮やかに浮かび上がらせている。肺を満たす空気は当麻にも分かるほど生命力にあふれ、ほんの少し、水の匂いを含んでいた。諏訪湖の匂いなのだろうか、それとも山の木々に生い茂る葉が零した雫の匂いなのだろうか、当麻には分からなかった。穢れに充ちた灰色の東京の街から突然、昔話の舞台に放り込まれたような驚きを覚えた。
 当麻は風を受けたまま青い空を眺めていた。諏訪に来るのは初めてだが、やはりどこか懐かしい風景だという感覚がぬぐえない。その理由を探し始めたとき、背後で電車が止まる音がした。各駅停車の電車から地元の中学生と思しき女子が六人と、二人の老婆が降りてきた。中学生の中の一人がちらりと当麻の方を見て、何もなかったかのように仲間たちとの会話に戻った。老婆二人もまた、当麻を何度も見ながら改札へ向かった。浸っていた懐かしさは霧散し、初めての体験に当麻は戸惑いと好奇心の両方を等分に味わった。思えば、これまで日本国内で訪れたことのある場所はみな都会だった。駅前には駅ビルとビジネスホテルとコンビニがあり、プラットホームを歩く人間は他人に無関心だった。けれども、この鄙びた駅はどうだろう。駅ビルどころか売店すらない。そして先ほどのように、明らかに外部の人間だと分かると良くも悪くも目立ってしまうらしい。日本の「村」文化が色濃く残っている地域なのだろう。だとすれば、一歩間違えれば「村」に侵入してきた危険人物と見なされ、情報を得るどころではなくなってしまう。諏訪で二泊する間、なるべく事件が起こらないことを当麻は祈った。

 下諏訪駅から人影のまばらな古い街並を十分ほど歩いたところに当麻の宿泊するホテル山王閣がある。名前の響きからはそれなりの旅館を彷彿をさせるが、実質は国民宿舎なのでお世辞にも高級とは言えない。当麻の予約したシングルの部屋にいたっては各部屋にトイレはついておらず、フロアごとに共同、風呂も露天風呂で共同だ。諏訪大社下社秋宮まで徒歩3分という立地条件の良さがなければ、とっくの昔に廃れていただろう。
フロントでチェックインし、予約した部屋に入ると、当麻はリュックを部屋の片隅に置いて窓越しに景色を眺めた。視界の半分を諏訪湖が占めていて湖の向こうには濃い緑の山々が折り重なっていた。見たことはないが、ただ、懐かしいという感情だけが胸を過る。
「諏訪に来るのは初めてなんだがな。」
 当麻がそう呟いたとき、遠い記憶の彼方から柔らかな声が応えた。
『征士と遼と諏訪に行ったんだよ。とても綺麗なところだった。』
『当麻も行けばきっと気にいると思うよ? 風がね、きらきら光って諏訪湖を吹き抜けるんだ。神々しくて、そしてやさしい風だった。』
 あまりにも多くのことがありすぎて、すっかり諏訪と彼の関係を忘れていた。伸は一度、少年の頃に諏訪を訪れているのだ。そしてその感想をあまやかな声で丁寧に教えてくれた。『君は風の戦士だから、きっと諏訪の風を気にいるよ』と。下諏訪に降り立ってからの「懐かしい」という奇妙な感覚は、そのせいかもしれなかった。その当人が今、どこでどうしているか考えかけて、当麻は理性で制御した。スーパーコンピューターよりも完璧なコントロールだった。今、当麻がすべきことは彼を心配して心を彷徨わせることではなく、彼を煩わせる原因を突き止めてこの腕に取り戻すことだ。洞真法人が命をかけてまで託してくれた手がかりをこの諏訪で解明しなくてはならない。諏訪大社上社と千早樹。そしてそれに関わってくるであろう伸自身。それから蛇。陰陽寮が隠している何か。伸は会社に辞表を出したと言っていた。ならば取り返しのつかない瞬間まであまり時間もないのだろう。この二泊三日で決着をつけなければならない。
 当麻は窓から離れると、リュックからノートパソコンと缶コーヒーを取り出して机の上に置くとあぐらをかいて座り込んだ。プルトップをあけながらスリープ状態のパソコンを立ち上げる。ただ苦いだけの液体を舐めながら、一枚の書類ファイルを開いた。あまり時間はなかったが、事前に諏訪に関する調査をしてきたものだ。といってもいくつか民俗学関係を得意とする本屋に電話を入れても諏訪に関する本を扱う店はなく、ネットで調べた限りも同様に諏訪を専門に扱う本はなかった。だから結局のところ、一般的な民俗学で扱われている範囲での諏訪にまつわる伝承や信仰についての内容だ。その中で当麻が着目したのは二点。
 まず、諏訪大社の祭神である建御名方神(たけみなかたのかみ)は、古事記に一度しか出て来ないという点。大国主の国譲りのエピソードの中で、高天原からつかわされた建御雷神(たけみかづちのかみ)に負けて諏訪に逃げ込むのだが、このエピソードは日本書紀には存在しない。政治的に見れば天津神=ヤマト朝廷に抵抗した勢力が諏訪で信濃国一ノ宮として丁寧に祀られている。さらに建御名方神は龍神や水神であるという説話もある。
 もう一点は、神話から離れたもう少し民俗学的な点だ。諏訪地方は昔から蛇信仰が盛んだったという。白蛇のソソウ神や謎が多いとされる蛇神、ミシャグチ神を祀る信仰が古くから根付いていた。
 龍神、水神、そして蛇。
 当麻は伸がチュニックを着なくなったその日から、時折、細いうなじや手首に見え隠れする細長いものの正体について考えた。伸に触れようとしたときに、伸の体を使って自分に忠告してきた「モノ」について考えた。征士のように不可視の世界が見える訳ではない。しかし、出来る限り精度の高い推論を重ねて現実的な解釈で現状を把握したとき、伸は蛇と深い関わりを持ってしまったのではないかという結論に達した。どのような関わりかは分からない。ただ、伸自身が己の本性を殺さなくてはならないほどの関わりだ。当麻の知る限り、伸はどんな状況であれ自分の命を餌に他人を脅したりしない。そう、夜の井の頭公園で当麻の前でカッターを見せつけたように。
 メールソフトが十件のメールを受信したという通知が出て、当麻はソフトをクリックし確認した。二十秒で全て読み終え、ふとヘッダーに目をやった。十八時四十五分。ホテルの夕食は夜の二十一時までだ。明日はまず、隣の諏訪市と茅野市にある諏訪大社上社本宮、前宮、そしてその中間にある守屋資料館をまわる予定なので、朝の六時には起きなければならない。ならば早く寝るに越したことはないだろう。当麻はパソコンを閉じて、部屋に用意されているバスタオルと浴衣を持って部屋を出た。

 宿代にしては品数の多い贅沢な夕飯を食べて、当麻の苦手な露天風呂から帰って来るころには、すっかり夜が更けていた。部屋の窓からは、諏訪湖をとりかこむように色とりどりの煌めきがぐるりと弧を描いているのが見えた。これだけの光を必要とするだけの人口がこの諏訪には住んでいるのだろうか、当麻は素朴な疑問に囚われた。駅で降りたときのことを思い出す。各駅停車の電車から降りたのは、女子中学生と老婆だけ。当麻以外の観光客と思しき人間は見当たらず、ホテルに続く店も半分以上はシャッターが閉められていた。明らかに過疎が進んでいた。高齢化が進めば、いずれ地図から諏訪という固有名詞が消えてもおかしくはないだろう。
 当麻はそれ以上の詮索をやめて押し入れから布団を出して床に敷いた。諏訪の未来を憂いにこの地に来たのではない。知りたいのは、諏訪の過去、だ。
 リュックからミネラルウォーターと2センチ四方の銀色の薄いプラスチックに閉じ込められた睡眠導入剤を三錠取り出した。薬剤師の知人から横流ししてもらったものだ。薄いプラスチック製の包み紙を破り青に近い紫の楕円形の錠剤を三錠、手に乗せて口に放り込む。医学的に適量以上のトリアゾラムを水で体内に流し込み、電気を消して布団に潜り込む。
 眠りはやってこなかった。むしろ、時間が経つにつれ思考は冴え始めた。さらに悪いことにその思考をうまく制御できず、禁忌のようにこれまで避けてきた事実について当麻の脳神経は電気信号を発し始めた。
 ここに伸のぬくもりがあったなら。
 露天風呂であたたまった体はもうすっかりと冷えていた。それでも、そう考えた瞬間、彼の体の輪郭の部分だけぬくもりがよみがえるようだった。そしてそのぬくもりは、当麻の腕の中に幻の身体を浮かび上がらせた。幻にもかかわらずほんのりと甘い匂いも少し湿ったやわらかな髪も全てが精確だった。腕の中で彼が言った。
『僕が安眠剤になるんだったら、いつでも抱いてかまわないよ。』
 あれはまだ春だった。彼のようなやさしい季節だ。あのときは確かに伸を入眠剤代わりにしていた。だが今はどうだろう。自分が求めているのは入眠剤としての彼なのか。否。答えはすぐに出た。事件が起きるたびに失う予感に苛まされたのは、入眠剤ではなく彼の全てを欲したからだ。その感情に一致する言葉を当麻は世界中の言葉から探したが見つからない。
 当麻は目を開けて、腕の中を見た。誰もいなかった。暗い部屋に自分一人だった。
 闇は人を不安にさせる。当麻もその理から逃れられなかった。
 もし伸が帰って来なかったら。
 これまで忙しさの中で目を逸らし続けてきた最悪の未来を当麻は想像してしまった。
 伸のいない世界。
 伸ともう二度と会えない世界。
 当麻は呼吸を止めて、全身を強ばらせた。理性も思考もぶ厚い暗闇に押しつぶされ麻痺している。そのなかでただ一つ、怖いという感情が全身を貫いた。


更新しました。当麻の章です。しばらく舞台は諏訪になります。ああ、諏訪旅行に行きたい(笑) 続きはブログで。