丑三つ時。深い夜闇の凝った中庭に炎が揺らめいていた。青白く燃え上がるかと思えば赤い舌を幾つも夜空に突き出す、熱のない変幻自在の幻の炎だった。
縁側に座った千早はその炎をしばらく眺めていたが、炎の演舞の単調さに倦んだようにひとつ、小さなあくびをして湯呑みに口付けた。隣には何枚か絵が重ねられ置かれている。千早の描いた神々の絵だ。
「寒くなってきたわね。」
千早の背後から女の声がした。部屋の暗がりから乃千清美が姿を見せた。彼女にしては珍しくパンツスーツ姿だ。濃いグレーのスーツで全身を覆っているとそれなりに研究者らしく見えた。
「おや、今日はお仕事帰りですか。」
「駒場で講演会。そのあとオヤジたちに付き合って呑んでたの。学部長まで顔を出してきて、めんどくさいことこの上なかったわよ。」
「それはおつかれさまでした。」
千早はいいわよね、若い子に囲まれて、と文句を言いながら清美は千早の隣に座り、炎を見た。
「焼いてるの?」
「ええ、いつものことです。」
千早はちらりと隣に重ねられた絵に視線を向けた。その間に千方が音もなく現れ、清美の横に湯呑みと茶菓子を置くと、千早から少し離れた斜後ろで正座をした。千方もまた炎を見ていたが、彼の瞳には何も映ってはいなかった。
清美は千早の隣の絵を一枚一枚、めくっていった。最後の一枚で、手を止める。アトリエで千早が伸に見せた絵だった。
「これ……千早の匂いが濃いわね。」
「ああ、それは北方水気の中のものをおびき出すために少し呪をかけてありますからね。まあ、エサです。」
千早はその絵を取り出して、他の絵を一気に炎の中に放り込んだ。青白い炎は焼き殺される神々の悲鳴を糧に燃え盛り、中庭を鮮やかに照らし出す。絵に使われた赤、青、黄色、緑、あらゆる色が揺らめく炎を色どり、神殺しにだけ現れる凄絶な美しさを中庭に描いた。
「で、北方水気くんの中には何がいるのかしら?」
「気になりますか?」
「国宝級の純粋な子よね。」
「でも残念ながら、我々と同類ですよ。」
清美は何かを考えるように少しだけ黙った。
「千早と彼はとても似てると思うけど……同類という感じはないわ。」
「彼の性格ではなくて中身のことです。蛇が彼の中にいるんです。」
清美は湯呑みに伸ばしかけた手を止めて千早を見た。愉快そうに幾重もの帳を揺らめかせる炎を見ている。その横顔を見て清美は夜闇を漂う粒子にしか聞こえないように呟いた。「だから彼は逃げて来たのね」と。
千早が名のない神の絵を炎に放り込んだとき、中庭の木々があおられるようにざわめいた。黒々とした二枚の羽が幻火に照らし出され艶やかに浮かび上がる。
「花月、おかえり。どうだったかい?」
やわらかな千早の声が中庭に響き、花月の二枚の羽がばさりと一度羽ばたいた。炎が横に広がり、それから縦に伸びた。
「一人を除いてみなさんは平和に退場しましたよ。」
嘲笑うように言って、花月は空中で腕を組んだ。
「一人?」
「ええ、東方木気です。今日の昼過ぎに諏訪に出発したようですよ。」
くつくつと花月は笑った。丑三つ時が悪意を持って笑ったようだった。
「諏訪に行ったのか。」
千早の喉から低い声が漏れた。立ち上がり、ぐっと夜空を睨みつける。
豹変した千早の様子に、清美は一瞬、身をすくめ、それから立ち上がって妖の目で彼を見た。千早の体はうっすらと燐光を放ち、夜空に向けられた右目は金色に溶けて瞳はなかった。浴衣の袖がそわそわと揺れはじめ、やがて千早を中心に風が渦巻き始めた。幻火は嬲られるようにあらゆる方向に姿形を変え、木々は互いが戦うようにその枝を打ち鳴らした。吹き荒れる風の中で千早の髪も荒ぶり乱れ宙に舞い醜くひきつれたみみずの痕のような左目が見え隠れし、彼を人にあらざるものへと変化させた。他のものの存在をゆるさないくらいに膨らんだ千早の気が中庭を飲み込む。
「千早さま。」
ごうと唸る風の中に静かな声が生まれた。かき消されてもおかしくないほどの小さな声にもかかわらず、それは中庭に集う全員に聞こえていた。
声の方に千早は振り返る。炯々とした金色の目でその存在を確かめて、それから左下に視線を落とした。千方が浴衣の裾を軽く引っ張っている。
「千早さま、落ち着いてください。」
平板な千方の声からは感情は読み取れない。しかし、千早にはなにか伝わったのだろうか。失った瞳は形を取り戻し、体から放たれていた圧倒的な気は波打ち際の波がひいてゆくようにすっと気配を消した。同時に風がおさまり中庭に再び丑三つ時に相応しい静寂が訪れる。
「諏訪は……夏直路(なすぐじ)は千早さまが封じられた土地ではありませんか。たかが人間ごときに辿り着けるはずはありません。」
長い沈黙が続いた。世界が終わるまで続きそうな沈黙を千早の弱々しい声が遮る。
「ああ、そうだったね。」
それから千早は浴衣の裾に伸ばされている千方の手に自分の手を重ねて言った。
「すまない、千方。」
その言葉は、失われた『千方』と作り直された『千方』どちらに向けられた言葉なのか、千方にも千早にも分からなかった。
これで、この章は終わりです。お付き合いいただきありがとうございました。当伸の話です。絶対に当伸の話ですから!(大切なことなので二度言いました)その他呟きはブログにて。

