第52話 虚にまどろむ海の底(4)

 虚にまどろむ海の底(4)





 伸が千早のアトリエに呼ばれたのは、午前十時を少し過ぎたころだった。昨日までなら朝の家事をすませティーブレイクの紅茶を飲んでいる時間だ。
「お呼びたてして申し訳ありません。」
 アトリエになっている和室の襖を開けると、濃い草色の作務衣を着た千早がうつ伏せの体勢から上半身を起こして伸を出迎えた。絵の制作の途中だったらしい。絵筆を絵皿に置くと、正座をしたまま伸に頭を下げる。長い銀鼠の髪がゆるゆると床に流れた。
「昨晩の疲れはありませんか?」
「いえ、平気です。千早さん、頭をあげてください。泊めてもらったのは僕の方ですし。」
「そう言っていただきありがとうございます。」
 千早は一度、ちらりと部屋の奥に寝かせてある一枚の絵を見遣ってから、伸に入ってくるように促した。
 アトリエの中心に千早が座し、その周囲に五枚の描きかけの絵と無数の絵皿や筆、それから伸には分からない画材が所狭しと広がっていた。壁には丁寧に表装された神々の絵が十二幅、ほどよい間隔で架けられて、十畳の部屋はさながら人の広さの概念を失った高天原のようにも見えた。いぐさの匂い、にかわの匂い、岩絵の具の匂い、墨の匂い、紙の匂い、木の匂いが入り混じり、それらすべてを千早の匂いが包み込んでいた。アトリエには千早の持つ空気が染み込んでいた。それはずいぶんと長い歳月を感じさせた。何年このアトリエで千早は過ごしてきたのだろうか、ふと伸は素朴な疑問を抱いた。
「毛利さんに見て頂きたいのはこの絵なんです。」
 千早は立ち上がり奥から一幅の絵を持ってきた。伸の前で広げて再び正座をする。伸もまた正座をして絵を覗き込んだ。 
 確かに奇妙な絵だった。
 千早の絵の特徴は、淡い墨絵のような筆遣いと鮮やかな色のコントラストだ。水彩画のようなやわらかさを持ちながら、色づかいは印象派のように明るい。しかし、目の前の絵は灰色一色だった。墨絵といっても過言ではない。
 1メートルの和紙に描かれたその「神」は、千早の言う通り、下半身は蛇だった。細かく描かれた鱗が証明している。しかし、上半身が「いびつ」だった。顔の造作だけでは性別不明で目だけが異様に大きくつり上がっている。その双眸は今にも泣き出しそうに哀しみを湛え、乱れた長い髪は濡れそぼって身体にはり付いていた。への字に結ばれた口元はすべてを飲み込み諦めた者のそれと似ていた。
 千早の絵を何度か見る機会があったが、これほどまでに悲壮な絵を見るのは初めてだった。まるで明日、世界が終わるとでもいうような圧倒的な苦しみしか、この絵からは感じられない。にも関わらず、この「神」をどこか知っているような気もした。どのような神なのかは分からないが、もしかすると、この「神」は、明日、この和紙の中で息絶えてしまうのかもしれなかった。それは自分も同じことだ、と伸はふと気づいた。この神は明日、息絶える。自分は冬至に息絶える。それだけの違いだ。ならばこの「神」は何のために命を捧げるのだろうか。
「毛利さん?」
 千早の声が頭の上から聞こえて伸は我に返った。知らないうちに前屈みになって絵を覗き込んでいたらしい。慌てて背筋を伸ばし千早に向き合った。
「良かった。どうかされたのかと思いました。」
「え?」
「毛利さんがその絵を見始めてから、もう二十分も経っているんですよ。」
 伸の心臓が大きく跳ねた。何かが裡側から這い出そうとしてきているのを感じ取った伸の体に漠然とした得体の知れない悪寒が走る。伸は無意識に右手で右首筋に触れた。「いびつなものたち」がゆっくりと起き上がり、伸の身体を冒しはじめていた。急激に視界は狭くなり聴覚は内側に向けられる。鋭敏になった皮膚の感覚はほんの少しの空気の揺らぎすらひりひりと灼けるように感じる。頭を後ろから鈍器で殴られたような痛みを覚えて目を閉じた。同時に視界が紅に染まる。網膜から侵入し毛細血管の隅々まで行き渡る圧倒的な意思を持つ紅だ。紅は血と混じってより一層、赤く伸の視界を覆った。
 冷えてゆく身体を伸は自分で抱き締めた。もう触れなくても分かる。身体のあちこちに「いびつなもの」たちが蠢いて伸の「ただしくあるべき形」を奪っている。伸を喰らい異形へと変貌させている。朦朧とする意識の深い深いところに膨大な時間を束にしたような深い声が響いた。
『異形になる覚悟はあるか。』
 覚悟はあった。今でも後悔はしていない。異形になってでも護りたい人たち、いや『人』がいるのだ。異形になった自分を彼が恐れ、そして長い時間の果てに忘れ去ったとしても決して後悔しないという覚悟はいつでもできている。
 けれどもそれは、心の問題だった。実際、身体は限界に近付いていた。吐き気がして口元を抑えようとするがうまく身体が動かない。動いているのは皮膚を這いずり回る「いびつな」神々だった。
 遠くから自分を呼ぶ声がした。千早なのだろう。海をひとつ越えた向こうから聞こえてくるような小さな声だった。繰り返されるその声に答えようとするが、声帯も冒され自由にならない。こういう時、今までなら彼が自分を抱き締め全てを吹き払ってくれた。透明で明るい清冽な風で。それを突き放したのは自分の方だ。すべてを置き去りにして世界でたったひとりのいびつな存在となった自分は、もう誰からも救われることはない。
 濃い紅に染まった視界が急速に昏い赤へと変わり、やがて色彩を持つことに倦んだかのように色を失い始めた。灰色が滲み、徐々に勢いを増して本当の黒に変わった瞬間、伸は意識を失った。

 伸がくたりと時間を止めてしまった人形のように倒れてから、千早はしばらくその姿を眺めていた。伸に向けられた視線に最初は何の感情も籠ってはいなかったが、突然、滾るものが溢れた。歪んだ愉悦の眼差しが伸をまっすぐに貫いた。千早の目には獲物を前にした狼のような獰猛さが宿っていた。その双眸とは対照的に口元には母が子に与える慈愛に満ちた淡い笑みが浮かんでいる。
 千早は立ち上がり、伸を介抱するように上半身を抱き寄せてその顔を覗き込んでから検分するように観察し、再び布団の上その身体を横たえた。そして絵筆になじむように作られたかのような細く繊細なつくりの二つの手で伸の首を掴んだ。細い腕からは考えられないほど軽々と首を掴んだまま上半身を持ち上げる。二つの目に歓喜の色を踊らせ、微笑を浮かべたまま、一秒ずつ力を加えてゆく。伸の命が一秒ずつ短くなってゆく。
「千早さま。」
 背後の声に千早は振り向いた。千方が凍り付いた影のように立っていた。
「殺してしまっては使い物になりません。」
 目にすることさえ疎ましいという様子で千方は伸を一瞥した。
「それに、そのような穢れたことは千早さまのなさることではありません。北方水気を殺すのであれば私にお言い付けください。」
 伸の上半身を半ば、投げやるように床に下ろした千早は恍惚とした表情のまま長い前髪を掻き揚げた。失われた左目が露になり、端整な貌が突如、反転して、千早を妖艶な異形へと変貌させた。
「ああ、すまない。あまりにも無防備だから思わず手が出てしまったよ。」
 通話が切れてしまったあとのような沈黙が訪れた。やがて千早は腰を下ろし伸の顎にそっと手を差し伸べてその青白い顔を見た。
「これが十年前、我々が仕掛けた事件を解決した人間の一人なのか。」
 不思議な話し方だった。千方への問いでもなく、独り言でもなかった。教科書を読み上げるような淡々とした言葉だった。
「千方。」
「はい。」
「私も一人だとこんなにも脆いのだろうか。」
 今度は明らかな問いだった。千方は身動きひとつせず、ただ一度だけ瞼を上げ下げしてから答えた。
「千早さまが一人になられることはありません。」
 千早は目を閉じしばらく何かを考えてから、伸を部屋に連れて行くように千方に命じた。



 伸が目を開けるとひどくよそよそしい天井が目に飛び込んで来た。知らない天井だった。自分が今どこにいて、なぜ横たわっているのか分からず眉間に皺を寄せたとき、やわらかく耳をくすぐる音があった。
「毛利さん、目を覚まされましたか?」
 頭だけで声の方を向く。千早樹の姿が目に入り、それで伸はすべてを思い出した。アトリエで「いびつなもの」たちが身体の裡で暴れ始めたのだ。どこまで見られていただろうか、そんな伸の漠然とした不安を千早は一言で打ち消した。
「やはり昨晩、呑み過ぎたのではありませんか?」
「え?」
「あのワインは口当たりがいいので、ついつい呑みすぎてしまうんですよ。私も最初、呑みすぎて、翌日の講演をキャンセルしたことがあります。」
 笑いながら言って、千早は伸にグラスを差し出した。
「お水でもいかがですか?」
 ゆっくりと起き上がり、言われるがままに伸はグラスを受け取り水を喉に流し込んだ。いつもなら伸を癒すはずの水は、食道と内蔵をめぐりほんの少し体温を下げただけだった。身体はまだ思い通りには動かず意識はぼんやりとしていた。部屋を満たす甘い金木犀に似た香りが追い打ちをかけるように伸の思考を鈍らせていた。そしてふたたび、重い体を布団の上に横たえた。
 気怠さに麻痺した伸の神経に清らかな感触が走った。千早の手が伸の額に触れている。ひやりと早春の小川の水を思わせる温度に伸は身を委ねる。心地よいと思った。そしてこの温度に覚えがあったがいつだったのか思い出せずにいた。つい最近のことのようにも思えるし、ずいぶん昔のことのようにも思えた。
「やはり熱がありますね。」
 千早は隣の木の桶からてぬぐいを取り出すと、絞って伸の額に置いた。
「あ、ありがとうございます……」
 懐かしい感覚と記憶が蘇ってきた。職場でもプライベートでも誰かの面倒をみたり病気の看病をしたりするのは、いつも伸の役目だった。このように誰かから介抱されるのはおそらく中学生のころ、まだ四人に出会う前が最後ではなかっただろうか。風邪をひいた伸に姉が細々と世話をしてくれた記憶がうっすらと蘇る。その時も姉が、伸の額に濡れたタオルを載せてくれた。
 もしこれが四人だったら、と伸は考えた。おそらく、笑顔を作って「もう大丈夫」と起き上がるだろう。彼らに遠慮をしているのではない。自分の力は「癒す」力だ。ならば看病をするのは自分であって当然、逆の立場になることにはひどく抵抗があったのだ。けれども、千早に対してはそういう感情は一切起こらなかった。鎧のしがらみがないせいなのか、それとも千早には自分と同じ何かしらの力があるのか。伸には分からなかった。ただ、千早が横にいて、自分の体調を気遣い、濡れたてぬぐいを頭に載せる、そういったひとつひとつのことが全く違和感なく、まるでこれまで当たり前に行われて来たように居心地良く感じられるのが不思議だった。
 しばらく、新雪が積もるときにやってくるやわらかな沈黙があった。そしてまた、朝、聞いた知らない鳥の鳴き声が聞こえた。まるで人の言葉をしゃべるように鳴く鳥だ。
「珍しい鳴き声の鳥ですね。」
「あれですか。私も名前を知らないんですよ。専門家にも聞いてみたんですが、姿が見えないことには調べようがないと言われましてね。」
「そんな鳥がいるんですか?」
「そうみたいですねえ。人間が嫌いなのかもしれません。」
 おっとり言って、千早は木の桶の位置をほんの少しずらした。
「私の故郷にはたくさんいましたよ。声だけで姿の見えない生き物は。」
「確か、諏訪でしたよね。」
「はい。」
 千早は面をあげて、姿の見えない鳥の鳴くの中庭の方を見た。障子ごしに差し込む秋の光が千早を染め上げて、銀鼠の髪が淡く金色に輝いている。半分だけ現れている貌を構成するひとつひとつが、彼以外の誰も持つことを許されないとでもいうように完成された美しさを備えていた。そして太陽が世界でたったひとつであるように、彼自身がたったひとりの太陽神のように見えた。その千早自身の瞳は、遠く神代を見晴るかすように澄み渡っていた。
「ひとつ、昔話でもしましょうか。」
 千早は一度、伸の顔を覗き込み、拒否の意思がないことを確認すると再び中庭の方に顔を向けた。
「以前、お話しましたよね。私が諏訪のある神社の当主を逃げ出してきたことは。」
「ええ。」
「十六歳の時でした。諏訪一帯で流行病が蔓延して父もその折りに亡くなりました。本来ならその時に私が神社を継ぎ、その土地を、しいては諏訪を護るべき役割を担うはずだったのですが逃げて来たのです。」
 伸は前回、この屋敷を訪れたときに千早が話していたことを、甘い香りで痺れた頭でぼんやりと思い出していた。
「確か、普通に暮らしたかった、と。あのときおっしゃられていましたよね。」
「はい。でもそれは、叶わない夢なんです。あの場所から逃げ出しても、私は私自身から逃げられないのですから。」 
「それは神懸って絵を描いている、ということからですか?」
「いえ。」
 千早はゆるゆると首を振った。
「宮司家の当主は幼い頃からその身に『神』を宿します。そのための儀式が言葉を覚える前から行われるのです。」
 伸は何か言おうとして口をつぐんだ。神を身に宿す、ということ。あの、広さのまったくわからない空間で今、伸の裡に宿る神と契約したときのことを思い出した。神の前では自分自身は完全に失われる。そのはかりしれない大きさに圧倒され喰らわれる。幼いころに千早はそういう体験をしたのだろうか。それでは、今は。聞きたいことがあふれそうになったが、うまくまとまらず、伸は黙るしかなかった。
「ミシャグチ神、という神様をご存知でしょうか。」
 伸は枕の上で頭を小さく揺らした。
「諏訪の護り神です。江戸が終わるまで諏訪はこの蛇神が護っていました。」
 言いながら千早は自分の胸に手を当てる。
「その蛇神が私の身には宿っています。」
 千早が障子から伸の方へ視線を移した。動きにともない流れた髪の隙間に、ミミズが数匹這ったような醜い跡が見えた。以前、訪れたときに、幼い頃、左目と左足を封じられたのだ、と光の中で告白するように言ってた千早を伸は思い出した。そして伸の右腕は無意識に右首筋に触れていた。伸の中の『蛇神』は姿を潜めているようだった。
「神というものは残酷です。私の目と足どころか、もっとも大切なものまで奪って、それでも足りぬと要求するのです。」
 伸は息を止めて千早を見た。思わず、言葉が零れた。
「何を……奪われたのでしょう。」
「兄です。」
 迷わず言い切って千早は伸の右手に自分の左手を重ねた。触れた一瞬、走った緊張はすぐに消えた。千早から流れ込む感情は晴れた秋の野にひそやかに咲く小さな菊のようだった。光の季節の終わりを飾り、ほんの少しの寂しさを含んだ気高さを持つ温度。その感情の温度は伸にとってひどく心地よかった。
「神を身に宿すことで幼いころから苦しみに堪える日々でした。それでも兄が助けてくれたので生きることができました。その兄を失い、私は行き場をなくしました。だから、宿命も村も捨てて逃げて来たのです。」
 伸の手の甲に重ねられた千早の手のひらにほんの少し、力がこめられた。強烈な怒りと痛みの感覚が手のひらごしに伝わって来る。伸がその感情を味わってる途中、突然、千早の手のひらが離れた。千早が哀しく笑っていた。
「大丈夫です。毛利さんの中のものは、この家にいる限り出てくることはできませんから。」
「……分かっていらっしゃったんですか?」
「同じ『蛇神』ですから、引き合ってしまうのでしょうね。ただ、私はそれをコントロールする術を知っているだけです。」
 伸は目を閉じ、両目の上に手のひらを当てた。瞼の裏に青い髪の彼の姿が映った。耳元で低く名前を囁かれたような気がした。どれだけ逃げても彼からは逃げられない。逃げ出して、ようやく分かったのだ。物理的距離は精神的距離とは無関係であるということに。彼から逃げ切るには、命を絶つ以外、方法がないということに。
 千早はどうなのだろう、と伸は思った。奪われたと言う兄を、今、どのように思っているのだろう、と。やはり自分と同じように瞼を閉じればその姿から逃れられないのだろうか。自分のように身体が引き千切られるような心の痛みを感じているのだろうか。
「毛利さん。」
 ふいにかけられた言葉に、伸は千早を見た。幻のような微笑みが浮かんでいる。その完璧に調和された笑みは伸の心に染み入って迷いに充ちた心を豊かに潤した。
「もし、その中のもののせいで行く当てがないのでしたら、好きなだけここに留まって下さい。遠慮はいりませんから。」
 千早の口元に留まった微笑みを凝視して、伸はようやく納得した。昨日、吉祥寺で同じように微笑みかけられて感じた居心地の悪さの正体は、千早のせいではなく受けとる自分の心の在り方のせいだった。すべてから逃げ出し、世界でたった一人だと思い込み、己から世界を遮断していた。そして、自分にとって疑うことなくあたたかな笑顔を紡ぎ出すことができるのは世界で四人だけだと信じて疑わなかった。そこから逃げ出した今、もう二度とそれらは手にはいらないと思っていた。だから向けられた美しい好意を素直に受けとることができなかったのだ。でも今は違う。皮肉なことに、四人から、運命から逃げ出したその先で、同じく「運命から逃げ出した」千早に拾われた。大切なものを奪われる痛みも逃げ出す苦しみも分かってくれるだろう。千早なら、自分がふいに消えても、すべて納得して受け入れて許してくれるだろう。
「しばらくお世話になってもいいですか。家事のお手伝いくらいしかできませんが。」
「千方の仕事をとらないでやってください。あんな風貌ですが家事は結構好きなんです。」
 千早は小さく声をたてて笑いながら伸の額の手ぬぐいを取り替えた。


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