案内されたのは、白を基調とした広めのダイニングキッチンだった。屋敷の外観のイメージを大きく裏切る洒落た部屋にも驚いたが、それ以上に伸が意外だったのは先客がいたことだ。
「はじめまして。」
グラスの中の赤ワインを左手で揺らしながら、女は伸に微笑みかけた。決して媚びている風ではなかったが、「はじめまして」という挨拶には、その言葉が従来持つ意味の重さが欠けていた。女は前々から伸のことを知っているような気軽さで「はじめまして」という言葉を使った。
「あ……はじめまして。毛利伸といいます。」
軽く一礼して、伸はあらためて女を見た。溌剌とした印象を与えるショートカットと、知性と好奇心をいい塩梅で配合して映し込んだような焦げ茶の瞳。ブラウスの袖から伸びる細い腕や薄い化粧の下から覗く肌理の細かい肌はまだ若いことを示していた。ナスティと同じくらいか、もう少し上だろうか。一体、千早とはどういう関係なのだろうか。部屋の入り口で立ったまま、思い巡らせている伸に千早が声をかけた。
「こちら、乃千清美さんです。男ばかりの夕食というのもなんだか色気に欠けるので来て頂きました。」
「よろしくね。」
乃千清美と紹介された女は伸の方にグラスを少し掲げてから一口、ワインを飲んだ。
「毛利さんもお疲れでしょう。こちらへどうぞ。」
ありがとうございます、と軽く頭を下げて促されるままに誕生日席に着いた伸は、テーブルの上に広げられた色とりどりの料理に目を見張った。大ぶりのピザ二枚、大皿のパスタ、鮮やかな色のサラダが三種類、それからスープに、チキンをソテーしたようなもの、見たことのないお菓子のような細長いパンのようなもの。それからフォカッチャ。部屋の白に映えるトマトの赤がいくつもの料理の色合いに統一感を出していた。彩りを添える緑は香草だろう。チーズの深い香りに、伸はようやく自分がずいぶんと腹を空かせていることに気づいた。
清美はトマトとモッツァレラチーズを綺麗に自分の取り皿に取り分けてからもう一口ワインを飲むと、思い出したように言った。
「千早の家でイタリアンなんて珍しいわね。アクアパッツァはないの? いつものお店、魚がおいしそうだったわよ?」
千早は合図を送るようにちらりと伸を見た。
「客人が魚が苦手なのですよ。」
伸は本能的に反射して上半身ごと千早の方を向いた。
「あの……それは僕のことですか?」
千早は頷いて、伸のグラスにワインを注いだ。
「前回、来て頂いた折にはたいしたおもてなしもできませんでしたから、今日はゆっくり夕食でも楽しんでください。千方は一応、あれでも、ある有名シェフの料理教室に通っているんですよ。」
「千方さんが作ったんですか? 家政婦さんじゃなくて?」
「家政婦は先日、体調を悪くして暇をとりました。遠慮せず食べて下さいね。一応、私が味の保証はしますので。」
そして千早は、どうぞ、と伸にワインを勧めた。伸は促されるままにグラスに口付けた。甘酸っぱい葡萄の味がふわりと口の中に広がり、冷えきっていた体をじんわりと温めた。
「おいしい。」
思わず零した伸の言葉を受け止めて、千早は伸にボトルのラベル面を見せた。
「メーカーのものではないんです。山梨に私の画集を好んで買って下さっている方がいまして、その方の農園で作られている限定品なんです。毎年、この時期になると葡萄と一緒に送ってくださるんです。既製品よりも果物の味が芳醇で私のお気に入りなんですよ。」
千早はボトルをテーブルの上に戻すと、グラスのワインに口付けた。
「それよりも千早。こんな可愛い子、どこから攫ってきたのかしら?」
清美は半熟卵とアスパラガスの載ったピザを一切れ、それから生ハムとたけのこのサラダを取り分けた。
「変な言いがかりはよしてください。僕の絵のファンですよ。」
「気が多いと誰かさんが心配するわよ。」
「さて、なんのことやら。」
千早の視線がすいと隣の千方に動いた。切り分けた鶏肉のトマト煮とマルゲリータを千早の皿に載せているところだった。機械よりも精密に無表情にそれを行い、千方は自分の皿にも同じものを載せた。
「ねえねえ、毛利君。」
「え、あ……はい。」
物差しで計ったようにぴったり1センチの厚さに切られたトマトを口に運びかけて、伸はその手を止めた。
「あなた、もてるでしょう? 男からも、女からも。」
「ええと……。」
かちゃり、と小さな音を立てて伸はフォークとナイフを置いた。意識が少し痺れていた。空腹にワインを飲んだのがまずかったのだ、と気が付くまで三秒、それから清美の問いへの適切な対処方法を思いつくまでに三秒。
「人付き合いは多分、得意な方だと思います。でも、特にもてることもないです。」
「じゃあ恋人は?」
青みがかった髪の彼の横顔が脳裏を過った。それから、どこまでも続く青く広い空が伸の頭上いっぱいに広がった。青は次第に濃くなって黒に近い紺色になり、燦々と星々が輝き始めた。その星々の一つひとつに、彼との記憶が宿っているようだった。そして唐突に、酒の熱とは別のぬくもりが伸の体を支配した。伸が突き放したぬくもりだった。
「いません。」
清美の言葉を、正確には彼女の言葉によって甦ろうとする記憶を断ち切るように言った。伸にしては珍しく強い口調だった。そのことに、一番最初に気づいたのは他でもない、本人だった。
「あ、すみません。その、僕はあまりそういうことに興味がないので。」
「ふうん。」
清美が左手でワイングラスの中身をくるくると器用に揺らしながら伸をまっすぐ見た。口元にはほんのりとやさしい微笑が浮かんでいたが、目は笑っていなかった。伸の言葉の真意を探るような目つきだった。逃げるように伸はほんの少し俯いてトマトを口に運んだ。酒に酔って顔に出ることはないが、嘘をつくと表情で分かると昔から言われていたのだ。耳が痛くなるような沈黙が続き、伸は知らず、ワイングラスに手を伸ばした。
「まあまあ、清美さん。あまり客人を困らせないで下さい。」
「あら、ごめんなさい。若くて可愛い子はつい、いじめたくなっちゃうのよ。もう歳なのね。」
「清美さんは、いつまでもお若いですよ。」
「ありがとう。でも何もでないわよ?」
千早はマルゲリータのチーズが一番少ない赤い部分を切り取って、口の中へ入れた。それから思い出したように言った。
「そういえば、最近の若い子の間では清美さんのようなショートヘアが人気なんだとか。」
「千早が女性のことにに興味をもつなんて珍しいわね。」
「そういうファンの方が多いですから。」
その後に続く二人の軽快な会話を聞きながら、伸はラタトゥイユに似た野菜の煮込みを深皿から取り分けた。3センチ程度に揃えられたズッキーニ、ナス、ピーマン、プチトマトがごろりと伸の皿に転がり込んだ。
奇妙な会話だな、と伸は思った。内容のどこにも齟齬はない。ただ、まるで舞台の脚本を読んでいるか、もしくはバラエティ番組のタレントのやり取りのように作り物めいた感じがした。けれどもそれは思い違いだろう、とワインのせいでふわふわとまとまらない思考をやめた。そもそも、自分自身がこの場では客人、言い換えれば部外者なのだ。千早とその友人らしい女性との間に普段どのような会話がされているのか知らないのは当然で、ならばこの作りものめいた会話もいつもの会話なのかもしれなかった。
伸がナスを口の中に放り込んでワイングラスに手を伸ばしたとき、扉が二度、ノックされた。どうぞ、と千早が声をかけると一人の少女が入って来た。宗教画で描かれる天使のようなまっ白な少女だ。歳は十二、三歳くらいだろうか。銀色の髪は腰までまっすぐ届きうっすらと輝き神々しく見えた。見るものに畏怖感を与えないのは、やわらかなフリルを無数にあしらった純白のワンピースのせいだった。唯一、瞳だけが初雪に闇が穴を開けたように黒かった。
彼女は両手に不思議な形をした楽器を抱えていた。鳥の片方の翼の骨組みだけ残し、そこに何本かの糸を張ったような楽器だ。
「はじめまして。華月(かげつ)といいます。」
少女は小さくお辞儀をして、窓際に用意されてあった椅子に座った。そして楽器にも自己紹介をさせるように、弦を二本、鳴らした。ふわりと海の中で気泡が揺れるようなやさしい音が部屋を包み込んだ。
ワインで甘く麻痺している伸の五感にそれは心地よく響いた。小さな演奏家に自分も挨拶をしなければ、そう思い、あらためてその端整な顔を見た。彼女の黒い瞳と視線が絡んで、伸は我に返った。「かげつ」、その言葉に聞き覚えがあった。何度も自分たちを苦しめた天狗の名だ。しかし、神田明神の夜空に浮かんでいた姿と、目の前の少女は似ても似つかない。
「『かげつ』さん、ですか?」
「はい、華やぐ月と書いて、『華月』といいます。」
少女はくつくつと笑った。年齢と美貌に似合わない、底なしの闇が意思を持ったような笑い方だった。それから楽器を椅子に置いて、重力を感じさせない軽やかさですべるように伸に近付いた。
「どこかでお会いしましたか?」
伸の頭にちかりと既視感をともなう痛みが走った。得体の知れない胸騒ぎがした。しかし、それはアルコールによって一瞬にして霧散した。アルコールは確実に伸の正しい思考を奪っていた。
少女は椅子に戻り楽器を手に取ると、言葉を紡ぐように一音、弦を鳴らした。
「華月は近所のハープ教室の生徒さんです。食事会には音楽がつきものと思いまして来て頂きました。」
千早の説明に、そうだと答えるふうに、豊かな音が響いた。
「『華月』ちゃんは幼いけど腕はプロ並なのよ。」
くすくすと面白そうに笑って、清美はワイングラスの最後の一口を飲み干した。
「清美さんは今日もお綺麗ですね。」
「ありがとう。でもお世辞はもう少しひねった方が効果的よ。千早にでも習いなさいね。」
「おかしないいがかりはよして下さい。」
千早の言葉に少女は小さく首を傾げて、ちらりと伸の方を見た。
「私、まだ子どもですから。」
まただ、と伸は思った。まるですべてが前もって用意されていたかのような会話。パズルのピースはすべてあっているはずなのに、出来上がった絵は全く何の意味もなさない、そういった類の違和感。
ぽぉんと一音鳴った。部屋の空気が揺れて伸の意識はそちらへと逸れた。
華月は弦を三本つまびいたあと、なめらかに指を動かしハープを奏で始めた。低音は豊かに響き海の底にゆったりと眠る魚達の夢を紡ぎ出した。高音はきらきらと朗らかに、天の川の星を音符にして奏でているようだった。少女は宇宙に存在するすべてのものを音にできそうだった。そしてその音は時間も空間も越えて永遠に鳴り響くように思えた。
「毛利さん。」
隣の千早に声をかけられて、伸は濃密な音の世界から現実へと引き返した。
「あ、はい。」
「ワイン、いかがです?」
気が付くと、伸のワイングラスが空になっていた。そんなつもりはなかったがずいぶんと早いペースで飲んでいた。
ありがとうございます、とグラスを傾けると千早は半分ほど注いでボトルを置いた。
「楽しんでいただけていますか?」
「はい、とても。」
それからしばらく、贅沢な音とともに歓談が続いた。話を進めているのは清美だった。清美は伸のことが気になるらしく、仕事や趣味のことを聞いてきた。音と酒でふんわりといい気分の伸は、介護職についていることと、水泳とバスケットが好きなことを話した。けれども、出身地と、東京にいる理由は聞かれなかった。清美の質問攻めに伸が困り始めると、千早が助け舟を出した。すると、今度は千早が質問攻めに合った。千早は彼にしては珍しく言葉に詰まりながら、「企業秘密です」を繰り返していた。
そのようにしてどれくらい時が立った頃だろうか。一言も喋らなかった千方が、白い壁に架かっている木製の丸い時計を一瞥してから「千早さま」と、隣の主人にだけ聞こえるように声をかけた。
「どうしたんだい?」
「時間です。」
短く言って、千方はもう一度、時計を見た。つられて千早も視線を走らせる。
「おや、もうこんな時間だ。」
おっとり言って、千早はグラスをテーブルに置いた。
「あら、もう十時。」
清美は自分の腕時計を見て驚いたように言った。
「清美さん、どうされます?」
「そうねえ。酔いが覚めるまでちょっと部屋を貸してもらえるかしら。」
「いいですよ。」
頷く千早の隣で千方は音もなく立ち上がり、キッチンに向かった。すぐに、水の流れる音が聞こえて来た。
「毛利さん、今晩は遅くまで引き止めてしまいました。もしよろしければ泊っていきませんか?」
伸はその言葉がずいぶん遠いところから聞こえたような気がした。どうやらワインを飲み過ぎたようだった。ここまで抱えて来た精神的な疲れもあったし、慣れない歓談の緊張感をワインで誤摩化そうとしていた面もあった。伸は千早の言葉の意味を考えて一瞬迷ったが、頼ることにした。いつもなら躊躇って断るだろう。けれどもアルコールでしびれた意識は伸の理性のハードルを半分くらいまで下げてしまっていた。何よりも、現実的に伸にはその夜、泊る場所がなかった。
「お言葉に甘えていいですか?」
「ええ。喜んで。先ほどの部屋に寝具を用意させます。」
千方がトレイに氷の入ったグラスを四つ載せてキッチンから戻って来た。三人の前にグラスを置くと、やはり音もなく席に着いた。
「千方さん、ありがとうございます。」
伸はアルコールの火照りと喉の渇きを癒そうと氷水を口にした。冷たい水が喉を通り体中をめぐる。頭から爪先まで六十兆個の細胞の一つひとつがクリアになったように感じた。
その様子を千方がじっと見ていた。氷水の温度よりも冷ややかな視線だった。
鮮やかな紅の夕陽が世界を緋色に染め上げていた。水平線は血のように赤く、空は天頂まで綺麗な茜色のグラデーションで塗りつぶされていた。海は秋の盛りの紅葉で埋め尽くされたかのように揺れて、浜辺は八重桜を敷き詰めた絨毯を思わせた。風はそよとも吹かず、時間は縫い付けられたかのように止まっていた。終わらない夕暮れだった。生き物がすべて死に絶えてもこの夕暮れだけは残るだろうと思える夕陽だった。
その中でひときわ鮮烈な色を放つ唐紅の着物をまとう童女が海を見つめていた。その二つの眼から、一筋、二筋、涙が零れる。
「ごめんなさい。」
夕暮れの赤に吸い込まれそうな小さな声で童女は呟いた。
「君のせいじゃないよ。」
夕陽の紅にほんのり染まった袍をまとった少年が言った。
「でも、あなたは来てしまった。生まれ損ないの私が、もう一度生まれるために、あなたを犠牲にしなきゃいけない。」
「きっと、そういう運命だったんじゃないかな。」
「ごめんなさい。」
「泣かないで。それより、これから僕はどうすればいいのかな。」
童女は黙り、少年は海の方を見た。新月の夜に訪れる沈黙が二人の間に降りた。
それからずいぶんと時間が経った。一時間かもしれないし、一日かもしれなかった。時が止まってしまった浜辺では、それすらも意味がないのかもしれない。
ゆっくりと童女が少年の方を向いた。両の瞳は薄い涙のヴェールで覆われ滲んでいた。
「ごめんなさい。」
少年はやさしく童女を抱き締めた。
「泣かないで。大丈夫。」
人の気配を感じて伸は目を覚ました。枕元の携帯電話に手を伸ばし、時間を確認する。夜の二時十五分だった。
十時過ぎにダイニングキッチンを出て一度この部屋に戻り、それから風呂を借りて汗を流したところまでは覚えている。しかし、そのあとどのようにして布団まで辿り着いたのか思い出せなかった。すっかりアルコールに身を委ねてしまっていたらしい。
部屋の灯りをつけ、中庭に面した障子を開けた。
「どなたですか?」
縁側に座る人影が静かに振り向いた。庭にしつらえられた灯籠の灯りに照らされてひとつずつ、細部が明らかになる。細い項があらわになって、そこからなだらかな肩が続いている。卵形の小さな顔はほの白く闇に浮かび上がっていた。焦げ茶色の瞳は濡れたように伸を見つめ、薄い唇だけがうすぼんやりとした空間の中ではっきりと自己主張するように紅に染まっていた。一瞬、誰かと伸は目を疑ったが、乃千清美に間違いなかった。先ほどのダイニングキッチンの時の溌剌とした印象とは打って変わって、彼女から漂う雰囲気はどこか千早のまとう妖しいなまめかしさに通じるところがあった。
「毛利君、かわいいから夜這いに来ちゃった。」
清美はワイングラスに一口、口付けると正面の中庭に向いた。
「ね、こっちにきてちょっとおしゃべりしない?」
伸は返答に迷った。沈黙が粒子のように漂い夜の庭を押し包んだ。
「旦那の仕事が遅くなって、なかなか迎えが来ないのよ。」
「まだ飲まれていらっしゃるんですか?」
「これはただの葡萄ジュース。酔い覚ましよ。」
清美がひそかに笑う気配を感じて伸は諦めた。彼女は自分が話し相手をしない限りこの場所から動かないだろう。なによりも、パートナーを待つ女性の寂しさというものを想像して伸は縁側に出た。清美から五十センチほど離れて腰を下ろす。
「やさしいわね。やっぱり人から好かれるでしょう。」
清美は小さく笑いグラスを傾けた。伸は黙って中庭の灯籠の灯りを見つめた。
「私の仕事、分かる?」
難しい問いだった。仕事というのは人の数だけ存在する。人を使う仕事もあれば人に使われる仕事もある。どこに所属し何をするか。誰のために何をするか。そういった多くの選択肢のどこにも彼女の居場所はないように思えた。
「これでも研究者なのよ。」
「研究者、ですか?」
「そう。専門は民俗学。ちゃんと本も出してるの。」
伸は目を見開いて隣の女性を見た。どんなに目を凝らしても伸の想像する研究者のイメージの欠片のひとつも見当たらなかった。今、目の前の彼女から想像できる仕事といえば、夜の闇の褥で人外の者を慰めるような仕事しか見当たらなかった。
「民俗学といっても幅が広いですよね。どのような研究をされているんですか?」
「そうね。」
清美は伸の方を見て、二度、瞬きをしてから言った。睫の濃い影が白い面に揺れた。
「正史によって存在を消されたり貶められた者たちの名誉挽回といったところかしら?」
伸の呼吸が一瞬止まり、体の片隅でくすぶっていた眠気が一気に吹き飛んだ。頭の奥深いところで、踏切の赤信号のようにちかちかとランプが警告を示していた。
「安珍清姫伝説って知ってる?」
「道成寺に伝わる話ですね。」
伸は伝説を頭の中でなぞった。僧の安珍に一目惚れした清姫が、約束を裏切られたことを知り蛇に化生して、鐘の中の安珍ごと焼き殺してしまうという話だ。蛇。無意識に伸は右手を右首筋に当てた。特に変わった様子はなかった。
「蛇体に変じて僧を焼き殺した清姫をあなたはどう思う?」
「どう思う、とは?」
「蛇体に変じた清姫は怖い存在? 一度愛した者を殺した清姫は悪者かしら?」
これもまた、難しい問いだった。社会的な通念に則れば、蛇体に化生した時点で恐ろしい存在であるし、人を焼き殺したという物語的事実は清姫の罪を語っていた。
けれども、と伸は思う。約束を破った僧にも罪はある。そして、愛するがゆえに相手を殺めてしまうという行為に伸はなぜかひとかけらの嫌悪感も覚えなかった。人殺しは確かに罪だろう。けれども、そこに激し過ぎる愛が存在したとき、裏切られた方の心は誰が救うのだろう。
もし、当麻が明日、自分を「裏切った」という理由で殺すと言っても、伸は素直に受け入れるだろうと思った。むしろ、そちらの方が救われるかもしれない、と。けれどもこの世界は物語ではなく、人を殺めると否応なく罪になるという残酷な世界だ。当麻に自分は殺すことはできない。もし、物語の世界であっても、やはり当麻は自分を殺すことはできないだろう。
「清姫は悪くないと思います。ただ、激し過ぎる想いは、想う方、想われる方、どちらも幸せにしないと思います。」
「そうかしら?」
清美はグラスの中を覗き込んで目を細めた。伸の心の中を覗き込むような仕草だった。
「誰かを強く思うってそんなにいけないことかしら? 世界でたったひとりになっても、その人がいれば堪えて行けるのよ。そういう愛し方を毛利君はしたことはないのかしら。」
「ありません。」
伸の声が震えた。
「僕はそういうことに興味がないんです。」
伸は今、誰にどんな罪を犯しているのだろうと考えた。遼、征士、秀、ナスティ、純、そして当麻。皆が自分のことを想ってくれて自分もまた深く想っている。だから、そこから去らなければならなかった。今回の事件で命のやりとりをするのは自分ひとりで十分だ、とかつて渡井に宣言したように。けれども、当麻は薄々、自分のその決意を感じていたのだ。だから今朝、吉祥寺を去るときに引き止めなかった。それが逆に辛かった。彼自身が守ると心に決めた者が、己の意思で去ってしまうのだ。それを見送る当麻の気持ちはどこへ行くのだろう。
五ヶ月の間、当麻と過ごしたいくつもの記憶が頭を過った。吉祥寺の駅で久しぶりに再会したときにナンパをしてきた。子どものように自分に甘え、その代償に幼い恋慕で自分を守ると言い出した。その気持ちは日を重ねるごとに鍛え上げられ、まっすぐと清冽な『想い』に昇華され自分を毎晩包み込んだ。それをすべて裏切ったのが今の自分だ。
「嘘がバレるタイプね。」
思いに耽っていた伸の右頬に清美の冷たい手のひらが触れた。まっとうな人間の体温ではなかった。驚いた伸が清美を見ると、秋の夜更けのあちこちに漂う哀しみを含んだ視線を向けて笑っていた。
「あなたは千早と同じ眼をしてる。深く愛したものをなくした眼よ。」
伸は息を呑んだ。中庭中に響くのではないかと思われるくらい大きな音がした。
「それとも、安珍と同じ、逃げて来たのかしら?」
清美のもう一本の腕が蛇のようになめらかな動きで伸の顔に近付いて来た。左頬に当てられた手のひらはやはり冷たく、彼女が人ではなく夜に蠢く妖の眷属ではないかと思わせた。潤んだ清美の眼がじっと伸を見つめている。その視線に縫い付けられたかのように伸は身じろぎ一つできなかった。
聞いたことのない鳥の鳴き声で伸の意識はゆっくりと朝を迎えた。知らない場所で迎える朝を告げる知らない鳥が中庭でさえずっていた。起き抜けでまだぼんやりとしたまま、伸は障子を開けた。縁側には誰もいなかった。昨晩誰かがそこにいたという気配もやはり残っていなかった。
借りていた浴衣を畳み、ボストンバッグの中から取り出したシャツとジーンズに着替えると、伸の足は自然にダイニングキッチンに向いた。居場所が変わっても、習慣というのは抜けないようだ。
ダイニングキッチンに入ると、味噌のいい香りが漂って来た。正しい朝の香りだった。
「千方さん、おはようございます。」
蛇口から流れる水音が止まり、キッチンで小松菜を刻んでいた千方が顔をあげた。朝だというのに、きっちりと皺一つないシャツを着込み、その上から白いエプロンをつけている。千方は一瞬だけ伸を見て、すぐに手元の作業に戻った。まるで、何も見なかったのような仕草だった。
「あの、何か手伝えることはありますか? 料理は嫌いじゃないんです。」
トントンという軽快な音が止み、再び千方が顔をあげた。今度はちゃんと伸を見ていた。ようやくその存在を認めたとでもいうような冷ややかな目をしていた。
「作りたければあなた自身のものをつくっていただきたいですが、千早様に怒られるので何もしないでください。」
鼓膜を太い針で突き刺すような声音で言って千方は再び小松菜を刻み始める。これほど鮮やかな拒絶の態度を示されたのは生まれて初めてだった。どんなに恨みを持つ相手にでもこのような突き放し方を伸はできないと思った。千方に何かしただろうか、と昨日からの記憶を遡ったが思い当たる節がない。そして、ある種の違和感を感じた。千方に会うのはこれで三度目だ。いつも千早の影のように付き添っていて、影は感情も持たないとでもいうように無表情だった。けれども、今、一瞬だけ見せた千方の顔には、人間の感情の片鱗らしきものが宿っていた。初めて見る、彼の生の感情だ。それも好意とは真逆のとげとげしい感情だ。なぜ、そのような負の態度を千方が伸に向けるのかやはり分からなかった。
包丁の音が止み、水が大量に流れる音が聞こえた。続いて冷蔵庫が開く音と、コンロのスイッチの音。
伸は自分の居場所はここではないことを悟り、ダイニングキッチンを離れた。
公言通り更新できました。伸メインなので書くのはとても楽でした。やはり好きなキャラは書きやすいなあと思った次第です。そのほか呟きはブログにて。

