第52話 虚にまどろむ海の底(3)

 虚にまどろむ海の底(3)




 伸を乗せた黒いセンチュリーは、アスファルトではなくその上にもう一枚、空気の層があるのではないかと思わせるくらいなめらかに走り出した。流れる景色が懐かしいものから知らないものに変わってゆく。残暑とはいっても、もう太陽の角度は秋のものだった。二週間前にはまだ明るかった夕方の五時台だというのに、日射しはすっかり翳り始めていた。
「毛利さん、寒くないですか?」
 千早が隣に座る伸に聞いた。尋ねられて初めて、伸は少し、冷房が効き過ぎているなと思った。半袖から出ている両腕や首筋が不満を訴えている。少し寒いです、そう答えようと伸は千早を見た。汗ひとつかいていない着物姿だった。伸自身も着物をたしなんでいるからよく分かる。夏の着物はどれだけいい素材を使っていても暑いのだ。
「いえ、大丈夫です。」
「そうですか。寒かったり暑かったりしたら言って下さいね。渋滞に巻き込まれなければ四十分くらいで着きますから。」
 そう言ったきり、千早は前を向いた。
 スピーカーからは静寂の緊張をやわらげるようにラジオが流れていた。伸の知らないラジオ局だった。吉祥寺のゲストハウスで家事をするときにいくつかのラジオ局を聞いていたが、そのどれでもなかった。女性ナビゲーターが六本木で現在行われているいくつかの美術展を扇情的に告知したあと、イギリスで今ブレイク中だというDJの新曲が流れ、音楽がフェイドアウトすると気象情報が流れた。伸は窓ガラスの外を見た。繁華街をとっくに抜けてしまったようだ。緑の多い住宅街がゆっくりと黄昏の底に飲み込まれて行く様子がフィルムの1コマ1コマのように見えた。
 すべてがちぐはぐだ。
 そんな感覚を伸は覚えた。
 千早の着物も、運転席の男の黒いスーツも、大きな高級車も、六本木の美術展も、異国の音楽も、窓から見える夕暮れも、ひとつとして共通点がないように思えた。微妙に形は似ているが決して噛み合ないジグゾーパスルのようないびつな組み合わせだ。
 そのいびつなピースの中に自分自身もいる。もしかしたら、この「いびつさ」は自分のせいなのかもしれない。大切なものを突き放し、世界から居場所を失った「いびつな」存在となった自分が、本来なら正しくあるべき世界を「いびつな」世界へと変えてしまったのかもしれない。そう、世界には「正しくあるべき姿」というのが存在するはずなのだ。伸は目を閉じて隣に置いたボストンバッグを軽く抱いた。
 日が暮れる最後の瞬間に車が止まった。発車の時と同じく、やはりなめらかな止まり方だった。
「毛利さん、着きましたよ。」
 声をかけられて、伸は慌てて窓ガラスから視線を引きはがした。千早が朱の口元にゆるりと笑みを浮かべている。
「あ、すみません。」
「そんなに緊張なさらないでください。来て頂いたのはこちらなんですから。それに、これで二度目ですよ?」
「え?」
「以前、手紙を差し上げて来て頂いたではありませんか。」
 言葉が終わるか終わらないか、わからないうちに伸の身体に激痛が走った。頭蓋骨の右が割れるように痛く、そこから右手まで神経に直接、濃縮された毒を打たれたようにしびれた。無意識に首筋に手を当てる。ぼこり、ぼこりと幾筋もの「いびつなもの」が浮かび上がっている。左の手のひらで右腕を丁寧に確認すると、首筋ほどではなかったがやはりいくつもの「いびつなもの」たちが蠢いていた。
 息を止め、身体を竦めた伸の脳裏に過ったのは、以前、この家で見た一瞬の風景だった。手のひらほどの障子の隙間から見えた、紅の色。「いびつなもの」たちが、何かの意思をもって伸の身体を這うのを意識した途端、視界が一面のぶあつい紅に塗りつぶされた。一点の曇りもない、世界中の全ての紅をかき集めて煮詰めたような紅だ。逃げ出そうと伸は目を閉じた。しかし、紅は伸の罪を糾弾するように瞼の裏に集まった。ひどい吐き気、朦朧とする意識、動かずに冷えてゆく体。それでも身体というのは生命維持の最低限の動きを保証するらしかった。酸素を求めて細い息を何度か繰り返し、ほんの少し残された理性の片隅でこの「いびつな」状況が過ぎ去ってくれることを待った。それは意外にも早く訪れた。
 伸の右頬に何かが触れた。ひやりとして早春の湧き水を思わせた。決して不快ではなく心地よいものだった。その温度に身を委ねると伸を追いつめていた紅が霧散した。「いびつなもの」たちも姿を潜めた。伸の身体を冒すすべてのものが払拭され、あるべき元の体を取り戻した伸は静かに瞼を開けた。そして、驚いた。
 目と鼻の先に千早樹の顔があり、彼の左手が伸の右頬を覆っている。目を閉じたまま何かの呪文を唱えるように唇を動かしていたが、伸の視線に気が付くと口元をすっと引き締めて目を開けた。
「千早さん?」
 その次の言葉を伸はどうすべきか迷った。すべてを隠したままここで千早に答えるべき正しい言葉はないように思えた。鳶色の片目は、伸の中の「いびつさ」の正体を伸以上に知っているように見えた。
「大丈夫ですか? 夏の疲れでも出たんでしょうね。夕食までに少し時間がありますから休んで下さい。部屋は用意してありますので。」
「あ、ありがとうございます。」
 伸は肩の力を抜いて、深く息を吐いた。そして、あらためて間近にある千早の顔を見る。幻のような微笑を湛えていた。完璧に調和された美しい微笑み。それが自分に向けられたものだと意識した途端、伸は奇妙な居心地の悪さを覚えた。
 千早は運転席の千方に二言、三言、やわらかな命令形を発してから再び伸の方を向いた。
「毛利さん、ご案内しますのでどうぞ。」
 着物の裾を翻して降りる千早に伸も続いた。


 伸が案内されたのは八畳の和室だった。入った瞬間にふわりと甘い香りが鼻孔をくすぐった。金木犀の香りに似ていたが、それほど強く主張することもなく室内の空気を淡く色付けていた。床の間には一幅の掛け軸が飾られていた。二匹の青い龍が絡み合いながら天を目指している絵だった。よく見ると、片方の龍は片目がなく、もう片方の龍は前足がなかった。二匹は麻紙の中で威嚇しあいながら雲の合間に永遠に繋ぎ止められているようにも見えた。伸の思い込みでなければ、この屋敷の主の筆によるものだろう。床の間の中央を支える床柱は見た目でそれとわかる立派な檜の天然木だった。伸の家にも同じくらいの歳を経た檜が使われていたので部屋自体がずいぶんとなじみ深い空間に思えた。違うとすれば、照明の明るさだ。伸の家ではもう少し暗いはずの和室だが、この部屋はずいぶんと明るかった。見上げると、檜よりもずっと若い時代に生まれたと思われる現代風の照明が皓々と部屋を照らしている。和紙で作られた球状の灯りは、活動時間帯を間違えて出て来てしまった太陽を思わせた。
 前に来たときに伸を案内した例の家政婦が今日もいるのだろうか。机の上には煎れたての茶と和三盆が置かれていた。座布団に正座し、一口、茶をすする。熱すぎず温すぎず、絶妙な温度だった。その温度に伸はようやく緊張が解けた。大きく深呼吸し、右手を首筋に当てた。「いびつなもの」たちはもうすっかり影を潜めていた。
 静寂を満たす甘い香りとあたたかな茶は、伸にいくばくかの精神的な余裕を与えた。そして余裕から冷静な判断が生まれると、伸はいくつかの問題に直面しなければならなかった。
 まずは、先ほどの千早の態度だ。何を、どこまで知っているのか。ひとつずつ整理して考えると、彼がこの身に宿している「いびつなもの」を抑えた、と考えるのが妥当だ。では、その「いびつなもの」の正体まで知っているのだろうか。そこまでは分からなかった。そもそも、伸自身が「いびつなもの」が蛇神である、という事実しか知らないのだ。どのような経緯で田無神社に封じられ、あのような形で祀られるようになったのかすら知らない。陰陽寮の人間も知っている風ではなかった。
 そしてもうひとつ、これは伸自身が今、置かれている立場から考えると全く意味の持たない瑣末なことかもしれないが、車の中で見せた千早の幻のような笑みが瞼に焼き付いて離れなかった。それは宿命的に伸の記憶に刻み込まれたもののように思えた。千早が自分に向けた微笑み。その時に感じた違和感。あのような種類の微笑みを、伸は見たことがなかった。どのような感情が向けられたのかも分からなかった。ただ、本能的に「何か」を嗅ぎ取ってしまった。居心地の悪さの原因はそこにある。「何か」の正体は不明だが悪意や敵意でないことは確かだった。 
 右手で左の頬に触れる。まだひんやりとして、千早の体温が名残惜しいとでも言うようにそこに残っているようだった。
 もう一度、茶をすすり、ひとつ、細い息を吐き出すと、伸は今、何時だろうと素朴な疑問に囚われた。吉祥寺駅のプラットホームに着いたのが三時ごろで、千早に声をかけられたのがおそらく五時少し前。そこから一時間弱、車に乗っていたのだとしたら六時くらいだろうと見当をつけて室内の時計を探した。ぐるりと一周、見回してみたが、それらしきものはない。伸の家には欄間に小さな時計があったのだが、そういった時を刻む類のものは一切見当たらなかった。まるで、この部屋は時間が止まっているのだというように。確かに、この部屋の空気は時が止まったもの特有の静寂さが染み渡っていた。いつもは腕時計をしている伸だが、尊星王祭のあと、突然、壊れてしまった。持ち主の時間が止まったと告げるような残酷な壊れ方だった。仕方なく、伸は携帯を取り出した。青空色の携帯の液晶画面には「17時54分」と表示されている。もっともな時間だ。液晶の左上に「圏外」と表示されていた。
「圏外?」
 思わず伸は口に出して繰り返す。東京の中心部で携帯の電波が届かないこともあるのだろうか、その疑問はすでに自分ではなく当麻が指摘していたことを思い出した。この家に最初に訪れたときだ。何度電話をしても返信がないとひどく怒っていた。その際、千早樹は危険だから近付くなと、根拠のない感情論をぶつけてきたので伸自身も感情に任せて反発した。もちろん、今でも千早が危険だとは思わない。しかし、東京の真ん中で携帯の電波が入らないという当麻の主張は動かない事実になってしまった。それならば、と思い、伸はポケットから鎧玉を取り出し手のひらに載せた。意識を集中させると、透き通った水晶の玉は小さな地球のように水色に輝き、中にはしっかりと伸の「信」の文字が浮かび上がる。すべてを置き去りにしてなお、唯一伸に残された、鎧玉。その水色にわずかな痛みと安堵を等分ずつ感じて、伸はポケットにしまい込んだ。鎧玉が正常に発動するならば、携帯の電波が入らなくても問題ないだろう。それが伸の答えだった。
 それからしばらく、伸は悠久とも思える沈黙を友にこれからのことを考えた。千早の家で、絵を見て、それからどこに行くのか。いくら考えても答えは出て来なかった。今夜、どこに泊るのかすらも決まっていないのだ。
 伸が半分、自嘲にも似た思考の海で非現実を彷徨っていたとき。
「失礼します。」
 と男の声がした。伸の意識が現実に着地する。はい、と返すと、襖が開いた。ワイシャツの上から白いエプロンを付けた千方が正座をして伸を見ていた。まっすぐに視線を向けているようでいて、右と左ではその目に別々の感情を抱いているような奇妙な視線だった。右の目には強烈な義務感。左目には奥深く隠されたくすぶるような敵意。それを見るのは初めてではない。伸の脳裏にちりちりと電気が走るような既視感を覚えた。
 千方は一度、瞼を上げ下げしてもう一度、伸を見た。その目にはもう何の感情も含まれてはいなかった。
「夕食の支度ができましたので呼びに参りました。」
「ありがとうございます。」
 伸は小さく頭を下げ、立ち上がる千方に促されるように腰をあげた。

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