第51話 虚にまどろむ海の底(2)

 虚にまどろむ海の底(2)


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 ……電車が参ります。黄色い線の内側まで下がってお待ち下さい。
 女性の声のアナウンスに導かれるように橙色の車輛がプラットホームに滑り込み、色とりどりの人間を吐き出し、同じ数かそれ以上の数の人間を吸い込んで去って行く。ボストンバッグを右手に持ってホームの壁に寄りかかったまま、伸はその光景をぼんやりと眺めていた。もう何度、電車を見送ったかわからない。電車と電車の間隔は五分もなく、そのたびに、プラットホームの人間が換気されるように入れ替わる。誰も足を止めることなく、ある者は発車寸前の電車に駆け込み、ある者は急ぎ足で人混みをくぐり抜けるように階段を駆け下りていった。プラットホームとはそういう場所だ。誰もが目的を持ち、そこにたどり着くために通過する。人が流れる場所。けれどもその中で伸だけがプラットホーム世界から切り離されているように、動かずに立ち止っていた。理由は明白だ。伸には現時点において目的地がない。行くべき場所がないのだ。来るべき十二月二十二日の『尊星王祭』本祭ーー伸の時間が終わるその時まで、残された時間は残酷なほど空白だった。
 俯きがちにぼんやりしていた伸の耳にひときわ元気の良い声が飛び込んで来た。思わずそちらに目を向けると四人の少年が電車から出てきたところだった。揃いの白の半袖シャツと紺の長ズボン。肩に掛けた鞄もみな同じで、黒のエナメル素材に白字で「Kugayama」と伸の知らない単語が綴られている。年齢は十四、五くらいだろうか。幼くはないが、かといって少年から男性へと脱皮するころ特有のとげとげしい雰囲気はない。話している内容までは聞こえないが、声は明るく瞳には憂いを知らない光が宿っていた。
「あ……」
 虚ろに半分閉じられていた目が大きく見開かれる。その脳裏に懐かしい顔が過る。十年前の自分たちと目の前の少年たちが結びついたのだ、と気づくまで、ゆうに十秒はかかった。
 阿羅醐を倒すために新宿で皆と出会ったとき、世界の終わりが自分たちの肩にかかっているというのに、誰一人として絶望してはいなかった。来るべき未来のために戦うのだという強い意志を皆、瞳に宿していた。誰一人として憂うことなく、ただひたすら、「勝つ」ことを信じていた。
 そして十年後の今日、ふたたび五人は食卓という平和な舞台に集まり未来を語った。相変わらず、友たちは己の未来を信じ、心はすでに一歩前に踏み出していた。伸だけが立ち止ったままだった。そう、このプラットホームで立ち止っているように。
 遼はたくさんの子どもを育むのだろう。強くて優しい仁の心に触れた子は、その心を受け継ぐに違いない。かつての純のように。征士に教えられた生徒は幸福だ。背筋をピンと張り、挨拶ができることの美しさを身を以て知ることができるのだから。秀はたくさんの人の舌を喜ばせ、いつか大家族を築いて孫やひ孫に愛されることだろう。
 じゃあ、当麻は。
 その瞬間、伸は頭に雷で打たれたような痛みと痺れを感じ、何も考えられなくなった。砂時計の砂がさらさらと落ちていくように、全身から血が流れ出したのではないかと思うほど寒さを感じ、両腕で自分の身体を抱き締めた。残暑は厳しく、プラットホームの空気は機械と人の熱気でゆで上がっていたが、伸は北極の氷に閉じ込められたように凍えていた。指が食い込むほど手のひらに力を入れ、目を閉じ、寒気が通り過ぎるのを待ったが治まる気配は全くない。
「……当麻。」
 無意識に零れた言葉に伸自身は気づかない。思い出そうとすればするほど、寒さはひどくなった。まるで、それについて思い出すことが世界の禁忌であるとでもいうように。
 どれくらいそうしていただろうか。寒さに竦んだ足がふらつき、意識を失いかけたとき。
 ふわり、と背後から包み込まれるようなぬくもりを感じ、伸はゆっくりと正気を取り戻した。おそるおそる首だけ動かして後ろを見たが、そこには無彩色の灰色の壁があるだけだ。 
 形を持たないやさしい熱は伸の皮膚を少しずつあたため、月の光がゆっくりと海に滲むように身体の内側に染み込んでいった。静かなぬくもりにくるまれて、伸の身体を巡る血は温度を取り戻し、こわばった筋肉はゆるんで、止まりそうだった息は丁寧に呼吸を繰り返し始めた。
 氷の漂う時間の止まった海を抜け出して、記憶の作り出した幻影の海流に乗り、おだやかな春の光のめぐみを目一杯満たした海へ帰って来たようだと伸は思った。両腕を身体から離して、ひとつ、深呼吸をしてからプラットホームの高い天井を見上げた。
 このぬくもりを、よく知っている。
 大空に夜の鳥がその羽根を広げるころ、当麻の両腕が与えてくれたぬくもり。幾度となく命の危機を救ってくれたぬくもり。そして自分から突き放したぬくもり。もう二度と与えられることはないと、自分に言い聞かせたにもかかわらず、このやさしい熱は、春の蜃気楼のようにまた自分を包み込むのだ。
 目に見えない鋭利な薄氷が刃物となって心を掠めたかのような痛みを覚えて伸は目を閉じた。痛みは余計に増した。
 もう会えないのだ。
 そう自分に言い聞かせる。呪文のように、祈りのように。
 そうすると、たとえようのない怒りが湧いてきた。何に対しての怒りなのか分からない。自分が自分の運命に諦めてしまっていることへの怒りなのか、その運命そのものへの怒りなのか。それとも、失われたぬくもりへの怒りなのか。
 いや、そうじゃない。伸は目を開けて、プラットホームを行き交う人の群れを見た。
 自分ひとりが犠牲になり、皆が守れるならそれでいいと己を身を差し出したにもかかわらず、いまだ未練を持ってやさしいぬくもりを無意識に求めてしまっている自分の弱さへの怒りなのだ。
「どうかされましたか?」
 自分の心の内側に入り込んでいた伸の聴覚に、ノイズが混じった。意識をチューニングし、伸は現実世界へと戻る。目尻に太い皺が何本も刻まれた小柄な女性が伸を見上げていた。少し猫背で首から十字架のネックレスを架けている。死神のような黒いワンピースをまとっていた。その聖典で愛を説きながら、二度の大量虐殺を行った国々で信仰されている宗教の修道女だと気づくのに、多少の時間が必要だった。
「あ、いえ……」
 修道女が伸に向ける透明な慈愛の視線に伸は息苦しさを覚えた。己の中の非現実の海から現実の陸地へと降り立ち、いつもの、完璧に作り上げた笑顔を浮かべる。
「ご心配おかけしました。ちょっと人混みに疲れてしまって。」
「お顔の色がすぐれませんわ。」
「旅の途中で疲れているのかもしれないですね。では、用事があるので失礼します。ありがとうございました。」
 女性の視線を振りほどくように伸は体を翻して、一瞬で笑みを消しその場を立ち去った。

 伸の足は自然とバスロータリーのある駅の北口に向いた。人の流れに運ばれるようにサンロード商店街を歩いていた。深い理由はなかった。行く当てなどないのだ。ただただぼんやりと、人の波に合わせて足を運ぶ。吉祥寺を歩く人の速度は、おそらく東京の中ではゆるやかな方だ。チェーン店のコーヒーショップや、小さな古本屋、夕方までランチタイムのラーメン屋や準備中の居酒屋を通り過ぎ、そこで一度、人の流れが止まる。横断歩道の手前で伸は空を見上げた。幾何学的な形に切り取られた空は、真夏の空より少し高く澄んでいた。秋が近付いていることを告げていた。伸が立ち止っている間にも、季節は移ろっているようだった。
 やがて信号が青に変わり、商店街をさらに進むと右側に西友、左側に月窓寺がある。そこで伸は再び立ち止り、三つ編みの子どもを連れた女性と、杖をついた老婆を同時に吸い込んだスーパーマーケットの明る過ぎる入り口を見た。吉祥寺に滞在することが決定してから、一番最初に食料の買い出しに訪れた店だ。萩との物価の差に驚き、慌てて当麻に泣きついた。たった五ヶ月前のことだ。この街は当麻との思い出があまりにも染み付いていて、どこを歩いても彼の幻から逃げられないような気がした。あるはずのない気配があちこちに潜んでいる気がしてならなかった。
 吉祥寺を出よう。
 そう思い、伸が爪先を今来た道に向けたとき。
 雑踏の中に透き通った鈴の音が海の底にゆったりと広がるような響きが広がった。反射的に音の出所を探して首だけで振り返ったとき。
「毛利さん。」
 再び、声がした。自分を呼ぶ声だったと気づくのに伸は三秒ほどの時間を必要とした。そしてその三秒後、声の主に驚き、目を見開いた。
 千早樹だった。
 うっすらと輝いて見える銀鼠の長い髪が左目を隠しゆるゆると流れ、女のように薄い唇は、明け方のほんの一瞬だけ見ることができる朝焼けのように鮮やかな朱色をしていた。山の霞の色の着物を身にまとい、右手には扇子を持っている。吉祥寺の雑踏が、突然、よく出来た映画のワンシーンのように非凡な世界へと変貌した。千早樹の存在が、その瞬間、吉祥寺の街全体を書き換えてしまったようだった。
 伸は動けずに、ただ千早樹の存在を見つめていた。先ほどまでの鈍く淀んだ感情は嘘のように消え去り、梅雨どき、雲の間の青空のかけらを眺め上げるような気持ちで、自分の方に歩みをすすめる千早をただ眺めていた。
 千早は伸のパーソナルスペースの半歩前で立ち止り、小さく頭を垂れた。
「毛利さん、お久しぶりです。」
「あ、こちらこそ……」
 つられて伸も腰を折る。先ほどまで伸に絡み付いていた負の感情は、まるで千早の存在によって浄化されたかのようにすっかり消え失せていた。
「以前教えて頂いたご住所から、吉祥寺の方にお住まいだとは知っておりましたが、まさかお会いできるとは。おどろきですねえ。」
 千早の細い指先が綺麗に動いて扇子を開いた。桔梗の花が描かれていた。
「僕もびっくりしてます。こちらには何か用事があったんですか?」
「ええ、武蔵野公会堂で午前中に講演をさせていただいたんです。恥ずかしながら吉祥寺の街は初めて訪れるものですから、散策をしておりました。非常に興味深い街ですね。」
「興味深い?」
「銀座や六本木のように空が狭くないですね。全体的に建物が低いので都会なのに気持ちが安らぎます。井の頭公園は、あれだけ立派な木が生い茂っていて、憩いの場としては最高の場所だと思いますよ。それに……これは私が発見したわけではないのですが。」
 そこで一旦千早は言葉を止めて、ちらりと視線を斜後ろに流した。そこに佇む人物に伸はようやく気づいて、思わず声をあげそうになるのを堪えた。
 残暑の厳しい中、汗も浮かべず黒いスーツをきっちりと着こなした長身の男が、冷たく硬い影のように黒い鞄を持って立っていた。ほんの一瞬、伸と絡んだ視線は、どんな種類の感情も宿さず、そこに目があり視覚が存在するということだけを主張していた。
「千方が言うんです。この街の物の値段は、自分たちの生活圏の値段の半分だって。私は自分で買い物をしないから分からないのですが、そんなに安く買える街が東京にあるなんて知りませんでした。」
「そうなんですか? 僕はこの街にきて物の値段の高さに驚いたんです。実家だと……」
 言いかけて、伸はしまったと思った。自分が萩の出身であることや、今、こうして東京にいる理由や、そういった諸々のことを話すわけにはいかないのだ。
 千早はそんな伸の思惑を察したように、扇子を翻し細く白い首筋を仰いでから、話を変えた。桔梗の紫がちらちらと揺れて、秋の野を思わせた。
「毛利さんに相談があったんです。」
「僕に相談ですか?」
「神様の名前を教えて頂きたいんです。」
 伸は息を止めて、その質問の意味を考えた。たっぷりとした沈黙があり、その間に伸はその質問の意味について丁寧に検証したが、自分の中に答えはないように思えた。
「すみません、ちょっと話が分からないんですが。」
「ああ、突然失礼しました。」
 千早の朱色の唇がほんの少しだけ笑みを作った。
「以前、お話しましたよね。私に神様が降りて来て、自動書記のように絵を描くということは。」
「ええ、伺いました。」
「先日もそのようなことがありまして、一柱の神様を描いたのですが、不思議なことに名前がわからないんです。いつものように、私に教えていただけないんです。ただ、その神様は下半身が蛇のお姿でしたから、水の神様だということは分かるんです。」
「それで、どうして僕に?」
「毛利さんからは水の気配がするので、もしかしたら、と思いまして。」
 千早は淡く微笑んだ。その表情に伸は見覚えがあった。池袋の絵本のサイン会で、一番最初に千早に会ったときだ。そのとき、何気なく聞き過ごしてしまった言葉が蘇る。
 ……水のご加護があるでしょう。
 世界は目に見えるものと目に見えないものでできている。どちらが欠けても世界は存在しえない。そして、どちらの側に多くを委ねるかは個々に違いがある。千早樹という人間は、おそらく目に見えない世界に半分以上、身を置いているのだろう。だから、「水の気配」という伸自身の特異とも言える体質の真実に、たやすく辿り着いてしまったのだ。そう思うと、伸は千早の言葉の理由に深く納得した。
「分かりました。お役に立てるなら……あまり自信はありませんが。」
「今日、このあと、ご予定は」
「……いえ、特に。」
「それは良かった。車で来ていますので、私の家まで来て頂ければと思います。夕食などご一緒にどうですか?」
「ではお言葉に甘えて。」
「ありがとうございます。」
 千方は扇子を閉じて落ち着いた藤色の帯に差すと、すべるように歩き始めた。伸もそのあとに続く。
 歩きながら、不思議と心が落ち着いていることに伸は安堵していた。この街を出られるからなのか、それとも絶望的なまでに空白だった時間にほんのわずかでも色がついたからなのか。何度考えても分からなかった。夜の海の底で月の光を掴むのと同じくらい非現実的なことなのかもしれないと思い、伸は考えるのを止めてただ足を動かすことだけに意識を傾けた。




ほぼ一年ぶりの更新となってしまいました。待って頂いた方、本当にありがとうございます。私自身も久しぶりすぎて、細かな設定を忘れていて過去の文章を読み直しました。特に千早さんのビジュアル設定(笑)今後ともどうぞよろしくお願いします。その他の呟きはブログで。