虚にまどろむ海の底
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北辰結界の祭祀が終わった翌朝、正確には祭祀が終わって五時間後、征士はそっと布団から起き出して早朝稽古のために庭に向かった。幼いころから身に染み込んでしまった習慣はどんな時でも征士の体を目覚めさせてしまう。
竹刀に手を伸ばしかけたとき、玄関の隅に紺色のボストンバッグを見つけた。赤子が一人はいりそうなくらいのそれは、誰のものかは分からない。ただなんとなく、旅立ちを予感させた。そう……役目を終えた今、皆このゲストハウスからそれぞれの本来の居場所に旅立たなくてはならない。持ち主不明のボストンバックは、征士にそう語りかけているようだった。
「あれ、征士? もう起きてたの?」
「伸、帰ってたのか?」
伸はひょいとキッチンから顔を覗かせて、そのまま廊下に出た。征士に向ける表情は、見た限りでは少なくとも、五ヶ月前とほとんど同じ、穏やかに凪いだ海を思わせた。薄茶色の猫毛、男性にしては中性的な面立ち、小柄なことも手伝って着ている服さえ違っていれば女性の中にいても違和感はなさそうだった。全身をきっちりと包み込み裡に秘めてしまったものを隙なく隠しているハイネックのTシャツだけが五ヶ月という月日を物語っていた。
「うん。朝の四時過ぎくらいかな。祭祀で疲れちゃって神社の近くのビジネスホテルでしばらく仮眠をとってから帰って来たんだ。征士はそのまま帰ってきたのかい?」
「ああ、手際良く帰宅用の車に乗せられたからな。」
伸は肩を揺らして吹き出した。つられて征士も口元に笑いを浮かべたあと、すっと真面目な顔付きになった。
「それでクロは。」
伸の目が細くなり、海の碧を半分、隠す。
「やっぱり征士には分かるんだね。」
「私は言えなかったが……最後の挨拶はできたのか?」
俯いた伸は、胸の前で右手を数度握ったり開いたりしたあと、ぎゅっと拳を作って胸にあてた。誰かの魂をその手に握りしめ拳に宿し、己の魂に繋ぎ止めるような仕草だった。
「格好悪かったけどね、言えたかな。多分。」
征士は無言でうなずき、目を閉じて瞼の裏に妖特有の黒い瞳を思い浮かべた。その瞳が今にも伸の後ろに見え隠れしそうで、征士は軽く頭を振る。竹刀に手を伸ばして、軽くトン、と玄関の床を叩いた。
「今日は皆、起きてくるのは遅いだろう? 朝食は何時ごろになりそうだ?」
「そうだね、皆が起きてくる時間にもよるけど、十時には揃うんじゃないかな。」
その言葉通り、時計が十時十五分を示したときには五人がそれぞれの席に着いていた。リビングには白いカーテン越しに遅い夏の日射しが差し込み、テーブルの上で光を弾いている。
すべてがすがすがしく、まっさらな朝だった。
まぶしく輝くテーブルの上にはいつもより豪勢な色とりどりの大きな器が並べられていた。色合いの綺麗な和え物三種の盛り合わせ、蒸した豚肉と旬野菜のサラダ、五種類の手巻き寿司、香り塩の添えられた鶏唐揚げ、茄子巾着、四列に並んだ出し巻き卵。五人の目の前にはご飯の盛られた椀と味噌汁と漬け物が並んでいる。
時間が余ってたからいつもより多く作っちゃった、と笑いながら伸が茄子巾着に箸を伸ばすと、秀が取り皿に出し巻き卵とサラダを取り分けながら言った。
「やっぱ、人が作ってくれるもんはうまいよなあ。」
「褒めても何も出ないよ?」
伸が牽制すると秀は口に運びかけただし巻き卵を、一度、取り皿に置いた。
「いや、俺、多分、今晩から店だから。作る方にまわらなきゃなんねえだろ?」
「あ、なるほど。」
伸が相槌を打つ。秀の本業は中華料理屋で、ゲストハウスに来てからも仕事の都合で何度か店に顔を出している。意外というか当然というべきか、秀は非常に仕事熱心な一面をこの五ヶ月で仲間達に見せた。
「伸はどうすんだよ。とんぼ帰りで職場復帰か?」
「あ、うん。」
一呼吸おいて、伸は非常にリラックスして答える。
「仕事には来年から復帰なんだ。ほら、僕、今の職場に入ってとんとん拍子で副施設長になっちゃったから、有給とか長期休暇とか全然とってなくてさ。この際だから、キリのいいところまで休もうかと思ってね。で、せっかくの長期休暇だから海外なんかいいかなあって。」
「海外かあ。どこか行きたい場所でもあるのか? 伸だからやっぱ海の綺麗なところだろ?」
ほおばっていた手巻き寿司を持つ手を止めて、遼は伸の方に向く。その横から征士の指先が伸びて遼の口元の米粒を取った。
「ウベア島に行ってみたいなあって。」
「ウベア島? どこだ、それ。」
「ニューカレドニアにあるんだ。『天国に一番近い島』っていう別名があるんだって。写真集でしか見たことないけど、本当に海だけの島なんだ。」
「そんなところに行ったら、伸、お前は帰って来れなくなるのではないか?」
綺麗な所作でトマトを口に運びながら征士が言うと伸が肩を揺らして笑った。
「そのときは僕、陸に帰らなくてもいいように人魚になるから。」
「冗談に聞こえんな。」
ぼそり、と剣呑な表情で当麻が呟く。瞳だけで伸を見て、何か言おうと唇を半分ほど開けたが、すぐに閉じて二度、小さく首を振った。
伸は当麻の様子に気づいていないかのように遼と征士を交互に見遣った。
「二人はどうするんだい?」
「俺は来週から仕事に戻るよ。子どもたちがいつ俺が帰って来るか、毎日のように他の職員に聞いてるって急かされちゃってるからさ。とりあえず、今週中には一度、顔は見せるつもりだけど。」
遼は視線を宙に走らせてどこか懐かしそうな表情を浮かべた。
「遼の『仁』の心は思わぬところで力を発揮してるね。」
「それとこれとは別だと思うけどなあ。」
手巻き寿司を見つめて、うーん、と遼は首を傾げている。
「征士はどうするの?」
和え物三種を自分の取り皿に取り分けた伸が訊いた。
「私も遼と同じだ。来週から職場復帰だな。まあ、私の場合、誰も楽しみに待っていてはくれないわけだが。」
「そんなことないだろ。お前の知らないところで大勢の女子高生が『王子様先生』の帰りを待ち望んでいるんじゃね?」
「からかうな、秀。」
ピシリ、と低い声で征士が言い放つと秀は、「冗談の通じないやつだな」と唐揚げをほおばった。
「『王子様先生』が鈍いだけなんだよ。俺、twitterでお前の学校の生徒が、金髪に紫の瞳の古典の先生の写真をアップしてるのを何度か見かけたぞ?」
「なんだと?」
挑発的な色合いを含む当麻の言葉に、征士の手元が止まる。他の三人も息を詰めて事のなりゆきを見守る。
三十秒ほど、平和な朝の食卓に似合わない沈黙が過ぎた。
「というのは冗談だが、あってもおかしくないだろうな。」
当麻は出し巻き卵に箸を刺して、一度、目の前でくるくると回してから口の中に放り込んだ。
「当麻、貴様!」
「まあまあ、征士。」
隣の遼が、冷ややかな怒りのオーラを隠そうともしない征士をなだめて当麻に話をふった。
「当麻はどうするんだ?」
「俺?」
二個目の出し巻き卵に伸ばしかけた箸を当麻は止める。
「まあ、とりあえず三鷹の寮に帰る。」
「あと、受験勉強ね。」
伸が面白そうに付け加える。
その一言で、三人は同時に互いの顔を見遣り、堪え切れない笑いをそれぞれに表現した。
「そうだそうだ、お前、受験生だったんだよな! 俺の店、学生料金で割引してやるから一度来いよ!」
「そうか、当麻、まだ学生だったんだよな。俺、子どもにはやさしいから、いつでも相談にのるぞ。」
「さすが我らが智将殿は頭の出来が違ったのだったな。」
ひとしきり、賑やかな笑い声がリビングに充ちる。五ヶ月前、久方ぶりに五人が顔を揃えて、このゲストハウスに来たときと同じ、やさしい時間が帰って来たようだった。
「そういえば……」
思い出したように征士が呟いた。
「玄関にボストンバッグがあったが、あれは誰のものだ?」
「あ、それ僕のだよ。これ、後片付けしたら出発だから。四時には成田に着いておかないといけないんだ。」
リビングにぎこちない静けさが広がった。取り繕うように秀が口を開く。
「あー。伸、ずいぶん慌ただしいんだな。そんなに急がなくてもいいんじゃないのか?」
「うん、もう少しみんなとゆっくりしていたいけど、いろいろ、ね。」
『いろいろ』という言葉に雑多な気持ちを込めて言葉を濁し伸は三度、瞬きした。
「あまりにも多くのことがありすぎたから。ここにはその想い出が多すぎてね。僕はみんなみたいに強くないから、どうしてもここにいるとたった五ヶ月の間に起きたたくさんのことに、気持ちが引き摺られて前を向けないんだ。だから、今はみんなといられない。ごめんね。」
遼と征士は互いに顔を合わせた。秀は手を止めて、口元をへの字に引き結ぶ。当麻は茄子巾着を食べていた手を止めて、皿を見つめた。テーブルに乗せた手の指を、コツコツと鳴らし苛立たしげな表情を浮かべる。
誰も伸のことを弱いとは思っていなかった。むしろこの五ヶ月の間に一番大変だったことをよく知っている。それでも泣き言を言わず、伸は己の役目を忠実に果たした。そしてうっすらと勘づいていた。伸が、見た目とは裏腹に五ヶ月前とは全く違う存在になってしまったかもしれないということに。自分たちがもう手が伸ばせないところに行ってしまったかもしれないということに。だからこそ、最後に伸の口から弱音を聞いたことに、伸の彼らしいやさしさと人間らしさを垣間みた気がして遼も征士も秀も安堵した。にもかかわらず伸の「ごめんね」に対する答えを持ち合わせていなかった。
雲が太陽を隠したのだろうか。リビングに差し込んでいた光がふいに暗くなった。その暗がりに当麻が言葉を滲ませた。
「行きたいところに行って気が済む気晴らしてこいよ。ちゃんと帰って来るならそれでいいさ。」
「お言葉に甘えてそうするよ。」
伸は当麻の方を向かずに無色透明の堅い声で答えた。
久しぶりに更新しました。待っていてくださった方、大感謝です。今回は訳あって赤ペン先生の目が通っていないので、改稿する可能性大です。あと、五人分のこれだけの料理を伸一人で作るのは無理じゃないかというツッコミは自分でしています。無理です。それがファンタジイです。その他呟きはブログにて。

