第49話 北辰結界(3)


「あれが、北辰結界……。」
 千方の肩を借りてようやく立ち上がった千早は、鼠色に濁った瘴気の流れの中を駆け上がる七条の光の筋を見上げた。夜闇を貫いた輝く光の筋は空の高い所で矛先をおさめ、強い煌めきを放つ星になった。やがて星から星へと光の道が架かり、くすんだ空に大きな柄杓の形をした北斗の形を描いた。
 蝋のように血の色を失っている千早の顔に、じわりと疑念の色が広がる。
「千早さま?」
 主の気配の変化に気付き千方が声をかける。病人のような顔を覗き込み、いつもの平板な声で心配の言葉を口にした。
「椅子に戻られては?」
 返事はない。千方はちらりと主のいない籐造りの丸い座椅子を一瞥して千早と同じ夜空を見上げた。
「千方、おかしいとは思わないかい?」
「おかしいとは、何が、でしょう?」
「あれが泡嶋様を妨げる結界なのだとしたら、今、この家に私が張り巡らせてある結界に必ず影響があるだろう? そして、その結界を張っている私自身にも負荷がかかる、はずなのに。」
 言葉を切って、千早は同じ縁側の少し離れたところにある揺り椅子を見た。唐紅の衣をまとった女児がやわらかな金色の結界に護られてやすらかにに眠っている。
「この家に巡らせた結界にも、私自身にも、そして泡嶋様を護る結界にも、全く影響を及ぼしていない。あの北斗の結界が幻だとでもいうように。」
「千早さまの護りの力の方が強いからではないでしょうか。」
「それならば最初から警戒しない。安倍晴明が消してしまおうとしたほどの秘術だよ。そしてあの、五行の力を持つ彼らがそれを再生したんだ。ただですむはずがない。」
 千早は心の中に一人の青年の顔を思い浮かべた。
 自分とよく似た運命を持つ、薄茶色の髪と海の色の瞳を持ったやわらかな雰囲気の青年。
 そして泡嶋様が世に受け入れるための鍵となる駒。
 唐突に、千早の脳裏に閃光のごとくある仮定がひらめいた。
「ははは、そうか、そういうことか!」
 千早は千方の肩にまわしていた腕を振りほどき自力で立つと、金で縁取られた鳶色の右の瞳でゆがんだ色の夜空を睨みつけた。視線の先には柄杓の形をした輝き。その光の模様の柄杓の部分がどす黒い赤の血をぶちまけたように塗りつぶされた。
「変わらない、本当に変わらないねえ。いつの時代も、神というものは願いと等分の血を欲するんだよ。」
 ゆるりと流れ落ちる銀鼠の髪を千早は何度もかきあげて、血の色を失った青白い顔からは思いもつかないほどひどく愉快そうに笑った。ミミズが這った跡のように引き攣れた左目が露になって玲瓏な千早の貌を台無しにする。
「千方、朗報だ。この結界はまだ完成していない。血は流れていないんだ。完成させるには、おそらくあと一つか二つ、血を流さなければならない手順を踏む必要があるらしい。つまり今日のこれは宵宮にすぎないようだよ。」 



 幸頭井宅の奥座敷の上座に背広の男が端座していた。歳の頃は二十七、八といったところだろうか。なま白い肌は日光不足のもやしを思わせ、顔立ちも体つきもきゅうりのように細長かった。
男は何度も細い指で神経質そうに眼鏡の上の銀色のレンズ縁のリムをいじり、その奥の目から机の向こうに座る幸頭井を見ていた。
 男は「斎使」という名だった。それは宮内における彼の役職名であったが、幸頭井はそれ以外の男の名前を知らなかった。
「あなたが何をしたか、自覚はありますか? 幸頭井さん。」
 男性にしてはやや高い声で、男は言った。
「鹿島、香取をはじめ、全国の社格の高い神社をあなた方、陰陽寮の曖昧な根拠のもとに動かしたんですよ。白川頼永の手を使ってね。」
「白川氏には確かに力添えを頂いた。だが、それは間違っているとは思えぬ。根拠も曖昧ではない。」
 重い声で幸頭井が応える。男は目を眇めて虫けらでも見るような表情を浮かべた。
「馬鹿馬鹿しい言い訳は無用です。いいですか? あなた方は勘違いしているようだから、はっきり言っておきましょう。この国ははるか神武の世以来、最高祭祀者である皇御孫命(スメミマノミコト)が朝に夕に祈りを捧げ豊葦原水穂国を知らしめしてきた。あらゆる天災、人災、それすらも、大きな流れの中のこの国のあるべき姿として我々は受け入れなければならない。それが本来のこの国のシステムなんですよ。それを陰陽だの五行だの、訳の分からない理屈で世界を計るなんて横柄としか思えないですね。確かに、あなた方の先祖は平安の世のほんの一時期には中央の力になったのは認めますよ。でも、それは過去の話だ。皇御孫命以外、我々、人間の手は、天の意には届かないということを知るべきです。」
 男は湯呑みに手を伸ばし、喉を潤してから続けた。
「陰陽頭として何か意見は?」
「この件、宮内はどうされるおつもりか。」
「そうですねえ。」
 男は黙った。レンズ縁のリムをいじりながら、何かを考えているようだった。
 幸頭井は深い呼吸をすると瞼と一緒に五感を閉じた。
 なまぬるい夏の夜空に七つのまばゆい煌めきが、ぶ厚い瘴気を払いのけて北斗を描いている。
 ここにたどり着くまでに、いくつもの時間と犠牲をはらった。陰陽道において北斗の宮と称される伊勢外宮で、鎌倉の世に伊勢神道を唱えた度会(わたらい)氏の子孫の渡井を見つけ出し陰陽の界に取り込み、北斗の七人を集めた。北辰結界の真の妨害者をつきとめるために、民間の陰陽師を一人、殺めた。そのほかにも数え切れない手順を積み重ねて、北辰結界……尊星王祭の成就の踏み台にした。
 すべては、この国の陰陽の技術を連綿と受け継ぎ伝えるべき陰陽寮の存続のために。
 幸頭井の心眼は未来のすべてを見通すことができる。
 これまで間違いなく、見通してきた。それなのに今、この事態に至って、護るべき陰陽寮の未来だけが見えない。
「幸頭井さん。」
 男の声にはっと我に返り、幸頭井は顔をあげた。
「執行猶予を設けましょう。あなた方が主張する冬至を境にこの街が何も変わらなければ、責任をとってください。」
 幸頭井は恰幅の良い体を折って畳に額がつくまで頭を垂れた。

北辰結界、終了しました。読んで下さってありがとうございます。ここまでがオフ本の参に収録されます。仕方ないとはいえ、当伸要素ほとんどないし(汗 専門用語多いし、本当にごめんなさい!! あと、25を封印されている方、まだ「北辰結界」は終わっていないので、解かないでください(笑) 次回の更新の予定は未定です。でも、このあとは当伸ですからーー!!(魂の叫び)