第49話 北辰結界(3)




「クロ!」
 車から降りた伸の目に真っ先に飛び込んで来たのは、晩夏の闇に黒くそびえる王子神社の鳥居ではなく、その柱に小さな体を預けたクロだった。鎮守の森に灯りはないにもかかわらず、クロの周囲だけがほんのりと明るい。少年はひどくやさしく、そして無邪気に笑っていた。
「遅かったな、待ってたんだぞ。」
 駆け寄った伸がいまだ青年になりきらない細い体を抱き締める。
「……ごめん。」
「なんで伸が謝るんだよ。」
 クロの腕が伸びて、伸の髪をくしゃくしゃと撫でた。
「毛利さん、確認させていただくが、そちらが玄狐の少年でよろしいか?」
 よく通る低い声が夜闇を割った。クロを抱き締めたまま伸は顔をあげる。高さも横幅も常人の三割増しの大きさの浄衣姿の男が二人を押しつぶすような威圧感で見下ろしていた。雰囲気から察するに、この男が王子神社の祭祀を取り仕切る術者なのだろうと伸は思い、立ち上がって背筋を伸ばす。伸の目線が男の肩より少し下にぶつかる。術者を見上げたが暗くて顔は見えない。伸は全身に緊張を走らせて声に力を込めた。
「はい。今日はよろしくお願いします。僕が彼の保護者の毛利です。」
 妙な間があった。
「おお、申し遅れるところだった。私は王子神社での尊星王祭を担当する今川という。今回の祭祀ではいろいろご面倒をかけて申し訳ない。我ら陰陽寮も自分たちの力不足を分かっていてあなた方の世話になるのでな、どうか力を貸して頂きたい。」
 男は大きな腹を揺らしながら小さく頭を下げた。
「あ、はい。こちらこそよろしくお願いします。」
 強ばっていた伸の体が一気に緩む。今川、と名乗った男は尊大な体格とは裏腹に丁寧な物腰だった。
「今川さん、今日はよろしくお願いします。」
 伸よりも遅れて車から降りてきた渡井が姿を現す。
「おお、渡井。お前も大変な役目よなあ。とりあえず、北方水気をここまで連れてこられたからには、お前の仕事は八割は終んでおろう。社務所に茶と酒と菓子がある。この前、仕事で北陸に行ったときの土産の煎餅を置いてあるから、それでも食って少し休め。」
「ありがたくいただきます。」
「では、あとは頼んだぞ。浄衣は第二社務所にある。二人を案内してくれ。」
 そう言い残して、今川は鳥居の向こうの闇にすいと溶けて消えた。闇を押しのけていた威圧感は嘘のように霧散した。
「なんだか変わった人ですね。」
 振り返って伸が渡井に尋ねると、困ったような声が返って来た。
「陰陽頭の一つ後輩でしてね。この界の人間としては明る過ぎて対応に困るんですよ。ただ仕事はきっちりこなしますし、何よりも……」
 渡井は今川が去った鳥居の向こう側を目を細めて見た。
「彼は『祭文』に愛されてますから。」
「え……?」
「今川さんの読み上げる祭文の力は、陰陽寮で追随を許すものはいません。今晩、それは分かると思いますよ。」
「祭文の力、ですか?」
 伸の呟きにも似た問いに応えることなく、渡井は腕時計を見て言った。
「毛利さん、そろそろ行きましょう。時間が差し迫っていますので。浄衣に着替えて頂く第二社務所にご案内いたします。」
 言葉が終わる前に渡井は歩き出した。ぶ厚い闇の存在を無視するようになめらかに足を運ぶ、その後ろを伸とクロはついてゆく。鳥居から少し離れたところに鎮座する社殿はそこだけが黒々と異界への入り口のように黒く、斎庭を円形に護る鎮守の木々は夜の神社に集う人間の様子を伺うようにざわざわと葉や枝をこすり合わせていた。社殿に向かってやや左側に、白味を帯びた橙のかがり火が揺れて数人の術者が行き交う様子を浮かび上がらせている。
 渡井に案内されて伸は社殿右側にある社務所の裏の第二社務所に着いた。主に神職の休憩所に使われているという。こざっぱりとした十畳の和室には、丸机と座布団、そして机の傍に純白の浄衣が丁寧に折り畳まれてあった。
 伸は無造作に浄衣をつかみ上げた。さらさらと布のこすれ合う音が社務所の中に響く。
「これを着るのもあと二回。そうすれば、僕は……」
 その先を思い巡らせ伸は頭を振り、今は考えてはいけないと言い聞かせた。背中に強い意志を感じて振り返る。クロがじっと見上げていた。
「クロの分の浄衣がないね。」 
 苦い笑いを噛み殺す。クロは両手を胸の位置で開いたままじっと見て、それから伸の方を向いた。
「これでいいだろう?」
 ふわふわとクロの輪郭が溶けてゆく。青白い蛍火が彼を覆い、やがてうっすらと光が収まる。純白の燐光を放つ浄衣姿のクロが、ちょこんと立っていた。
 伸が口元に手を当てて目を見開く。
「うわあ、可愛いよ、クロ!」
「可愛いって言うな! 似合ってるんだ!」
「ごめんごめん。」
 笑いを堪え切れず、いまだ肩を震わせる伸にクロが厳しい口調で言う。
「早くしないとやつらがうるさいぞ。」
「ああ、うん、そうだね。早く僕も着替えないと。」
クロの言葉に我に返った伸は、まとっていた衣服を脱いで浄衣に着替えた。少なくともチュニックよりは馴染みのある衣服だった。幼いころから実家の小さな祠の前での質素な祭祀のときも浄衣を着ていた。
「……僕がいなくなったら、あの祠は誰が祀るのかな。」
「なあ、伸。」
「え、何、クロ?」
 浄衣の後身頃を引っ張られて伸は振り返る。クロが右手の白い袖をひらめかせながら手招きしていた。
「どうしたんだい?」
 伸はゆっくりと腰を折ってクロの視線に自分の視線を合わせた。緑がかった深く黒い瞳に伸自身の姿が映りこんでいる。
 ああ、異形の瞳は人間の瞳よりも綺麗だ。
 そんなことを伸が思った途端。
 小さな体が半ば倒れ込む体勢で伸を抱き寄せた。
「え……、クロ?」
「ごめんな、伸。」
「なに……?」
 細い二本の腕が、伸の背中で交差する。伸の体はぴくりとも動かない。
「最後まで伸のそばにいたかったけど。」
「何? 何を言っているんだい、クロ?」
「俺じゃだめだから。でも、伸を護る奴はいるから。」
 クロの声が上擦っていた。泣き方を思い出した子どもが、それでも泣かないように必死に耐えているような声だった。
「もう悲しいって言うな。生きることを諦めるな。」
「ね、ねえ? クロ、突然どうしたんだい?」
 やんわりと言って、伸は腰を折ったまま一歩、後ろに下がった。背中で重ねられていた腕がほどける。伸は俯いてしまったクロの頬に両手を差し伸べ、自分の方に向かせた。光彩を縦に過る黒い異形の瞳がじっと伸を見つめている。涙の気配がした。
「クロ、もしかして泣いているの?」
「……異形に涙は流せない。」
「『流せない』?」
 クロの、流せない涙の理由に伸は唐突に思い当たる。全身を氷雨に打たれるような寒さを感じて身震いした。
「クロ、どういうことか話してくれるよね?」
 頬を包んでいた両手をクロの細い背中にまわす。ぐっと力を込めようとした途端、両腕は宙を抱きかかえた。
「さあ、伸。もう時間がないぞ。」
 背後から声がした。伸が体ごとそちらを向くと、いつもと同じ、外見とは裏腹の子どもらしくない尊大な態度と表情のクロがそこにいた。先ほどまでの儚く危うい雰囲気は嘘のように消えている。伸が立ち上がったのを見て、クロは社務所の玄関に立つ。
「なあ、伸。」
 追いかけようとした伸の足を、クロの一言が止めた。
「俺、どんなに霊獣だって言われても、所詮、妖なんだよ。」
「僕は霊獣だろうが妖だろうが人だろうが関係ないよ。」
「妖に人間の代わりはできないんだ。」
 その一言で、伸はクロが流せない涙の理由を理解したつもりだった。しかし、理解してもそれがどういう結果を招くのかまでは想像がつかなかった。



 伸とクロがかがり火を頼りに祭祀の場に向かうと、見計らったように今川が歩み寄って来た。
「何か不便なことはないかの? 腹が空いているなら今のうちに食っといた方がいいぞ。今から日を越えて、まあ、三、四時間ほど体力と精神力を使うのでなあ。必要なら簡単なものを用意するが。」
「いえ、結構です。」
 伸は小声で断って、それから今川の向こうに見える祭壇に視線を向けた。
 赤々と燃えるかがり火に浮かび上がる祭壇は、伸の馴染みのものとは少し違っていた。
 一番奥に、大の大人ほど丈の葉の生い茂った木が立てられて、赤、青、黄色、白、黒の布が飾り付けられている。その手前に三段の祭壇がある。一段目には、白い布が敷かれてあるだけのように見えた。二段目には御神酒や水が入っているだろうと思われる瓶子と水器。そして三段目には李(すもも)、栗、梅、杏、桃、棗(なつめ)、梨、柿、の八種類の果物が置かれてあった。
 今川がどこからか取り出した懐中時計をカチリと開けて時間を確認する。
「それでは祭祀を始めるとするか。」 
 よく通る低い声が斎庭の空気を震わせた。かがり火の周囲に影を落としていた術者たちの動きが一瞬止まって、それからまるでよく訓練された兵隊のように整然と祭壇の前に座った。
「あの、僕たち……」
「ほらほら、祭主がおらんと始まらん。」
 今川はニヤリと笑って顔に皺を刻んだ。伸とクロを等分に見てその肩を叩く。
「北方水気は頼んだぞ。お前たちは自分の役目だけに集中してくれればいい。他のことは俺らがやる。安心せい。」
 よく通る声が伸の胸にすっと沁みる。あたたかな安心感がある。けれどもやはり、先ほどのクロの態度がどうにも腑に落ちない。
 今川に促されるまま伸とクロは祭壇の前に並んで座った。左右に火の粉が舞う橙のかがり火、正面には身長と同じくらいの祭壇。背後には術者が弧を描くように八人座っている。今川は、伸たちと術者から少し離れた位置に立っていた。
 かがり火のぱちぱちとはじける音が幾分か続いたあと、声が立ち上がった。
「今から『尊星王祭』前祭を執り行う。」
 今川の号令の声に、伸は驚いてそちらを見た。声が通っているのではない。光の輪を描くように体中から響き渡り染み出ている。かがり火が大きくゆらりと揺れた。
「修祓。」
 今川の声に術者の一人が音もなく立ち上がり、伸とクロに近付いて来た。
 彼は塩を溶かした湯の入った小鉢を左手に持ち、右手の人差し指と薬指を立てて口元で何か呪言を唱えた。鉢に二本の指をつけて湯を含ませると、伸とクロの頭の上に水滴を振りまく。かがり火を反射して赤々とした水の粒が二人の頭から浄衣の肩まで滑り落ちた。
「祭主一拝。」
 あらかじめ渡されていた資料の内容を思い出しながら、伸は座したまま深く腰を折り頭を地面につけて、祭壇の向こうの木に秩父神社から勧請されてきたであろう神……アメノミナカヌシの神に祈りを込めた。
「献餞。」
 先ほどとは別の術者が伸たちの前に現れて、二段目の瓶子と水器の蓋を開ける。
「再拝文。先導者が一唱、のち三度復唱。」
 今川の言葉に、場の空気が一層緊張を増した。なまぬるい夏の夜の大気が真冬の早朝のように透徹な色に染め上げられる。
「オンサルバタタ、ギヤタバンナヤノキヤロニ。」
 その声に驚いて、伸は今川の方を見た。決して大きな声ではなかった。しかし、恰幅のいい体から波のごとく溢れる祭文は斎庭中に反響し、かがり火を大きく揺り動かし、木々をざわめかせた。祭祀の場が、現実世界から飛び立ち、呪力で構築された別の空間に移動したような感覚を伸は覚えた。
 背後に控える術者が同様に三度、声をそろえて呪を唱える。呪が重ねられるたびに霊的密度が濃密になってゆく。
「祭主二拝。」
 伸とクロは二度、座したまま拝したあと、ゆっくりと顔をあげてから互いに目配せをした。伸が小さく頷いて祭壇に向かい、背筋を伸ばして滔々と読み上げる。
「一心奉請、北辰妙見、真武神仙、漢孝文皇帝、霊符天真神、急急如律令。」
 キン、とガラスを掻きむしるような音が伸の耳の奥を襲う。
 続いて二度、柏手を打って二段目の瓶子を捧げ持つ。
「此酒妙味、偏満虚空、祭諸神等、祭諸霊等、天福皆来、地福円満。」
 続いて術者が五度、繰り返した。紡がれる呪言。重なり合う低い声。もはやそこに神社の清浄な霊気など存在せず、陰と陽が永遠に貪り合う混沌しかなかった。
 伸の背筋につうと一筋、汗が流れた。排気ガスでも瘴気でもない、強力かつ濃密な呪の結界が体に負担をかけていた。口に出す祭文もまた、伸から体力をうばってゆく。
 声が止む。
 相変わらず空気は張り詰めたまま、時を閉じ込めたようだった。
 すでに現実なのか異界なのかわからない、かがり火だけが赤々と蠢く空間から今川が静かに歩を進めて伸とクロの傍にやってきた。なにもなかったように見えたの祭壇の一番上から、白い絹の布に覆われた子どもの腕の長さほどの棒状のものを取り上げて二人に見せる。布をゆっくりと開けると、今にも歴史を語り出しそうな古錆びた鉄の剣が一振り、収められていた。
「これは……」
 祭祀の最中だというのに、伸は思わず声を漏らしてしまう。
「七支刀だ。世に喧伝されてるのはレプリカでな。こっちが本物だ。今から北方水気の力を解放する手順を言うぞ。まず、あんたの身につけているものに、一番やりやすい方法で力を集めてくれ。そうすれば自然にこの七支刀に力が流れる。七支刀に流れた力はそのまま……」
 今川は祭壇の向こうにそびえる、五色の布をたずさえた木を指差した。
「アメノミナカヌシを宿したあの木に流れる。そしてあの木から、」
 今川のごつごつとした指が夏の夜空に向けられた。
「北斗七星に向かう。」
 伸とクロが同時に夜空を見上げる。柄杓型の七つの星が、北の空の高いところで瞬いていた。
「頼んだぞ。」
 ぽん、と今川は伸の頭を軽く叩いて元の位置に戻った。
「伸。」
「どうしたの? クロ。」
「失敗するなよ。」
 いつもと変わらない無邪気なクロの声に励まされ、伸は肩の力を抜いて袖から水滸の鎧玉を取り出した。手のひらに載せると、徐々に熱を持ち始め、ゆっくりと海の色に変わり始める。中央には「信」の文字。その文字が、伸の心をほんのわずかの間、針の先端で肌の薄いところを突き刺すような痛みを与えた。
 伸は鎧玉を揃えた膝の前に置き、その向こうに七支刀を置く。
 そして強く念じる。
 ……僕の大切な世界をお護りください。
 ぶわり、と勢い良く伸の体から碧い炎が立ち上った。かがり火だけで照らされていた薄闇を追い払い、炎は命あるかのように揺らめき、膨張し、地を舐め尽くし、天に昇ろうとしていた。夜の黒を圧し斎庭を海の色で染め上げた碧い炎はまだ足りぬとでもいうように境内の外にまでふくれあがった。やがて炎の中のいくつものヴェールは白から碧までのグラデーションを描き、空と大地を繋いだ。
 見届ける術者の口の端々に不安の言葉が漏れる。
 今川はそれを目で制し、伸の様子を伺っていた。
 十分も経ったころだろうか。
 すうと碧い炎が収まった。風船がしぼむように、あっという間だった。
 しかしその光は消えたのではなく、伸の目の前の鎧玉に取り込まれたのだということを、伸だけが体で感じていた。
 「信」の文字を刻んだ海色の鎧玉に、うっすらと輝きが灯る。徐々に強さを増し、かがり火よりも明るくなり珠の縁がきらきらと光を弾いた途端、黒ずんだ七支刀に一条の光の橋を架けた。鎧玉からの光を受けた七支刀は見る見るうちに黒ずんだ鼠色の鉄錆からまばゆい白銀の太刀に姿を変える。
 太刀はふわり、と意志を持つかのように空中に浮かび上がり、その切っ先を祭壇の向こうの木に向けた。白銀の太刀が光の帯となって祭壇の上を駆け抜けくるくると螺旋状に木を包み込む。白銀の光に飲み込まれ形を失った木は、やが白金の矢となり、大地にきらきらと光の粉をまき散らしながら一条の光となって夜空に駆け上がった。
 眼前の出来事を一部始終、息を呑んで見守っていた伸は、光の筋の行きついた夜空を見上げて目を見開いた。
「みんな……」
 夜空には、七本の光の橋が架かっていた。
 同じものを見たのだろう。術者の間からひそやかな感嘆の声が漏れる。それも束の間、今川の声が続く。
「願意奏上。」
 場の空気が再び、触れれば切れそうなくらいに緊迫する。
「ここに七十二道の霊符神は、身上に具足し、豊葦原水穂国を安国と平けく守護したまえ。」
 世界を轟かせる声だった。伸は頭だけで振り返り、今川を見た。なめらかに言葉を紡ぐ彼の口元から煙のようなものが吹き出していた。目を細めてそれを見つめる。煙ではなく、流れるような文字の形そのものが今川の口から溢れ出していた。
 今川の先導の言葉をきっかけに術者たちが再び呪言を唱え始める。
「夫れ神は万物に妙にしてして変化に通ずるものなり。天道を立て、是を陰陽を謂い、地道を立て、是を柔剛と謂い、人道を立て、是を仁義と謂う。」
 低い声で幾重にも紡がれる呪が絡み合って混沌とした世界に一つの命令を下そうとしていた。
「伸。」
 真横で声がして伸は慌ててそちらを見る。
 クロが、神が人に与えるような絶対的な慈悲の微笑みを浮かべて立っていた。浄衣の輪郭は純白に輝き、異形の黒い瞳は伸だけを映している。ふわり、ふわり、と青白い蛍火が彼を包み込んでいた。
「どうしたんだい、クロ。座ってなきゃ。」
「今までありがとう。楽しかった。」
「え、な……に?」
 大きく吸い込んだ息を伸は止めて、無意識にクロの袖を掴んでいた。
「俺はこの地に眠って北の護りになる。」
「クロ……何の話だい?」
 訊いておきながら、伸は自分の声が震えていることに気づいた。どうして震えてしまうのかわからない。脳裏に社務所での出来事が過る。クロが流せない涙を流していたのはなぜか、唐突にそれが思い起こされた。
 伸はクロの浄衣の袖をきつく握りしめたまま、上半身を彼に傾けた。
「ねえ、クロ? 君はずっと……」
「伸、いいんだ。」
 クロは微笑みを口元に残したまま、伸の頭に手を伸ばしてやわらかな薄茶色の髪を撫でた。
「俺は多分、このために伸のところにきたんだと思う。」
「何を言って……」
「さっきも言っただろう? 俺は妖だから、人の代わりにはなれないって。この結界は『血』の結界だ。直系の子孫を永々と残すことで護られる結界。だけど、妖の俺には子孫は残せない。」
 あやすようにやさしく、クロは伸に言葉を与える。
「北方水気の伸の代わりを務めるために、俺はこの大地に還るよ。」
 二人の間にわずかな空白ができる。
 そこに、呪言が流れ込んだ。
「……天地吉凶、神に非ずんば、知る事無し。」
 ゆらり、とクロの浄衣の輪郭が水面に映る影のごとく溶けるように揺れた。
「いやだ!」
 伸は声を張り上げて勢いよく立ち上がるとクロの小さな体を抱き締めた。かがり火が折からの風でごうと燃え上がり、二人の浄衣を緋色に染め上げる。
「約束が違う! 誰も、クロも、犠牲にならないって言ったじゃないかっ!!」
「落ち着けよ、伸。」
 伸の腕の中で、クロが静かに言う。
「永い時間、生きてきた。ヒトなんて相手をするに足りないちっぽけな存在だと思っていた。傲慢でどうしようもない生き物だと思っていた。でも、伸たちに逢えてようやくヒトが何なのかを知ったんだ。護るに値する存在だと、思えるようになった。」
 クロは右手で伸の背中を何度も撫でた。まるで、親が子を愛おしむように。
 どれくらいそうしていただろうか。
 すうと伸の体がクロから離れて、ぺたりと大地に座り込んだ。目の縁に一粒、大きな涙がふくれあがっている。
「……僕の代わりに、君が、なんて。」
 幾筋もの涙が伸の頬を流れて浄衣に染みを作る。クロがその頬にそっと手を伸ばして涙をぬぐう。
「伸のせいじゃない。」
 やがてクロの周囲を泳いでいた青白い蛍火がふわりふわりと数を増し始めた。数え切れない蛍火は少しずつ密度を高め、クロの姿を消しゴムで消すようにゆっくりと奪い始める。
「クロ!」
 伸ばした伸の手の指先の、ほんのわずか先で、青白い蛍火は一瞬にして凝縮し光を内側にたくわえた繭(まゆ)の形になった。
「いやだ!」
 伸の悲鳴が呪に満ちた斎庭を引き裂いた。呪文は止まず滔々と続けられている。
「クロ! 帰ってくるんだ!」
 伸はやわらかくあたたかい光の繭を抱き締めた。その中から小さな鈴を振ったようなか細い声が聞こえた。
「最後に伸を好きになれて良かった。ありがとう。」
「クロ! クロ!!」
 輝く繭を抱き締めたまま頬を擦り付け、伸は声の限りに叫んでいた。その背後で地を這うように唱えられていた呪言の声がひと際、大きくなった。
「……仰ぎ願わくば、福寿増長、除災与楽、心中善願、決定成就、決定円満。」
 伸の抱えていた繭が斎庭を真昼のごとく照らしだした。突然の強烈な光に思わず目を閉じる。
 再び伸が目を開けたとき、腕の中には何もなかった。
「クローーーっ!!」
 編み上げられた呪を破るように、斎庭に伸の鋭い声が突き抜けた。咆哮と言っても良かった。そのまま伸は脱力し、全身を小刻みに揺らして両手を地面につき、顔を伏せた。伸の体の海からどうしようもなく溢れてしまったいくつもの雫が地面を濡らした。
「毛利さん。」
「……はい。」
 背中に降り掛かる今川の声に、伸は嗚咽まじりの声で応じる。 
「まだ術は完成しとらんぞ? あの玄狐のためにもあんたがやることは何か、わかっとるだろう?」
 伸は目を閉じた。瞼にはクロが最後に見せた微笑みしか映らなかった。心にぽかりと空洞ができている。先ほどまでの激しい感情は嘘みたいに消えて、ただただ、虚しさしか残っていなかった。
 伸は機械のようにぎこちなく体を起こし、背筋を伸ばした。
「分かりました。続けてください。」
「気をしっかり持つんだぞ。祭主の力がなかったら我らの呪の意味もなさんからな。」
「……分かってます。」
 今川は元の位置に戻り、祭祀を再開した。
「送神文。」
 言われるままに、伸は奉書紙の送神文を読み上げる。
「一心奏送上所請、一切尊神、一切霊等、各々本宮に還り給え、向後請じ奉らば、即ち慈悲を捨てず、急に須く光降を垂れ給え。」
 最後の祭文を唱え終えて、伸は手元の奉書紙をゆっくりと折り畳んだ。そのつもりだった。
 突然、視界がぐらりと斜になる。手元から奉書紙が転がり落ちた。
「毛利さんっ!!」
 渡井が土を蹴って駆け寄って来る声がうすぼんやりと聞こえる。
 霞んで行く視界の向こうで、天と地を繋いでいた一筋の光が消えてゆくのが見えた。



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