第49話 北辰結界(3)

 北辰結界(3)







 九月八日、午後七時四十五分。
 ナスティと純を含めた当麻たち六人は鈍い灰色に染まりつつある気象庁の建物を見上げていた。先に幸頭井たちと合流して待っている、とナスティの携帯に連絡があったので、伸はもう建物の中なのだろう。周囲の真新しいビル群に比べやけにこじんまりとして古ぼけた気象庁の建物は、まるでその地の長老であるかのように重々しく存在感があった。
「薄手のストールでも持ってくれば良かったわ。」
 ナスティが露になっている両腕を手のひらで何度も撫でた。
 晩夏とはいえ日中の最高気温は三十四度近くまであがり、コンクリートで覆われた都心ではおそらくそれ以上の暑さだったはずだ。しかし、すぐそばに深い緑をたたえる皇居のそばの気象庁前は夏の夜の名残もなくひんやりと肌寒かった。
「六階でいいんだな? ナスティ?」
「ええ、『大規模災害予知対策研究室』ってプレートが出ているそうよ。第一、この小さい建物じゃ迷子になりそうもないけれどね。」
 ナスティの軽い冗談を受け流し、六人は気象庁のビルに入った。すぐ左側が一般閲覧用の小さな図書資料室になっており、右側にセキュリティチェックの警備員と思しき年配の男がいた。男は奇妙ともとれる六人組を一目見て怪しむような顔をしたが、すぐに仕事用の仮面をかぶった。
「一般の方ですか? 代表者の方のお名前と、御用の職員、もしくは部署を教えて下さい。」
「ナスティ柳生と申します。『大規模災害予知対策研究室』の幸頭井さんから今日、こちらに来るようにとの連絡がありましたので。」
 男はとてもわかりやすく迷惑そうな目つきをして、手元の電話をとった。短いやりとりのあと、やはり訝しげに六人を見てから言った。
「了解しました。六階の東棟の右突き当たりになります。」
 そして六人分の一般入館許可証をナスティに渡した。
 建物と同じく古びたエレベーターで六階まで上り、東館に向かう短い廊下を渡って突き当たりに『大規模災害予知対策研究室』のプレートが出ている一室があった。ベージュ色の扉の前で当麻が呟く。
「それじゃ、あんたたちの力を拝見ってことで。」
 扉の向こうは三十人ほどが入れそうな会議室だった。一番奥にホワイトボードが置かれてあり、その前のテーブルの周囲に黒いスーツの男たちが八人いた。男たちから離れたところにひとり、ぽつんと、薄茶色の髪の小さな背中が見える。当麻たちが入ってきたことに気づくと振り向いて、ほんの少し苦笑いする。
「ようこそお越し下さいました。」
 男の中の一人が六人の方に振り向いてお辞儀をした。愛想笑いが板についた恰幅のいい男だ。
「神田でお会いして以来ですね。陰陽寮の斎部です。」
「こちらこそお世話になります。」
 ナスティが相手に負けないくらい丁寧に腰を折った。
「ちょうど今、用意し終えたばかりですので早速ですが始めたいと思います。こちらへどうぞ。」
 斎部が背後の、画数のやたら多い漢字と東京都の地図の描かれたホワイトボードを指差しつつ、視線で目の前の会議用テーブルにつくように訴えた。テーブルには七人分のミネラルウォーターのペットボトルと透明なグラスが置かれている。ナスティたちは促されるままにテーブルについた。六人が椅子に座ると同時に伸が歩み寄ってきて当麻に声をかけた。それから横目でちらりと他の五人を見る。
「ありがとう。上手く説明してくれたようだね。」
「……こんなときに都内の親戚に急病……なんてな。大丈夫だったか。」
「大変だったよ。」
 軽く笑って、伸は当麻の右隣に座った。
「伸、なんかお前、顔色悪いんじゃないの? そんなに親戚の人の具合、悪かったのか?」
 当麻の左隣に座っている秀が声を潜めて訊くと、伸はやはり薄く笑って答えた。
「そうなんだよ、だからちょっと寝不足気味なんだ。でも大丈夫だから。心配しなくてもいいよ。」
「それでは始めてよろしいでしょうか。」
 三人の会話を中断するようにホワイトボードの前の斎部の声が通る。その隣で神経質そうな面をした細身の日知が資料らしき紙束を手にしている。ホワイトボードの前から少し離れたところにぽつんと一つ置かれてあるパイプ椅子には幸頭井が要石のようにどっしりと座り、残りの陰陽寮の職員は音もなくいつの間にか七人の少し後ろの席に座っていた。
「まずは今日のスケジュールについて大雑把に説明します。このあと、九時を目処にみなさんにはそれぞれの祭祀の場に向かって頂きます。車はこちらで手配しておりますのでご安心ください。各神社ではもうすでに準備は整っており、日付の変わる零時から祭祀を始めます。ここまで何か質問はありますでしょうか?」
 当麻が右肘をテーブルに付けたまま手を上げた。
「羽柴さん、何か?」
「先日の大祓以来、都内の社寺のほとんどは霊力を失ったと聞いた。そんな状態で都内の神社で祭祀をやれるのか? それに、くどいようだが俺たちの力だけで本当に北辰結界は完成するのか?」
「ご安心ください。まず、これから祭祀を執り行う神社はすでに霊力を回復しています。大祓のあと、守護に力のある術師が全国から集い浄化作業を集中的に行いました。また、今回の祭祀は陰陽寮と皆さんの力だけで行うわけではありません。」
「他に協力者がいるのか?」
「近くは大宮氷川神社、鹿島神宮、香取神宮、そして南から宇佐神宮、香椎宮、石清水八幡宮、石上神宮、以上の神社が祭祀と同じ時刻より宿願成就の祈祷を始めます。」
「それって……」 
 ナスティが口に手をあてて、驚きの言葉を零した。
「ええ、そうです。全国の有力な国家鎮護の神社が一斉にこの東京へ、正確には北辰結界へ力を注ぐわけです。」
 時の間、しんと緊張を孕んだ沈黙が会議室を満たす。当麻はペットボトルに手を伸ばして蓋を開けた。プラスチックの軋む音と当麻の言葉が同時に会議室の雰囲気を剣呑なものにする。
「陰陽寮……あんたたちが、そんな大きい神社を動かせるというのは妙な話だな。確か、神田の時は俺たちは部外者扱いだったはずだが?」
「あの時はまだ、神社本庁側も状況をきちんと把握できていませんでしたからね。しかし、大祓のあとの都内の惨状を見て神社側も態度を変えたようです。」
 当麻の脳裏に、昨晩、クロから得た力で見た昏いヘドロの流れで覆われた夜空と、己の身に刃を突きつける伸の姿が過る。
 当麻が黙ってしまったのを納得の態度ととったのか斎部は話を続けた。
「それでは祭祀を行う神社をご説明します。」
 日知が四枚のコピー用紙をホッチキスで止めた資料を七人に配る。一枚目の紙には大きく東京都の地図が描かれており、七つの黒丸が記されていた。
「手元の資料を御覧ください。今回、祭祀に使う神社は西多摩地区の護りとして西多摩郡奥氷川神社、北、南多摩地区の護りとして府中市大国魂神社、そして二十三区の護りとして元准勅祭社十社のうち五社を使います。それぞれの担当は、奥氷川神社が柳生さん、大国魂神社は山野さん、文京区根津神社に真田さん、同じく文京区白山神社に伊達さん、北区王子神社に毛利さん、港区芝大神宮に羽柴さん、江東区富岡八幡宮に秀さんとなります。」
「この七社の選定の根拠と俺たちの割り振りの理由は?」
 当麻が三枚目の資料に目を落としつつ言う。斎部は用意してあったようになめらかに答えた。
「西多摩地区、つまり奥多摩は比較的、といっても二十三区内に比べての話ですが被害の度合いが少ないので、一社ということになりました。ただ、奥氷川神社は所沢市の中氷川神社を通して大宮市の氷川神社の気を得られるので、正確には三社の気で西多摩地区を護るということになります。北、南多摩地区の護りとなる大国魂神社は武蔵国総社であり、武藏国を護る一ノ宮から六ノ宮を祭神をしていることから、強い霊力を得られます。二十三区の護りの五社は、使えない日枝、神田を除く八社のうち、皇室および国家鎮護に霊力の高い神社を選びました。それぞれの神社になぜ配置されたかというのは、ご自身で現地で確かめてください。納得していただけるはずです。」
「あの……」
 当麻と斎部の尖った会話の間に、申し訳なさそうな声が割って入った。遼が資料の二枚目を見せて真ん中あたりを指差している。
「ここの『祭主』のところに俺の名前がありますよね?」
「はい。今回の主役は北斗を司る皆さまですから。」
「この資料を読んでいると、『祭主』がやたら長い呪文みたいなのを唱えなきゃならないみたいなんですが……。」
「はい、重要な祭文は祭主である皆さまに読み上げていただきます。現場では読みやすく祭文を書き下した奉書紙を用意してありますのでご心配なく。」
 遼が顎に手をあてて、うーんと唸った。
「いや、そうじゃなくて。いきなりこんなのを読み上げろって言われても困るかなぁって。せめて、前もって
教えてもらえていれば練習くらいできたと思うんですが。」
「申し訳ありません。その祭文が載っていた金烏玉兎そのものが秘伝ですから、その中に伝わる祭文も秘事中の秘事、前もってに皆様にお伝えして外部に流出してしまうのを避けたかったのです。ご了承ください。」
 丁寧な斎部の説明にも遼は困り果てて、相変わらず資料を睨んだままだ。その耳元に隣に座る征士が囁いた。
「大丈夫だ、遼。案ずることはない。」
「なんでだ?」
「こういうのは頭で読むものではない。体から勝手に出てくるものだ。それに昨日の朝、いなり寿司を食べただろう?」
「ああ、うん。」
「それが『力』になってくれる。」
「いなり寿司がか?」
 意味を捉えそこねて、口を半開きにしたまま征士を見る遼の背後でガタリと音がした。スーツの男が立ち上がり、ホワイトボードの前の斎部に近寄って耳元で何事か伝える。斎部は男に一言二言、小声で答えて腕時計を目の隅で見たあと、再び七人の方を向いた。
「申し訳ありません。まだまだご納得いただけないことはあるかと思いますが、時間が差し迫って参りました。ご不明な点は、現場の指揮者に尋ねてください。今、本郷通りに車が到着しましたので、それぞれ担当の者がご案内します。」
 伸は立ち上がりながら横目でちらりと当麻を見た。斎部の話を無視するかのように、ぴくりとも動こうとはしなかった。



 伸の乗ったクラウンは、七台のうち一番最後に出発した。後部席の窓の向こうに流れる赤や白や黄色の夜の街の光を眺めながら、ぼんやりと先ほどの会議室の様子を思い出していた。
 大学生の純は、見違えるくらいに大人になった。幼い日々の面影はあるものの、剣道で培われたのであろうしなやかで立派な体躯は今の自分よりもはるかに力強い。そしてなによりも、瞳に宿る光は遼のそれとよく似ていた。まっすぐで、揺るぎなく、熱を秘めた眼差し。心、という意味では、彼は立派に遼の後継者だ。そしてこれからもそうなのだろう。
 ナスティは綺麗に、そして本当の意味で毅い女性になった。愛されている人間はいくらでも大胆に自分の心を他人に分け与えられるし、包み込むように他人を受け入れることができる。誰かと緊密に繋がっているとう安心感は彼女の潜在的なキャパシティを大きくしたようだ。年頃の女としての仕草や洋服は彼女を華やかに見せるが、現在のような困難な状況の中、自分たちを見守ってくれる姿は凛々しくも見える。そうやって、ナスティはこれからもずっと自分以外の六人のお姉さんであり続けるのだろう。
 そして遼も征士も秀も当麻も、出会ったころよりもずっとずっと大人になった。けれどもその中に、変わらないところもあって、その「変わらないところ」にここ数ヶ月の生活の中で奇妙な安心感を覚えていた。遼の黒い瞳、征士のまっすぐな背筋、秀の笑い顔、そして……当麻の低く響く声。
 きっとそれらは、これからもずっと変わらないのだろう。
「僕はもう、それは確かめられないんだけれど。」
 ぽたり、と雷雨の前触れの一雫のように漏らした言葉に声が返った。
「毛利さん、どうかされましたか?」
「あ、いえ。」
 伸は窓から目を引きはがした。隣の席の渡井が不思議そうに伸を見ている。肌がひやりとする沈黙があった。いたたまれなくなった伸は、資料の1ページ目の東京都の地図の上に『王子神社』と黒丸を描かれた場所を指差した。
「僕の担当する王子神社ってどんな神社なんですか? はじめて聞く名前だなと思って。」
「そうですね。一般的に東京十社のうち北の護りとされている神社です。その地区一帯が『王子』という地名なのはご存知ですか?」
「すみません、はじめて知りました。あまりこちらの地理には詳しくなくて。」
 渡井はぎこちない笑顔を作って、伸の手元の資料の王子神社を示す黒丸の周囲を指でぐるりと囲んだ。
「気なさらないでください。『王子神社』の『王子』は『熊野三社』の御子神の『王子大神』のことをいいます。つまり王子神社は江戸における熊野信仰の拠点でした。この近くを流れる石神井川(しゃくじいがわ)も熊野にならって『音無川』と呼ばれています。」
「熊野。」
 音を弾くように伸は呟いた。瞼の裏に見たことのない輝く海が見える。それは遠く遠くはるか神代からの敷浪の音を伝えて伸の心に沁みた。
「詳しくはないんですが、確か熊野って修験系ですよね。」
「まあ、一般的にはそう言われてますが一概に説明できる土地ではありませんね。」
「海は関係ありますか?」
 渡井が資料から目を離して伸を見た。
「どうしてそう思われますか?」
「今、なんとなくそういうイメージが見えたので。」 
 言ってから伸は、資料を持っていない方の右手を、太腿の上でぐっと握りしめた。
「すみません、変なこと言ってますよね。」
「いえ、毛利さんが見たのは、多分、補陀落渡海(ふだらくとかい)のことでしょう。」
「補陀落渡海?」
 首を傾げる伸に、渡井はやんわりと答えた。
「仏教では西方だけでなく南方にも浄土があるとされました。その浄土を補陀落といいます。熊野は京都から見て南でしたから、中世には南方の浄土、つまり補陀落とされました。その浄土へ向かうことを補陀落渡海と言って、紀伊の海へ身を賭けて渡ることも行われました。さらに遡れば『日本書紀』神代巻では『少彦名命、行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世郷に適(いでま)しぬ』と記述があります。熊野は山と海の国ですからね。山中他界、海上他界の両方を兼ね備えた『常世への入り口』だったんです。北方水気は死の……常世の方角。つまり王子神社は熊野の強大な気で北方水気の力を操れる場所なんです。」
「少彦名命は……。」
 口の中で言葉を転がして、伸は頭の中いっぱいに広がる海の音を聞いていた。懐かしい音だった。幾重にも打ち寄せる波が、肺を満たす潮の香が、海鳥の鳴き声が、そして母と姉の笑顔が、唐突に生々しく蘇ってきた。懐かしい、という想いと、もうそこには戻れない、という想いが重なった。さらにその上に、伸の二つの思いに同調するかのように誰かの『想い』が重なった。
 唐紅の衣が視界を過る。
 ……本当に戻れないのは誰だ。常世に行くのは誰だ。
 もぞり、と伸の首筋の蛇が動いた。慌てて右手で押さえて息を止める。ちらりと渡井を見たが気取られている様子はなく、安堵した途端。
「うっ……」
 背を這う蛇が跳ねるように動いた。太腿を這う蛇が肉の中で踊るようにのたうちまわった。左腕を這う蛇はそろりそろりと体内に浸食するかのように体の奥に沈もうとしていた。
 あまりの怖気に一瞬、意識が白む。それでもなんとか息を整えようとしたときだった。
 鎖骨の蛇が、伸の喉深くに潜り込み食道を這いながら舌を侵した。
「ひっ……」
 全身を犯される気持ち悪さに腰を折って伸は咳き込む。せりあがる吐き気を喉元で必死で堪えて浅い息を繰り返す。酸素を取り込もうと開けたままの口から、一筋、銀色の糸が滴り落ちた。左手に持っていた資料は力任せに握りしめられて、紙くずになっている。
「どうかしましたか!?」
 深い霧の向こうで誰かが囁いているような声だった。それが渡井だと分かっていても、伸の体の震えは止まらず、声はままならない。蛇達は相変わらず何かを訴えるように、伸の体中でのたうちまわっている。
 突然の出来事に意識がついてゆかず伸が現世から足を踏み外しかけたとき。
 シャリン。シャリン。シャリン。
 黄金の光が射した。
 澄み渡った音があたたかく伸を包み込む。光に溶けるように蛇達の動きは止まり、伸の体と心に自由が戻る。
 大きく息を吐いて、伸は上半身を起こした。目の前に燦々と降りしきる夏の太陽の光を集めたようなまばゆい黄金の鈴が一つ、ぶら下がっている。
「これは……」 
 伸が身を乗り出して近付こうとすると、逃げるように鈴が消えた。正確には、渡井が自分の手元に戻し、白い布袋にしまったのだった。
「金克木です。」
「え?」
「蛇は木気。この鈴は金で出来てますので金気です。毛利さんには申し訳ないですが勝手に中のモノを押さえさせていただきました。」
 十秒と少し、渡井の言葉を咀嚼して伸は体を強ばらせた。右腕で自分の全身を抱き寄せ、逃げるように体を逸らせる。
「渡井さん、もしかして……」
「事情は伺いません。身勝手なことを申し上げるようですが、冬至まではそのお体を大切になさってください。」
「……わかりました。」
 渡井の声がほんの少し掠れていることに伸は気づかず、頷いて俯いた。
 運転手が「神社まであと少しです」と告げると、渡井はスーツのポケットから携帯を取り出した。


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