「失礼します。」
幼さの残った若い女の声だった。蝶番が軋む音と一緒に入って来たのは声のイメージを最先端の3Dプリンターで出力したような女性だった。少し茶色がかった大きな目、清らかな白い肌、ふわふわと背中の中程まで伸びた髪、麻のワンピース。二十歳は越えていないであろうその女性は、部屋中のアルコールの粒子を彼女自身の存在で一瞬にして浄化できそうだった。右手に小さなお盆を持ち、矢島に一礼すると小ぶりの湯呑みを矢島の机の上に置いた。それから当麻を一瞥すると無表情に軽く頭を下げて当麻の前の小さな机にやはり同じ湯呑みを置いた。そして何も言わず当麻と反対側に置かれている椅子に座った。
「矢島さんのお孫さんですか……?」
当麻の口から思わずこぼれた言葉に、女性はきりっと眦をつり上げた。当麻を睨みやわらかな顔の輪郭と釣り合わない厳しい口調で怒りを露にする。
「先生に失礼なことを言わないで下さい。私は水上悠花。矢島先生の弟子です。」
水上悠花と名乗った女性の地雷を当麻は踏んでしまったらしい。彼女の頬が憤りで赤く染まっている。
矢島が腕をほどき、おでこを掻いた。
「水上君。まあ落ち着きたまえ。悪意はない。」
「申し訳ありません。」
悠花はつんと当麻から視線をそらして手に持っていた盆を膝の上に置いた。
「彼女の家は代々、諏訪大社上社の神職でな。水上君も諏訪大社に奉職するために今、國學院に通っている。」
「大学生ですか?」
「今年で四年です。」
当麻はあらためて彼女の風貌をじっくり観察した。やはりどう見ても二十歳を越えているように見えなかった。
「卒業研究で諏訪を取り上げるので、時間のあるときに矢島先生のところで史料を見せて頂いているんです。」
「じゃあ卒業したら、諏訪大社で巫女さんに?」
悠花が再び当麻を見た。今度は怒ってはいなかった。明らかに当麻を馬鹿にした面持ちで深く溜め息をつくと膝の上の盆を揺らした。
「神職と巫女とは違います。あなた、民俗学やってるって本当?」
ラスボスを倒したと思ったらもう一人ラスボスがいた。ずいぶんとやりづらい敵地に来てしまったようだと当麻が心の中でぼやいていると悠花が声のトーンを上げて言った。
「こんな不勉強な相手に先生の貴重なお時間を割くのはもったいないと思います。」
「おそらく彼の専門は民俗学ではない。だから少しくらいは目をつむってやろうじゃないか。」
そう言って矢島は当麻を見た。「そうだろう?」という言葉を視線から感じ取って当麻は降参した。歴史を見通す老人は一個人の歴史すらもいくつかの会話のやり取りで掴んでしまうらしい。
「羽柴君といったな。君は諏訪の何が知りたい?」
当麻の頭にいくつも単語が過った。諏訪大社上社、ミシャグチ、守矢、タケミナカタ、龍神、そして蛇……。ふいに記憶が飛んだ。
『諏訪本来の歴史を背負う最後のお一人なんです。』
先ほど守矢史料館で聞いたフレーズだ。その言葉が作り上げたイメージと実在の矢島があまりにもかけ離れていたためにすっかり意識の外に追いやってしまっていた。彼は『諏訪の鍵』なのだ。諏訪の歴史の扉を開く最後の鍵。ならば彼自身について知らなければならない。
「諏訪の本当の歴史について教えて下さい。」
矢島と悠花の視線が同時に当麻に向いた。二人の目には同じ色が宿っていた。少なくとも軽蔑や悪意とはかけ離れたものだ。
「本当の歴史、とは?」
当麻は目を閉じた。洞真の残した言葉、陰陽寮、乃千清美とのいくつかの会話。それらにまつわる膨大な記憶と経験と語彙と思考を一瞬でまとめあげ、矢島の鋼鉄の歴史的価値観に匹敵する堅牢なフレーズを導き出した。
「文字に記された歴史は必ずしも真実ではなく、記されなかったことに歴史の真実があるのでは、と。」
矢島の目の色が変わった。老人特有の目の濁りが消え、新しい世界に立ち入ったときに宿る生き生きとした光が瞳の奥に輝き始めた。当麻と当麻の母親を非難したときとは別人のような満足げな表情をちらりと見せ、口元を緩めた。
「水上君。」
矢島は小さい方の湯呑みを啜りながら言った。
「君の研究の復習も兼ねて、彼に諏訪上社と五官家について説明してあげなさい。」
悠花は背筋を伸ばし盆の上の手を重ねた。一度瞼を閉じ、論文を諳んじるような口調で語り始める。
「諏訪の歴史と言ってもそんなに単純なものではないのです。そもそも、諏訪上社と下社は別物ですから。」
「別の神社だった、ということですか。」
「そうです。祭神も違う全く別の神社です。そして上社も、前宮と本宮、別の祭神を祀ってきました。」
当麻は数時間前の記憶を呼び戻した。本宮の祭神は建御名方神(タケミナカタノカミ)であると案内板に間違いなく書かれてあった。事前の史料調査でもそれ以外の可能性の欠片も見当たらなかったはずだ。
「祀られているのは建御名方神ではないのですか?」
「それは本宮です。そして、諏訪の祭祀の中心は本来本宮ではなく前宮です。もう行かれましたか?」
いえ、と口ごもり、当麻は小さく頭を振った。悠花が小さく溜め息をつき、確認するような口調で当麻に尋ねた。
「建御名方神についてはご存知ですね?」
「『古事記』の出雲の国譲り神話で建御雷神(タケミカヅチノカミ)に負けて諏訪まで敗走した神だと。そしてその神は大国主の子のはずなのに『日本書紀』には出て来ない。」
悠花の口元にほんのすこし笑みが浮かんだ。よくできました、という証拠なのだろう。
「でもそれはあくまでも中央……ヤマト朝廷が作った神話におけるエピソードに過ぎません。出雲から諏訪に逃げて来た建御名方神、その存在は諏訪においては稲作民族がこの地に攻め込んで来たということと同義なんです。」
にわか信じ難い情報を提示され、当麻の思考の糸が一瞬もつれかけた。深く息を吐き、自分に言い聞かせる。既成概念を捨てろ。真実はつねに自分の情報網にあるとは限らない。ここ数カ月で学んだいくつもの『信じ難い真実』はすべて世界の外側にあったのだ。
「つまり、こういうことですか。かつて、諏訪の地にはヤマト朝廷とは関わりのない民族が住んでいた。そこに『建御名方神』を象徴とする稲作民族がやってきて争いが起きた。そして諏訪の土着民族が負けて土地を譲った。」
「ほほう。」
声の方を向くと、矢島が大きい方の湯呑みを啜りながら当麻を見ていた。他人に向ける眼差しではない。親しい者に向けるそれだった。
「負けたわけではありません。共生の道を選んだのです。確かにおっしゃる通り、諏訪における『国譲り』の神話では稲作民族を率いた『建御名方神』と諏訪の神である『洩矢神(モレヤノカミ)』が率いる先住民族が天竜川で戦い『洩矢神』が負けてしまいます。けれどもそれは『伝承』です。実際は『洩矢神』を筆頭とする先住民族が『建御名方神』を筆頭とする稲作民族を受け入れ、諏訪は新しい時代を迎えたのです。」
当麻は無性にきりりと冷えた炭酸水をペットボトルで一気飲みしたい気分に駆られた。知りたい真実、つまり諏訪大社上社と千早樹のことについて辿り着く前に、諏訪の二千年の歴史を越えなければならないようだった。ある程度覚悟はしていたが、この土地はあまりにも複雑で膨大な歴史的背景を背負っている。
「素朴な疑問ですが、それなら諏訪大社上社本宮になぜ『建御名方神』が祀られているのですか? もう少し疑問の幅を広げていいなら、諏訪大社の祭神は一般的に『建御名方神』となっているのも納得がいかない。」
「真実を語り継ぐ人がもう矢島先生しかいらっしゃらないからです。」
悠花の口調が厳しくなった。ちらりと矢島を見てから続ける。
「諏訪大社は近年に至るまで特殊な体制をとっていました。『建御名方神』の子孫である諏訪氏が『大祝(おおほうり)』という生神の位につき、『大祝』である童子を『洩矢神』に仕えていた五官家が補佐してきました。童子に祭政ができるわけがありませんから、諏訪の実権は五官家、その中でもミシャグチ降ろしのできる神長官守矢家が握っていたのです。」
「五官家。」
当麻は独り言のように繰り返し、唾を飲み込んだ。守矢史料館であの二人が口にした暗号のような言葉だ。
「あら、ご存知でした?」
「いえ、先ほど守矢史料館の方が話していたので聞きかじっただけです。」
「細川さんと太田さんね。」
悠花の大きな瞳が一度だけ瞼に隠された。再び現れた瞳にはわずかな親しさが宿っていた。
「お二人からは何も聞かなかったんですか?」
「俺が別の質問をしてしまったので聞きそびれました。」
こつんと太腿の上の盆を人差し指で鳴らし、悠花はいいわ、とでもいうように続けた。
「正確には『五官祝(ごかんのほうり)』と言います。ミシャグチ降ろしを行う守矢神長官を筆頭に、称宣大夫(ねぎだゆう)、権祝(ごんのほうり)、疑祝(ぎほうり)、副祝(そえのほうり)の五官を指します。彼らが童子である大祝を補佐し、実際に諏訪上社の神事を執りおこなってきたんです。神社本庁が諏訪に介入するまでは。」
「介入?」
「大祝と五官祝の体制を排除し、諏訪大社の宮司を本庁から直接派遣してきたんです。そして祭神を『建御名方神』と謳い、二千年の昔から続く諏訪の本来の祭祀を排除しました。守矢氏は表舞台から去り、権祝の直系の生き残りである矢島先生を残して他家の血は途絶えました。以上が諏訪上社と五官家についての説明です。」
そうして論文の読み上げが終わったとでもいうように悠花は口を閉じた。当麻に真直ぐな視線を向け、その大きい瞳を少し潤ませながら物問いたげな沈黙を保っている。
彼女は矢島に、いや、正確には『二千年の歴史を背負う』諏訪に恋をしているのではないか、そんな気がして当麻は次の一手に迷った。彼女の冷静な口調の裏には大切なものを守るもの特有の熱さと激しさがあった。諏訪大社上社の神職を希望するという悠花の志望は、つまるところ諏訪に全てを捧げる、そういう意味なのだ。
「羽柴君。」
声の方を向くと矢島が腕を組んで当麻の心の奥深くを覗き込むかのような目を向けていた。透明でそしてどこまでも清冽な諏訪の空のような目だ。
「これで君が守りたいものは守れるかね?」
当麻の頭に展開していた二千年分の年表がくるくると巻物のように閉じられ、二〇〇九年の秋に意識の焦点が合わされた。
「諏訪上社の歴史については理解、というよりも教えて頂いた知識だけは納得しました。俺が知りたいのは、おそらく、その五官家に繋がるであろう人のことなんです。」
そう言って当麻はリュックの中から千早樹の写真を取り出した。史料館で見せたものだ。千早は相変わらず、写真の中で妖艶で中性的な微笑みを浮かべていた。矢島の前に持っていって見せると悠花も覗き込んだ。
「あら、この人。」
悠花が小さく首を傾げた。
「千早樹じゃない。」
「知っているんですか?」
「ええ、私の友人にファンがいて、銀座の個展によく通っているから。」
すっかり女子大生の雰囲気に戻った悠花が長い髪を一度、右手で梳いて付け足した。
「私は好みじゃないけど。」
「千早樹、と言ったな。」
悠花の軽やかな反応とは裏腹に、矢島は眉に深い皺を作り口元をへの字に曲げて唸った。そして写真を一分ほど凝視したあと、湯呑みに手を伸ばした。一口啜り、重い息を吐く。相変わらず気難しい顔をしたままもう一度、写真を覗き込んだ。
「これはいつの写真かね。」
「ごく最近のものです。」
「千早樹というのは本名かね。」
どう答えようかと当麻が躊躇いの間を置いたその隙間に悠花が何事でもないように言った。
「本名だと思いますけど。」
当麻が理由を問い質そうとする前に悠花が肩をすくめた。
「そのファンの子が一度、千早樹とギャラリーで話をする機会があったそうです。雅号の由来を聞いたら『本名です』って言ってたって騒いでましたから。」
当麻は池袋の本屋で一度会っただけの千早樹を脳裏によみがえらせた。洞真の言う通り、彼が諏訪上社に関係のあるものであるならば、先ほどまで聞いた二千年の歴史を自ら欺くような『偽名』は使わないだろう。『名』とは本質を表す『呪術』であるということはここ数ヶ月で痛いほど体験済みだ。
「『夏直路』か……。」
はるか遠い地平線に想いを馳せるような口調で矢島が呟いた。底の見えない井戸にも似た深く静かな寂寥感が部屋を包んだ。
「羽柴君、本当に君はその人物の素性を知らなければ目的を果たせないのかね。」
当麻は頷き、自分の気持ちに揺るぎのないことを伝えた。悠花がぽかんと二人のやりとりを見ている。
「世界は誰かの犠牲の上になりたっている。」
矢島は一つ一つの言葉を丁寧になぞるように音にした。音のひとつひとつに太古からの歴史の重みが宿り、宙空をさまよった。
「『大祝』と守矢家が諏訪の光だとしたら、夏直路はその闇だ。」
『闇』。その言葉に当麻は息を止めた。ちらりと千早樹の写真を見る。直感にも似た感覚が当麻の意識を支配した。千早樹は歴史に隠されたわけではない。歴史から消されたのではないか、と。
「君は語られなかったことの方に歴史の真実があると言った。だが、語り継がなくてもいい……いや、語り継ぐことによって不幸が訪れる歴史というのも存在する。私はそれを語る日が来るとは思わなかった。」
矢島は椅子を九十度回転させ、ほんの少し顎を上げた。しばらくは何も言わず、遠くを見つめて自分自身の記憶と語り合っているようだった。五分もしたころだろうか。ようやく口を開いた。
「千早樹は夏直路社の最後の当主の名だ。」
「矢島先生。」
悠花が研究者の声で尋ねた。
「この二年、先生の元でお世話になりましたが夏直路社という名前は一度も聞いたことがありません。」
「水上君には期待している。私の知る諏訪の歴史全てを君に託すつもりだ。しかし、君が背負うには重過ぎる歴史も存在する。だから、夏直路については話さなかった。」
悠花は質問を重ねようと小さく唇を開けたが、すぐに閉じた。アルコールに充ちた部屋にじわりと緊張した空気が漂った。
「率直に伺います。夏直路社について教えて下さい。俺が知りたい千早樹が関係しているなら目的はそれに尽きます。幸い、俺は諏訪の歴史を背負うという大層な役割を担っているわけじゃない。」
矢島は首だけで当麻を見た。ひどく哀しい目をしていた。
「夏直路は、墓所だ。」
「墓地なんですか?」
「そうだな。諏訪の神の墓地、だ。」
『神の墓地』。当麻は矢島の言葉を頭の中で繰り返し、その詩的とも呼べる言葉の真意を探った。日本神話に見られるように、古くから日本人には『死後の世界』というのは存在しなかった。黄泉の国などのエピソードも見られるが、本格的に『死後の世界』を日本人が意識し始めたのは仏教が伝来してからだ。ならば、諏訪の『神の墓地』とは何を意味するのか。
「水上君が話した通り、古くから近年にいたるまで諏訪上社では『大祝』に守矢氏が諏訪の神であるミシャグチ神を降ろして神事を行ってきた。『大祝』は現人神、生きた神だ。だが人は死ぬ。神の力を宿したままだ。その現人神の亡骸を呪術で封じて来たのが夏直路の一族、千早家だ。」
「失礼な質問だったらすみません。それがどうして語り継ぐことによって不幸な歴史なんですか。」
矢島は重い息をついて少し考えるように間を置いた。
「夏直路についてはほとんど史料が存在しない。私たちの間で口づてに噂されたことがほとんどだ。よく耳にしたのは、夏直路の次期当主は幼いころに呪術で夏直路から出られなくされるらしい、という話だった。」
当麻が無意識に首を傾げると矢島が頷いた。
「ミシャグチ神の力を宿したままの亡骸を封じるには同じだけの力が必要になる。だから、千早家の当主は幼い頃から何らかの形でミシャグチ神を身に宿していたそうだ。ミシャグチの力を同じ力で封じる。まっとうな手段だ。だから当主は夏直路を出ることができない。出れば封じられたミシャグチの力が祟りとなって諏訪を襲うと言われていたからな。」
当麻は諏訪の山奥で墓所を守る千早樹を想像した。明らかに別人のように思えた。けれども同時に千早樹に間違いないと確信した。公の情報がほとんどないことや、写真からでも伝わってくるどこか危ういまでの神憑った雰囲気はたやすく彼と呪術を結びつけた。
「私がまだ十代のころ、諏訪で流行病が流行った。丁度、御柱の年だった。皆、口を合わせて『不吉な予兆だ』と囁きあった。その年だ。夏直路の当主が消えた、という噂が流れたのは。」
「つまり、それが千早樹だと?」
「先生のお話だと、その千早樹という人物は最低でも六十年は生きていないとおかしいわ。でも千早樹の写真を見る限り二十代にしか見えません。」
当麻も同じ意見だった。さらに言うなら、当主という大役を背負うには最低でも当時、十代に達している必要があるだろう。
「失礼ですが、矢島さんはおいくつですか?」
「数えで七十八だ。」
当麻の脳内のホワイトボードにキイワードといくつもの線が描かれた。千早樹は本来七十代。二十代に見えるのは何らかの呪術的仕掛けのせいだろう。彼の身に宿ったミシャグチの力かもしれない。そしてその力で、伸に関わる何かを行おうとしている……。
「先生、では夏直路当主が消えたあと、封じられたミシャグチの祟りは起きたんですか?」
「いや、起きなかった。これも聞き伝えの話だが、そしてもっとも語り継ぎたくない真実なのだが。」
矢島は少し、緊張した面持ちになった。怯えているようでもあり、堪えているようでもあった。
「当主が消えて一ヶ月もしないうちに夏直路に住む千早家の一族全員が死んだそうだ。何か呪術的なことを行って祟りを封じたのだと聞く。その後、夏直路に足を踏み入れるものはいない。興味を持った者が何度か夏直路に足を運んだが誰一人として帰って来なかった。今でもあの場所は禁忌の場所だ。誰も近付かない。」
瞼を閉じて矢島は大きく息を吐いた。全てを語り終えた、そう背中で物語っていた。
「矢島さん。」
当麻は卒然と立ち上がった。矢島は椅子を回転させてそちらを見た。
「俺、夏直路に行こうと思います。場所を教えて頂けませんか。」
矢島は深い皺が刻まれた小さな目を限界まで開き、当麻を見据えた。
「君は私の話を聞いていたのかね。」
「夏直路が禁忌の場所だとは理解しました。」
一旦、言葉を置いて、当麻は両手を握りしめた。じわりと汗が滲む。
「ですが俺が知りたい千早樹についての正確な情報を得るには、どうしても夏直路に行く必要があると、話を伺って思いました。」
諏訪の闇の歴史も、ミシャグチの祟りも、当麻を足止めする材料にはならなかった。
目を閉じればいつもそこにあるのは、彼のあたたかな笑顔だけだった。笑顔を思い浮かべながら耳を澄ませば、ちょっと癖のある舌足らずのあまやかな声が聞こえてきた。そうするといくつもの細部がよみがえってくる。茶色い髪、海の青を溶かしたような不思議な色の瞳、シャンプーの香り、おいしい食卓を作る器用な細い指。彼に会うまで当麻は自分だけで世界は完結していた。完璧に美しかった。けれども彼を失って初めて、自分の中から本当に大切なものがこぼれ落ちたのだということに気づいた。不完全な世界だ。それを取り戻すために、禁忌の場所に踏み入ることに、怖い、という感情はまったく湧いて来なかった。
「そうか。」
矢島はそれだけ呟き、大きい方の湯呑みに口付けた。五分ほど、ちびちびと酒を飲みながら右手で机の上の本を何度か叩いた。
「いいだろう。君の決意の強さを汲もう。水上君、諏訪の古地図を持って来てくれたまえ。」
一瞬、驚いたような表情を矢島と当麻に見せて、悠花は部屋を出て行った。
「ところで君に聞きたいことがある。」
二人きりになった部屋で、矢島が面白そうに言った。
「本当の専門分野は何かね。」
当麻は盛大に溜め息をついた。この老人は最初から当麻の正体をほとんど見破っていたということだ。
「情報文化と、あとは天文を少し。」
「なるほど、君は現代の呪術者というわけだな。」
矢島は豪快に笑うと、湯呑みの酒を一気に飲み干した。
何が大変だったかというと、諏訪で集めた資料を探し出すことでした(笑)続きはブログにて。

