第47話 北辰結界(2)


 平日の昼下がりだというのに、やはり吉祥寺は人であふれていた。夏の盛りを終えたとはいえ、まだ陽の高い時間帯、人々は日傘やペットボトルを手に、太陽から逃げるように歩調を早めている。伸と当麻はパチンコ店と映画館が入っている五階建てのビルの前の人混みを泳ぐように歩いていた。夏用の麻の薄手のジャケットを羽織った伸が半歩前を歩き、そのあとをラフなTシャツとデニムジーンズの当麻がついてゆく。二人は視線を交わすこともなく無言だった。通りすがりの人間が見れば赤の他人だと思うだろう。中央線の高架下を過ぎ、横断歩道を渡る。バスロータリーを左に見ながらひたすら歩みをすすめる。やがて大きな家電量販店の前を通り過ぎ車通りの多い道路に行きつくと、伸は足を止めた。そのまま、何かを探すように左右の様子を伺っている。
「なあ、伸。」
「どうしたの?」
 振り返らずに伸は当麻に応じた。声が幾分、尖っている。
「そろそろ理由を聞かせてくれたっていいだろう?」
「理由? 何の?」
「だから、この散歩のさ。」
 当麻は勘弁してくれとでもいうように軽く両手をあげた。その仕草を片方の目でちらと見てとって伸は言った。
「理由がなきゃ、当麻は僕に付き合ってくれないのかい?」
「いや、別にそういう意味じゃないんだが。」
「なら、悪いけど、もう少し付き合ってもらえるかな。」
 くるりと体を反転させて、伸は当麻と向き合った。
「……伸、お前。」
 当麻は自分の目を疑い、金縛りにあったように立ちすくんだ。そこには、今まで見てきたどんな伸でもない『伸』が立っていた。姿形は何一つ変わっていない。それなのに人としての存在感は泡の輪郭のようにあやふやで、にもかかわらず彼のまとう気は苛烈といっても過言ではないほど激しかった。いつも凪いでいる穏やかな碧い海色の瞳に浮かぶ光はなく、やさしげな微笑みは完全にまがい物だった。
 微動だにしない当麻に一瞥もくれず伸はその横を通り過ぎて来た道を戻り始めた。
 再び大手家電量販店の前に来る。さきほど通ったときに勧誘のちらしを配ってきた若い男は、再び伸を見、一瞬、怯えるような顔をしてから慌てて体の向きを変えて駅方向から来る客にちらしを配り始めた。二人は横断歩道を渡り小さな店舗の並ぶ小道を通って吉祥寺で一番大きい商店街に出た。空を屋根に覆われた商店街の人混みはさらに息苦しく、それでも伸は歩みを止めることなく今度は駅方向に向かって歩き始めた。チェーン店の靴屋を右に折れて大型商業施設の前を通り過ぎ、車の行き交う吉祥寺通りへ出ると老舗のデパートに突き当たる。狭い歩行者用道路に往来する人をかき分けながら南に下って今度は左に折れる。伸と当麻は一言も会話することなく、行き先を見失い大海原で彷徨う回遊魚のように街を歩き続けた。
「あらためてこう歩くと、まるで迷路みたいだな。この街は。」
 PARCOの角を曲がりながら当麻は何度か周囲の風景を見渡して、半歩前を歩く伸に尋ねるように声をかけた。
「そうだね、迷路というより人の歩みが作る結界なのかもしれないね。」
 伸は立ち止って空を見上げた。人の流れが彼を避けて行く。それはまるで人々が無意識にその存在に近寄るのは危険だと集団で示し合わせているようだった。
「ねえ、当麻。」
「なんだ?」
「君は……」
 音がぷつりと途切れた。
「おい、伸?」
 当麻は空を仰ぐ伸の前にまわりこんだ。上半身を覆い隠すジャケットにつつまれてもなお繊細な体のつくりを描く線が周りの風景ににじみ出るように震えて、全身の輪郭をあいまいにしていた。宙空を見つめる双眸は半眼で、もはや空の青を見てはいなかった。いや、現実すら見えていないように時折、瞼が痙攣している。
「伸!」
 条件反射で当麻の体が動いた。動き方を忘れた伸のうなじを手のひらで撫でて頭を下ろすように促す。ふっと伸の首筋から力が抜けたのを確認してから、当麻は小さな頭を自分の左肩に引き寄せる。二人の距離がゼロになる。ひやりとした伸の体温がジャケットごしに伝わった。
「大丈夫か?」
 いまだごくわずかに震えている体がぴくりと大きく跳ねて、伸の頭がゆっくりと当麻の顔のほうに動いた。瞬きしながら音にならない言葉を唇で紡ぐ。目のふちにじわりと冷たい涙がふくれあがり頬を伝い落ちた。
「どこか辛いのか?」
 重ねられた質問に伸はまた、からっぽの言葉で応える。それから目に見えない大きな力を振りほどくように上半身を左右に何度もよじって、当麻から離れた。わずかな仕草だったが、伸の息は階段を駆け上ったあとのように荒く乱れていた。
「伸……」
「ごめん、ちょっと厚着しすぎたのかもしれない。軽い目眩だよ。」
 言いながら伸は怯えるように左足を一歩、後ろにずらして顎をひき、当麻と距離をとった。
 砂漠のように乾いた沈黙が二人をのみこむ。当麻は舌先に苦いものを感じながらようやく口を開いた。
「この近くによく行く喫茶店があるんだ。ちょっとそこで休もう。熱中症にでもなったら、明日に響くからな。」
 ようやく息を整えた伸は、抑揚を欠いた声で「うん」と頷いた。



 中道通りにはいって一番最初の脇道を右に曲がると数件の小さな店が軒を連ねていた。表通りの人の波が嘘のように静かだった。
 二人が腰を落ち着けたのは硝子張りの喫茶店だった。夏の日射しをたっぷりと取り入れた明るい店内に先客は三組だけで、それでも客席の半分は埋まっていた。伸と当麻は光を避けるように店の一番奥のテーブル席に座った。
 メニューを眺め終えたころに、二人と同じくらいの年頃の濃い茶色のカフェエプロンをつけた男性従業員がオーダーを取りにきた。当麻がアメリカンコーヒーを、伸がミネラルウォーターを頼むと、従業員は丁寧に復唱してからカウンターに戻った。
 伸は正面の当麻を見ようとはせず、硝子のほうを向いて他の客の様子を眺めていた。六十絡みの年配の夫婦が夏の光を浴びて静かに語らっている。
「もう大丈夫なのか?」
「ああ、うん。」
 伸はようやく当麻のほうを向いて、視線を斜にずらしながら答えた。
「ちょっとまだ、暑いかも。」
 手の甲を額にあてて、何かを考えるように数秒、瞼を閉じてから、伸はジャケットを脱いで隣の椅子の背もたれにかけた。
 やがて先ほどの従業員がやってきて伸と当麻の前にそれぞれ飲み物を置くと、伸の隣の席のジャケットを指した。
「こちら、奥でお預かりいたしましょうか?」
「いえ、結構です。どうもお気遣いありがとうございます。」
 伸は丁寧に断って目礼をする。男性従業員は十五度に腰を折って「ごゆっくりどうぞ」と言い残して立ち去った。
「頼めばよかったのに。」
「いいよ。身体が冷めて寒くなったらまた羽織るかもしれないし。ここ、空調がよく効いているから。」
 当麻の目が探るようにすっと細められる。
「何? 当麻。」
「伸、お前、本当に『暑い』のか?」
「え? 夏だから外は暑かったに決まってるだろう?」
「……そうか。」
 低い声で頷いて、当麻は先ほどの伸の身体のひやりとした感触を皮膚で思い出していた。無意識に零していたであろう涙の理由と一緒に。
 伸はストローに口付けて喉を潤す。PARCOの前からずっと青ざめていた顔にほんの少しだけ血の色が戻った。
「今頃、純たち、何話してるのかな。」
「そりゃあ、まあ、明日のことだろうな。いや、明日以降の話のほうが重要か。」
「明日以降、ね。」
 含みのある言い方で伸は静かに繰り返す。
「そう、明日以降が問題なんだよね。当麻、君だって。」
「俺……?」 
 コーヒーカップに伸ばしかけた手を当麻は止めた。
「君は明日以降、つまり『北辰結界』の祭祀が終わったあと、どうするつもりなんだい?」
「え、そりゃあ……」
 言い止して、当麻は頭を掻いた。
「すまん。目の前のことで頭がいっぱいであんまり考えてなかった。」
「言っておくけど、僕たちはずっとゲストハウスに居候できるわけじゃないんだよ。」
「まあ、そうだよな。俺はとりあえず三鷹に寝場所はあるわけだからそこらへんは問題ないと思うが。」
「そう。その寝場所で『眠れる』の? 抱き枕がなくても、薬を飲まなくても、もう一人で眠れるようになった?」
 静寂を煮詰めて音にしたような伸のひそかな問いに、当麻は鈍器で後頭部を殴られたような衝撃を受けて息を止めた。
「僕はね。」
 伸は一旦、言葉を区切って宙空に視線を泳がせた。
「旅に出ようと思ってる。少し長めの旅にね。」
「だって伸、お前仕事あるだろ?」
「半月前に辞表を送ったよ。ちゃんと受理されたから仕事のことは問題はないんだ。」
「なんでそんな唐突に……。休職でよかったんじゃないのか? 確かお前、副施設長だったろ? それなら多少無理はきいただろ。」
「そうかもしれないね。でも、そういう問題じゃないから。」
 伸は当麻の意見を否定も肯定もせず、音にするに値しないがらくたの言葉のように扱ってから平板な声で突き放した。そこには冷たいという温度すら存在しない。当麻は息を詰めて伸を凝視する。睫が小刻みに震えて口角は少し、上がっていた。感情がまったく読めない奇妙な顔付きだった。
「当麻は結界の維持条件についてどうするかきちんと考えてる?」
「血の結界……直系を残せってやつか?」
「そう。」
 下唇を噛んでコーヒーカップに視線を落とし、当麻は返事に迷った。その間に伸はストローで氷をかき回しながらグラスの底の誰かと見つめ合うように透きとおった水の中を覗き込んでいた。
「君は見た目は悪くないんだし、その気になればちゃんとお金も稼げるだろう? それなりに社会にでれば自分で探さなくてもきっと相手から声がかかるよ。そういう繰り返しの中で、きっと長い時間を一緒に過ごしたいって思える相手に出会えるはずだよ。」
「……悪いが、そういうのにはあんまり興味がないな。男にしろ女にしろ、俺みたいな人間は家庭には向かないんだよ。両親が証明してる。」
「君ねえ、小学生じゃないんだから。『羽柴当麻』という存在は御両親がいなければこの世に生を受けることはなかった、そうだろう? ならその生の連鎖を繋いでゆくという義務を果たすことはもっともなことだとは思わないかい?」
 当麻は前のめりの姿勢からぐっと上体をそらし背もたれにあずけて、腕を組んだ。
「何度もいうが、俺に家庭は向かない。親になれる気もないしなる気もない。」
「当麻!」
「そこで俺はあの条件をクリアする方法を考えた。例えば、俺の精子で子どもを生んでもらって、成人するまで養育費など全て支払うという関係になる。ほかにも、『血』さえあればいいのだから、もう少し医療技術が発達すれば俺の『血』が完全に質を損なわれることなく半永久的に保存できる可能性も少なくない。だったら問題ないだろう?」
「どうして君は!」
 声を荒げて伸は立ち上がった。両手でテーブルを叩きつけた音が静かな店内に響く。当麻を見据え、今日、初めて、むき出しの感情を露にした。
「誰もが羨むその頭脳で、どうしてそういう、ひねくれた考え方をするんだ!」
「その言葉、お前にそのまんま返すよ。」
 背もたれから体を起こした当麻は右腕を伸ばして、テーブルの縁を掴む伸の左手に自分の手のひらを重ねた。伸の目は瞬きを忘れ、身体は硬直する。
「お前の手だって特別仕様じゃないか。それで人の心が読めちまうなんて、俺なんかよりも羨ましがられるぞ。」
「……別にこれは特殊な能力でもないよ。そんなに珍しことじゃない。」
「そうか? その手で毎晩、俺に触れているお前は、俺よりも『俺のこと』を知っているはずだよな? 俺が名前を付けられなくて持て余している気持ちもわかっているんだろ? 今、こうやって触れている間にもお前の中に俺の感情とやらが流れ込んでいるんだろう?」
 伸は顔を横に背け当麻の言葉から逃げようとした。しかし手を強く握られて、意識は無理矢理、当麻の方へ引き摺られる。
「悪い、当麻。手を離してくれないか。」
「やっぱりわかってて言ってるんだろう? 俺が結婚して子どもを持つ気になれないのは、あの『血』の結界に納得しないのは、今はお前のことしか頭にないからなんだよ。」
 真摯な言葉に殴られたように伸は深くうなだれた。
 当麻の手は伸から離れない。
 冷えた鉛のような沈黙が過ぎる。
 やがて、伸は顔をあげて必死に涙を堪えながら口の端だけでいびつに微笑んだ。
「ごめん、ちょっと外で気分転換してくる。」
 当麻の手から逃れ、伸は早足に当麻の隣を通り過ぎると店の外へ出た。
 残された当麻は再び背もたれに背を預けて、何かを考えるように宙の一点をじっと見つめていた。それから視線を硝子張りの向こうの風景に向ける。店の入り口に植え込まれた大人の肩丈くらいの木と並んで小さな伸の背中が見えた。一組みの親子連れと、二組のカップルが彼の前を通り過ぎた。相変わらず、晩夏の日射しは力強く吉祥寺の裏道に降り注いでいる。また暑さにやられないだろうか、そんな不安が当麻の胸元にせりあがってきたとき、すぐそばで物音がした。
「ああ、申し訳ない。」
 我に返って当麻は声のほうを向いた。六十絡みの短いシルバーグレイの頭髪の男性が伸の麻のジャケットを手に埃を払うような仕草をしている。
「会計をすませようとしてね、通ろうとしたときに掠って落としてしまったんだ。連れの方の物だね。謝っておいてくれないだろうか。」
 温かみのある品のよい笑顔を当麻に向け、男はジャケットを当麻に手渡した。
「ありがとうございます。」
 当麻はジャケットを受けとり元の場所に戻そうとしてその手を止めた。薄い生地のジャケットの内ポケットのあたりに細く硬いものがあった。鉛筆を平べったく伸ばして厚みを付け足した感触だ。
「なんだ?」 
 無意識に呟いて『それ』が何なのかを確認すべきかどうか迷った瞬間、店のドアが開く音がして伸がこちらに戻ってくるのが見えた。当麻は諦めてジャケットを椅子にかけた。 
 テーブルに帰って来た伸は、椅子に座らず立ったまま当麻に言った。
「申し訳ないけど、まだ付き合ってもらわなきゃいけない場所があるんだ。そろそろ店を出ようか。」
 ジャケットを羽織りながらくるりと踵を返し店の出口へと向かう。当麻は店の奥で会計をすませてそのあとを追った。



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