北辰結界(2)
当麻が『世界の星辰信仰史と呪術体系論』というずいぶんと長いタイトルの本を読み終えたのはもう明け方に近い朝の四時過ぎだった。それからゆっくりと味わうようにコーヒーを一杯飲んだあと寝室へ向かった。眠っている伸を起こさないようにベッドに潜り込んだところまでは覚えていたがそこで記憶はぷっつりと途切れた。だから、突然、伸の声が頭の上から降ってきた瞬間、当麻は反射的に飛び起きて両腕を動かし、誰もいない胸の中を確かめた。
「……ま。当麻!」
「あ、悪い、伸。起こしちまったか?」
「何、言ってるんだよ? 僕はもう四時間も前から起きてるんだけどね。」
腕を組み、言葉の端々に刺を含ませて伸は溜め息をついた。
「ついでにいうと、君を起こしにきたのはこれで三度目だよ。」
「三度目……? ええと今何時だ?」
起き抜けで頭が働かないのか、長い欠伸をしながら目をこすって当麻が訊く。伸は唇を引き結び、それから瞬きするほどの短い間、寝室に差し込む清々しい朝の光に消え入りそうな弱々しい微笑を浮かべた。笑みをすぐ消して硬い口調で応える。
「九時。いい加減起きたらどうだい。」
「あ……俺、今朝、寝たの五時前だったんだよ。もうちょっと寝かせてくれ。朝はいらないから。」
当麻はそういうなり、薄い掛布団の中に潜り込む。
ぴり、と空気が裂けた。
伸は躊躇うことなくベッドの上の自分の枕を手に取ると、感情を削ぎ落とした表情で当麻の潜り込んだ掛布団をしばし見つめてから、手にした枕をその盛り上がった部分に叩き付ける。静かな朝の寝室にパシッと威勢のいい音が響いた。
「……って、伸!! なんだよっ!」
勢い良く起き上がった当麻が見たのは、すでに寝室のドアを開けて出て行こうとする伸の背中だった。振り返らずに一歩、歩みを止めて伸は言う。
「君を起こすのはこれでもう最後なんだから……。いい加減に起きてきなよ。」
朝日を受けて伸びた薄い影が震えている。
「おい、伸、それ、一体どういう……」
当麻の言葉はドアの閉まる音にかき消された。
浴室で顔を洗い冷たい水ですっきりと目を覚ました当麻は、いつも通りリビングに向かう。漂ってくる煮物や味噌汁の匂いに腹は空腹を訴えているが、頭の中は先ほどの伸の言葉についてもがくように考えていた。
「なあ、伸、さっきの……」
言いながらリビングに入った当麻は、目の前の異様な光景に呆気にとられその場に立ち尽くした。
テーブルの上の白い大きな丸皿に薄茶色のいなり寿司が山のように積まれている。白い壁と薄い緑のカーテンに彩られた洋室内に、一つ一つ丁寧に握られたいなり寿司が1ミリの隙間もなく供え物のように七段、円錐形に積まれて、圧倒的な異物感を醸し出していた。いなり寿司の山はテーブル正面に置かれており、目の前にはクロがどんと座り腕を組み、姿格好に似合わない難しい顔でいなり寿司の山を見つめている。テーブルには他にも筑前煮やだし巻き卵など手の込んだ料理が並べられていたが、いなり寿司の山に圧倒されて当麻の視界に入らない。
「おいおい、なんだこりゃ。」
当麻はいなり寿司の山と、クロと、すでにテーブルに着いている仲間に視線を走らせた。
「クロの希望だとよ。前にいなり寿司を渡したときは『俺はお稲荷さんじゃない』とか言ってたくせにな。やっぱ狐だったんだな、クロは。」
目で『早く喰わせろ』と訴えている秀が笑い話のようにそう言うと、クロが口元をへの字に曲げて答えた。
「コンビニで買ったいなり寿司などまずくて俺の口に入るか。俺は霊獣なんだぞ? それなりに手順を踏んだ清浄なものしか食べられないんだ。」
「そうかあ? だけどよ、お前、たまに俺らが買ってきたマックのポテト、喜んで食ってたよな。」
秀がにやにやと笑う。クロはふいと顔を逸らせて伸の方を見た。
「はいはい、秀。クロにはクロの事情があるんだから、あまりいじわるしないこと。」
「そうだぞ、秀。白炎だってたまには俺と一緒にポテチを食うこともあるんだぞ。」
「なんだよそれ。」
秀が肩をあげて、勘弁してくれよとポーズで示す。
「あー、懐かしいな。俺、割と好きなんだよな、おいなりさん。」
クロの後ろを通り、すでに席に着いている伸の横から腕を伸ばしていなり寿司をつまもうとした当麻の手が強く叩き落とされた。
「なんだよ、伸。けちだな。一口くらいいいだろ。」
「だめだね、当麻。これはクロが最初に食べるんだから。はい、君はちゃんと席に着く。」
「はいはい。」
当麻が席に着いて全員で「いただきます」と手を合わせてから、まず、クロがいなり寿司の山のてっぺんのひとつをとって食べた。続けて秀と当麻が寿司に手を出そうとしたところを、またも伸に止められる。二人の文句など右から左に聞き流して、伸はクロに尋ねた。
「どう? 大丈夫だった?」
「うん、おいしい。ちゃんと『はいってる』。」
「良かった。」
安堵の息をつき、伸は秀が差し出していた皿を受けとった。
「大切に食べるんだよ? 秀。」
薄茶色の山から六つ、いなり寿司を取り分けて秀に渡す。
「なるほど、そういうわけか。」
山の正体を透かし見るように目を細め、征士はその視線をまっすぐにクロの異形の黒い瞳に向けた。
「クロ、感謝する。」
「やはりお前は分かるのか。」
征士はほんの少し俯いて二、三度、首を左右に振ったあと、遼の皿に手を伸ばした。
「征士?」
「遼、これはいつもの『朝食』ではないからな。ありがたく頂こう。」
征士は遼の皿にいなり寿司を取り分けながら言った。
「クロ、私はお前とあまり性(たち)が合わなかったが出会えて嬉しく思う。ありがとう。」
呆気にとられてぽかんと幼い顔付きになったクロが、瞼を何度か瞬きをしてからきゅっと唇を噛みしめた。
「お……俺もお前のことは嫌いじゃなかったぞ。むしろ、お前が一番、この中では役に立った。そして多分、これからも役に立つ。」
「なあ、征士。何の話してるんだ?」
目の前にいなり寿司の積まれた皿をまじまじと眺めてから、遼は両隣に座る征士とクロを首を回して交互に見た。
「遼。お前は何があっても皆の真ん中だ。だから、迷わずに生きろ。俺はお前のことを結構、気に入ってたぞ。」
「クロ、お前、何言ってんだ? まるで別れの前みたいに……」
「おい。俺のは?」
当麻が伸に皿を突き出して遼の言葉を遮った。
「ああ、ごめん。忘れてた。」
「忘れてたってのはひどいだろう、伸。」
つり上がるはずのない垂れた目をつり上げて当麻が低く唸る。伸は当麻の機嫌など無視してさっさと皿を受けとると、手早くいなり寿司を六つ取り分けて当麻の前に置いた。
「九月に入ってから、伸、お前、当麻に冷たくないか?」
すでに皿のいなり寿司を平らげている秀が訊く。
「そう?」
「なんつーか、前みたいに甲斐甲斐しく世話焼かなくなったなって思ってさ。」
「気のせいだよ。第一、当麻はもう立派な大人なんだから僕が世話を焼く必要もないだろ?」
「なんだあ? 当麻に何かされたのか?」
にやりと声を出さずに笑う秀に、伸は冷たい一瞥を投げかける。
「秀、もうご飯、いらないんだね。」
「おいおい、ちょっと待て。冗談だよ、冗談。」
伸の手が秀の皿を本気で下げようとする。秀は慌てて自分の取り皿を両腕で囲い込んだ。
「秀。」
「あ? どうした、クロ。」
「お前は皿だ。」
「は?」
自分の皿をじっと眺めてから、言葉の意味を確かめるように秀はクロを見た。縦長の黒い黒い一筋の糸のような瞳孔がきつく光る。
「皆を受け止める、大きな皿だ。決して動かない。そのままでいなければならない。それがお前の役目だ。俺はお前に構ってもらうのはわりと楽しかったぞ。永い生の中で子どものように遊んでもらうことがあるとは思わなかったからな。」
「何言ってんだ、クロ。一段落したらまたキャッチボールでもなんでもやってやるからさ。そんな妙なこと言い出すなよ。」
「また、な。」
大人びた表情を浮かべていたクロの眼差しがほんの少し緩む。姿に相応しいあどけない顔付きはすぐに消えて、またどこか厳しさを含んだ顔つきに戻ると、今度は当麻を見た。
「お前は……」
クロはぱくり、といなり寿司にかじりついた。
「なんだ?」
険しさを帯びていたクロの顔に、薄い薄い霞をさらに水で溶かしたくらいに繊細な哀しみが広がる。当麻から顔を逸らして緑のカーテンに視線を遣った。
「……嫌いだ。」
「気があうな。俺もだ。」
「だが、お前は途をあやまたない。常に正しくあろうとする。考え、努力をする。だから伸は……」
緑のカーテンがなびいた。夏の朝の風がさあっとリビングを吹き抜け、空気の膜が伸と当麻を時の間、引き裂いた。
「クロ。」
やわらかな声が風の膜に響く。クロは声の主を見た。透明な笑顔だった。それは絶望と希望の間にあるものをすべてろ過して何も残っていない純水のような笑顔だ。
「いいんだよ、クロ。彼は。」
伸はそう言って、自分もいなり寿司を口にした。
「うん、自分で言うのもなんだけれど、おいしく出来てるね。母さん直伝なんだ。」
隣でだし巻き卵をつつきながら「おい、何の話だよ」と文句を言う当麻の前をよぎって、秀が自分の取り皿にいなり寿司を九つ、取り分ける。
「へえ、薄味だけどすごい美味い。さすが毛利家直伝ってやつだよな。」
ぱくりと一口でほおばって、秀は呑み込むように食べた。とても味わっているとは思えない食べっぷりだが、料理を稼業としているだけはある。
「ところでさ、今日、どうする?」
麦茶をすすりながら遼が尋ねる。四人が一斉に彼を見た。
「純はいつでもいいって言ってたけど、明日が本番だろ? あまり遅くなるのもまずいよな?」
北辰結界の祭祀の前に一度会って話しておきたいと純から連絡があったのは、八月の最終日だった。ゲストハウスに居候している五人のスケジュールはいつも空いていたのだが、大学生の純はサークル活動やバイトに追われて、結局、祭祀の前日しか都合がつかなかった。それでも、今日は丸一日空いているからいつでも家に来て欲しい、と言われていたのだ。
「町田の純の家まで一時間くらいだろ? これ食べ終えて、昼過ぎに家でて一時くらいに行けばいいんじゃないのか? 多分、純も不安だろうし話したいことはたくさんあるだろうからよ。そんでまあ、夕方くらいに切り上げて帰ってくれば時間的にも十分じゃねえか?」
「そうだな。私もそれがいいと思う。」
征士が頷いて箸を置く。グラスに手を伸ばして麦茶を口に運んだ。
「あ、当麻と僕はパスね。」
同じく麦茶をすすりながら伸が言った。
「は?」
当麻が片眉をつり上げるのと残りの三人が驚きの声を思わず呑み込んでしまうのは同時だった。
「当麻と僕は明日のことで、ちょっと用事があるんだ。」
「おい、伸。俺、そんなこと聞いてないぞ。」
「今、言った。」
当麻を見ずに伸は答えて、それから征士に顔を向けた。
「というわけで、そっちはよろしくね。会えなくてごめんって純にも謝っておいてもらえるかな。」
「……ふむ。伸がそういうのであれば。」
「伸、何勝手に……」
そこまで言葉に出して、当麻の声帯は凍り付いた。伸の首筋のあたりをグレーのハイネックの下からもぞりと細いみみずのようなものが動いている。本人は気にする風でもなく、征士と話している。その横顔は決して凪いではいなかった。化石の海のように時間を止めていた。
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