第47話 北辰結界(1)




 九月に入って早々、清美の携帯に千方から連絡があった。千早の容態が芳しくないという。電話越しの千方の声は相変わらず平板で感情の色の欠片も伺えなかったが、清美はその声の向こうに小さな引っかかりを感じた。女の勘だ。第一、千早ではなく千方から連絡があること自体、よほど逼迫した状況だと清美は判断して、翌日、夫の会社の友人との会食をキャンセルして麻布の千早宅に向かった。
「……どうしたのよ、千早。」
 千早宅を訪れた清美は、花月の案内でいつもの居間ではなく千早の寝室に通された。閉ざされた障子の白い和紙を通した薄明かりだけの十畳の部屋の真ん中に布団がのべられて千早が横たわっている。うっすらと額に汗を浮かべた千早は悪夢でも見ているように、時折、小さな声で言葉にならない呻き声をあげていた。
「清美さん、お呼びたてして申し訳ありません。」
 布団の側に端座する黒いスーツの千方が振り向きもせずに言った。手元には銀色の洗面器があり、白いタオルが掛けられている。
「今月に入ってから、陰陽寮の方が動いたようです。」
「動いた? 何をしたのかしら?」
「北辰結界の祭祀を前に、都内に大勢の術者が入り込んで浄化作業に取りかかっています。」
「そんなことができる術者がまだいたのね。」
 千方の斜うしろに、清美もまた端座して千早の様子を伺う。意識はなさそうだった。細く短い息が繰り返されその度に夏用の薄い掛け布団が上下する。いつもは陶器のように白く美しい貌は、血の色を失い黄土色に変色していた。
「それだけじゃありませんよ。」
 薄暗い寝室に似つかわしくない軽やかな声が割って入った。花月が柱に寄りかかって無表情に三人の様子を眺めている。
「全国の名のある神社が先日から九月九日に向けて祈祷の準備を始めましたよ。」
「全国の神社がですって? まさか陰陽寮が神社本庁を動かしたとでも? ありえないんじゃない?」
 清美が振り返って花月に問う。少年は口の端だけで笑って続けた。
「まあ過去にどんな因縁があれ、目的が一緒なら動かざるを得ないんじゃあないかな。橋渡しをする人間もいるでしょうし。」
「目的、ね。」
 呟くように繰り返して、清美は再び千早に目を移した。
「それで、千早の具合はどうなの?」
「泡嶋さまの存在を知られないようにこの屋敷の結界を維持しているだけで、呪力が限界に達しています。これ以上、負荷がかかれば……」
 千方はそこで言葉を切ってぴくりと肩を震わせた。ゆっくりと、何かを呟いている千早の唇を凝視する。左手を枕元について、千方は千早の口元に耳を傾けた。
「千早さま?」
「……さん……」
 呻く声ではない。失ったものを必死で呼び戻そうとするような切迫した声だ。千方の貌にわずかな驚きの色が広がり、再び居住まいを質した。
「にいさん、にいさん……」
 ほのかに幼さを含んだ千早のか細い声が室内に響く。千方と清美は顔を合わせて互いの言葉を求めようとするが見つからない。ただ花月だけが目を細めて芝居でも見るように三人を伺っていた。
 息を絞るような千早の言葉は続き、掛け布団の隙間から右手が伸ばされた。握ったり開いたりして宙を掴んでいる。名前を呼んでいる相手に差し伸ばされているのは明らかだった。
「千早さま。」
 千方が零した。いつもの平板な声に、微量の人間らしい困ったような翳りが混じっていた。
「え……千方?」
「清美さん。」
 千方が天井を仰ぐように振り返る。その吊り気味の目に、三日月の端ほどの魂の兆しが宿っているのを見てとって清美は思わず手を口に当てた。
「こういう時、『千方』さまなら、千早さまのお兄様ならどうされたでしょう。」
「『千方さまなら』って。千方はあなたじゃ……」
「ええ、そうです。千方は私です。ですが最近、千早さまのくださった『千方さま』の記憶と私の記憶が曖昧になって分からなくなるのです。」
 そう言って、千方は自分の手をじっと見つめた。
「私には今、千早さまの手を取る資格はあるのでしょうか。千早さまの求めていらっしゃるのは、私ではなくお亡くなりになった『千方さま』ではないでしょうか。」
 深い湖の底から湧き出たような言葉に、清美の中に潜む鬼女の血が震えた。
「そう思うようになったのは、いつからなの?」
「おそらく、千早さまに守屋の山の霊力をお渡しするようになってからでしょうか。」
 清美は瞼を伏せ、しばらく考えてから千方の手を取って、いまだ宙を掴む千早の手を握らせた。千方が不思議そうな顔を清美に向ける。鬼女はにっこりと哀しげに笑って千方に言い聞かせる。
「いい? 千方。愛おしいと思う者の手を離してはだめよ。自分で自分のことを信じられなくても、愛おしいという気持ちだけは疑ってはだめ。その気持ちがあなたを本当の『千方』にするのだから。」



 唐紅の衣が視界を過った。
 気づくと、亜麻色の髪の少年は森の中にいた。ただの森ではなかった。一本一本の木が異様に大きい。はり出した幾筋もの根は勾配のある大地をしっかりと掴んでいる。太い幹は何人の大人が集まっても囲めそうになかった。はり出した枝葉は空を覆い隠し、森の中は昼だというのにひやりと薄暗い。
 純白の袍をまとった少年は誰かに呼ばれるように森の奥に分け入った。鳥の声も聞こえない。ただ、生まれたての水が勢い良く流れる沢の音だけが響いている。
 一本の木の前で、少年は立ち止まる。
 その木は周囲の木々の中でも際立って大きかった。幹は天を貫き根は黄泉へと繋がっているかと思わせるほどだ。木の中央を裂くように大きな樹洞がある。ぽっかりと空いた空洞の中はすべてから閉ざされて暗い。
「ねえ、君。」
 幼い声で少年が洞の中に声をかけた。返事はない。
「どうしてこんなところにいるの?」
 しばらくして、かさりと落ち葉を踏む音が木の洞の中から聞こえた。少年と同じくらいの背格好の少年が洞の暗がりの中から現れる。まとう着物は少年と同じ純白だったが、少し形が違っていた。卵形の顔は日本人形のように作り物めいてわずかな光にその造形美を浮かび上がらせている。腰まである銀鼠色の髪は暗い洞の中でやわらかな輝きを帯びていた。
「お前は誰だ?」
 洞の中の少年が尋ねた。
「僕は……」
 言いよどんで、亜麻色の髪の少年は上半身を捻って振り返る。遥か遠くに視線を遣ってその先に指をさした。
「海から来たんだ。」
「海?」
 洞の中の少年が小さく首を傾げて繰り返した。海という単語に心当たりがないらしい。
「ねえ、君はずっとここにいるの?」
 少年の質問に洞の中の少年は頷いた。
「どうして?」
「ミシャグチの神様に願いを聞き届けてもらうためだ。」
「願い? それは大切なもの?」
「そうだ。世界を変えてでも叶えてもらわなきゃならない。」
 洞の中の少年は、一歩前に足を出して洞の外に出る。ぼんやりとしか姿の見えなかった少年の姿が、薄明るい森の中にふわりと舞い降りるように浮かび上がる。
「君、とても綺麗だ。森の神様みたいだね。」
「そうだ。僕は人間じゃない。神様だ。」
「神様なのに何を願うの? 自分で叶えられないことがあるの?」
「ある。」
 銀鼠の髪の少年はすっと目を細めて緑の闇の奥を見透かした。
「人間が僕の大切な兄さんを殺したんだ。だから、兄さんを取り戻す。そのためには僕だけの力じゃ足りないから、ミシャグチ様の力を借りるんだ。」
「ねえ、それって死んだ人を生き返らせるってこと?」
 あどけない口調で亜麻色の髪の少年が尋ねる。木の洞から出てきた少年は底冷えする目で相手を見て頷いた。
「だめだよ。死んだ人間は生き返らない。それがこの世界の理だから。」
「それは人間が勝手に作った掟だろう? 僕はそんな掟に従わない。掟を変えるためにここにいるんだ。」
 最後の一言に力を込めて言うと、銀鼠の髪の少年は身を翻し木の洞の中に戻った。
「ねえ、だめだよ。」
 亜麻色の髪の少年が、泣きそうな顔で木の洞の奥を見つめる。
「君、そっちはだめだよ。帰って来てよ。こっちに出ておいでよ!」
 うっすらと目元に涙を溜めて泣きじゃくりながら、少年は洞の中に手を伸ばした。



 口に運んだマグカップのコーヒーの最後の一口を飲み干して当麻は思い起こしたように我に返った。リビングの時計を見る。午前二時四十五分。ずいぶん深い時間だ。
 『北辰結界』の祭儀を三日後に控え、いまだ陰陽寮に対する不信感を拭えない当麻は、ナスティの大学の蔵書のうち『北辰結界』と関係のある「星辰信仰」について研究された論文の掲載されている文献を全て借り出して『北辰結界』についての手がかりを探っていた。
「結局、本当のことはあいつらにしか分からないってことか。」
 ぐいと背伸びをして溜め息まじりにぼやく。ずいぶんと調べはしたが、期待した成果は得られなかった。そうなると成り行き上、陰陽寮の言いなりになるしかない。当麻の脳裏に洞真法人の言葉が蘇る。陰陽寮ではなく幸頭井との密約だと彼は言い残した。陰陽寮は決して一枚岩ではない。それだけは事実だ。ならば、本当に祭儀は無事に行われるのだろうか?
 当麻はテーブルの上に広げた文献を手早く片付けて、ノートパソコンを閉じる。それらをまとめて片手で持つとリビングを出た。
 音を潜めて寝室に入る。室内はほのかな間接照明に照らされて黄昏時の水底のようだった。当麻は机の上に文献とパソコンを積み上げるとベットに近寄る。伸は熟睡しているらしく当麻の気配に全く気づく気配はない。眠りの浅い伸にしては珍しいことだと当麻は思い、ベットの端に腰を降ろして上半身を伸の方へ傾けた。
 伸の寝顔は何度見ても実年齢よりも若いと当麻はいつも感じる。むしろ、十年前からひとつも変わっていないのではないかと思わせるほど、無垢で無防備だ。けれどもここ最近の伸は、寝顔に残る幼さとは裏腹に、全身を隙なく包む衣服でどんな魔法でも理論でも解けないような大きくて重い秘密を隠してしまっている。小柄な身体ではその秘密を背負って立っているだけで辛いのではないかと当麻がいくら心配しても、伸はやんわりと微笑み『大丈夫だよ』と身振りで示してさりげなく当麻と距離をとる。その態度を当麻は決して責めようとも問い質そうとも思わなかった。彼は人の感情に対して真直ぐに向き合い、それを受け止めるために、問い詰められると静かに笑いながら心だけ壊れてしまうのだ。だから当麻は、伸がハイネックを着ていても、そして時折、そのうなじに黒いミミズ腫れのようなものが浮き上がっていても、見知らぬふりをした。夜、抱き締める身体が以前とは違ってひどく冷たくても温めるように腕を伸ばした。それが互いのためなのだと必死で言い聞かせた。理性的に振る舞えと。伸の全てを知りたいなどという本音は見せてはいけないと。自分にその資格はまだないのだと。
 思いに耽っている当麻の視線の先で、伸の唇が音もなく震えた。
「伸?」
 思わず、当麻は声をかける。
 伸は当麻に応えない。夢遊病者のようにすっと黄昏色の虚空に腕を伸ばした。
「……だめだよ。」
 今度ははっきりとした言葉だった。
「伸? 何の夢を見ている?」
 当麻はベッドに乗り上がり、伸の顔を真上から眺め降ろした。静かにたゆたう黄昏色の水底にベッドの軋む音が大きく反響して、当麻の影が伸の寝顔の上に落ちる。けれども伸は起きる気配はない。まるで当麻と一枚の硝子を隔てた別の現実にいるように、相変わらず手で宙を掴んだまま、深い眠りの淵にいる。伸ばされた手のひらが何度か物を掴む仕草をした。
「こっちに出ておいでよ……」
 弱々しい寝言に当麻の眉間に皺が寄る。虚空に伸ばされた腕を掴み、一度、自分の胸元に寄せてから掛布団の中に戻した。
 目を閉じて、瞼の裏にこれまで自分に向けられてきたいくつもの伸の表情を思い出す。
 ちょっとしたスキンシップに本気に怒り切れない顔、公園に差し込む光を浴びて「気持ちいいね」と言いながら喜ぶ顔、根を詰めて文献を読んでいるといつの間にか向けられている心配そうな顔。伸の表情は一見、豊かに見えるけれど内側はいつも凪いでいる。荒ぶることのない常春の海を思わせる。そんな伸の海に、今は冬の氷雨のような冷たい水が湧き出している。今までと変わらず穏やかに笑っているのに一日ごとに距離が遠くなる。ゆっくりと扉が閉じられて、その向こうへ伸は姿を隠そうとしている。
「なあ、伸。」
 当麻は右手で伸の頬から顎へ手のひらを滑らせた。
「確かに今の俺じゃ、頼りにならないかもしれないけどな。」
 顎から離した手で、やわらかな猫毛の感触を味わうように弄ぶ。
「お前が俺に何を隠していたとしても、人でなくなったとしても、俺はお前を守るから。」
 当麻はゆるやかに上半身を下ろして、伸の胸の上に覆い被さる。黄昏色の水底がたゆたうように揺れた。 
「せめて夢の中くらい、俺だけを見てくれ。」
 伸の項に顔を埋めて当麻は壊れそうなほど脆い声で呟いた。

オリジナル部分が長くてすみません! でもどうしても外せないエピソードだったので書かせて頂きました。読んでくださってありがとうございます。呟きの続きはブログで。