第47話 北辰結界(1)

 北辰結界(1)



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 昭和十年代、諏訪。
 五歳の千早は、藁で編んだ敷物に体をくるんで数千年の闇を閉じ込めた竪穴式の土の牢で横たわっていた。すべての感覚はあいまいだった。御室(みむろ)と呼ばれる土牢には一条の光も射さず真の闇が息苦しいほどに牢の中を圧している。そこに見えるものはなかった。時折、藁の上を大きな赤蛇の這う音が水面の膜を通したように聞こえる。赤蛇は千早と一緒に土牢へ閉じ込められた神の依代だ。千早の両親はこの神のことを「ミシャグチ様」と呼んでいた。四ヶ月前に御室に入れられたときにはむせるほど肺を満たしていた守屋山の土の匂いも今は慣れてしまい全く感じない。敷物の上を這った赤蛇が千早のまだやわらかい頬の上を通った。ぴくり、と一度頬が痙攣して、それもすぐに何事もなかったかのように虚ろな顔付きに戻る。
 千早の意識も曖昧模糊としていた。物心がついたときからこの「籠りの神事」のために、十一月の終わりに御室に閉じ込められ、春の訪れとともに御室から解放された。その間、何人たりとも御室に近付いてはならなかった。御室の中では時間が止まっているのか、腹が空いたり排泄をもよおしたりすることはない。そのことを両親に尋ねると「それはミシャグチ様と同じ時間を過ごしているからね。御室でお前はミシャグチ様のお力を分けてもらって、いずれ神様と同じ力を持つことになるんだよ。そしてこの夏直路(なすぐじ)地区を守る社の主となるんだよ」と頭を撫でられた。幼い千早に「神様と同じ力を持つ」という意味は分からない。ただ、この土牢での籠りの時期が過ぎて春が来ると大好きな兄に会えるのだと、それだけを心の支えに「籠りの神事」を耐えてきた。時間が溶けてしまった真っ黒な空間で唯一、赤蛇と触れ合いながら、朦朧とする意識の隅に兄の横顔を浮かべて千早は土牢に横たわっていた。
 のっぺりとした時間と空間に変化が訪れたのは、赤蛇が土牢の隅でじっと身を潜めているときだった。
 湿った空気が動いて乾いた微風がすべりこんできた。闇が追いやられ目に染みるような白が土牢を満たす。
 その時が、春が来たのだ。
 千早は体を覆っていた藁の敷物を払いのけて光の差し込む唯一の出入り口に走り寄った。
「千早さま。お迎えにあがりました。」
 幼いながらも落ち着いた声が千早の鼓膜を震わせる。その音ばかりがずっと幻聴のように聞こえていた。大好きな兄の声を幻ではなくようやく自らの器官で聞くことが出来たのだ。嬉しさのあまり胸が軋み両の目からつうと綺麗な涙が流れた。
「お務めご苦労さまでした。」
 やわらかく労る言葉に千早は思わず応じる。
「千方兄さん……」
「どうかされましたか?」
 千方の表情は影になってつぶさには見えない。けれども、守屋の山の春を彩る緑のようなやさしい笑顔をむけてくれていることは雰囲気で伝わってくる。
「……ううん、なんでもない。」
 心で感じていることはたくさんあった。けれども幼い千早にはそれを言葉に落とし込む術がなく心の中に仕舞いこむしかなかった。
「それでは参りましょうか。」
 差し伸べられた手に自らの手を伸ばして、五歳の千早は地上へと続く梯子に足をかけた。

 千早が十二歳の夏の夜のことだった。夕餉を終えて縁側で夕涼みをしていた。標高の高い諏訪の夜は湖から涼風が渡ってきて過ごしやすい。その風に乗ってドンドン、テンテン、ピーヒャラリン、テンツクテンツク……という音が聞こえてきた。
「ああ、今日は里では祭なんだな。」
「そうですね、今日は宵宮だと聞きましたよ。」
 千早の後ろで千方が答える。右手の櫛で腰まである千早の長い髪を梳いていた。一筋一筋が天の蚕によって丁寧に紡がれたかのような緑がかった黒く長い髪は「神」の依代である象徴だ。つねに清浄に保たれていなくてはならない。その役目を担うのが千方だった。
「一度でいいから行ってみたい。」
 千早の言葉に千方の手が止まった。
「……千早さま。」
 困ったような声で返事があった。咎める風ではない。どこか、己自身を責める色合いを含んだ声色だった。
「分かってる。分かってるけどさ。」
 千早の住まう夏直路地区の人間は特別な用事がない限り里には下りない。その長である夏直路社の次期当主の千早は現当主ーー千早と千方の父ーーの許しがない限り絶対に里に行くことはできない。二千年近く守られている掟だった。
「一度くらい見てみたいじゃないか。わたあめって知ってるか? 雲が食べられるんだって聞いたぞ。あと、空を飛ぶ風船もあるって聞いた。」
「誰から聞いたんです?」
「魚売りが来てたときに聞いたんだ。」
 千方は十二歳の子どもに似つかわしくないひどく大人びた溜め息を吐くと千早の髪から手を離した。
「千早さまは幼い折から修行と勉強とお務めばかりでしたからね。遊ぶことも友達もなくさぞお辛いでしょう。」
「そんなことないぞ。千方がいてくれるから僕はなんだってできるんだ。第一、千方の方こそ僕につきっきりで遊んだりしないじゃないか。」
「それが私にとって幸せなことですからすすんでお役目を引き受けているのですよ。」
 千方の声がやわらかく諏訪の夜の空気に滲んだ。千早の背中をそっと背後から抱き締めて言う。
「分かりました。明日の本宮になんとか遊びに出られるよう、当主様にお願いしてみます。」
 不思議なことに、千早と千方が里に下りる件についてはあっさりと許可が下りた。古から続いている掟とはいえ、千早の両親も子の親であり、また現代の人間だった。かつてのように厳密に約束事を守ることよりも可愛い息子にほんの少しでも抱えた運命から解き放た自由な時間を過ごして欲しかったのかもしれない。
 ただし、条件つきだった。
 『千早には誰一人として触れさせないこと』
 夏直路社にとって千早はミシャグチの神の子だった。ミシャグチ様の力を毎年その体に蓄え、将来は千早自身が神となって夏直路地区を鎮めなければならなかった。その半ばにある千早の体に何の修祓も受けていない普通の人間が触れると、千早の神性は穢されてしまう。だからこそ、これまで夏直路社の人間は里に下りられなかったのだ。
 千方はその条件を『必ず守ります。』と夏直路社の当主の前で頭を垂れた。
 夏直路地区から緩い勾配を3キロほど下ったところにある相本社は決して大きくはないが地元の民に親しまれている社だった。いつもの夜であれば夜闇に包まれて神々しさよりも恐ろしさが際立つ神社も、この日だけは赤々と提灯がともり境内には子どもたちの甲高くはしゃぐ声が響く。大人たちも酒が入っていつもより陽気に歓談している。ハレの日だけに許された神と人との饗宴だ。
 賑やかな境内の賽銭箱の前で、千早と千方は全身を固く強ばらせて周囲を見渡していた。千早はいつもより質素な麻の芥子色の浴衣を着て長い髪を麻紐で結んでいる。千方はいつもより少し質のいい麻の濃い藍色の浴衣を着ていた。
「里にはこんなに人がいるのか。」
 緊張と興奮が混じった声で千早が呟いた。無理もない。夏直路地区には六家族しか住んでおらず、しかも皆、千早の親戚筋だった。それぞれが夏直路社に奉仕するために先祖代々住んでいる。
「正月の諏訪大社はこんなものじゃないそうですよ。はるばる遠く、山梨や東京から来る熱心な参拝客もいるとか。」
「どうして地元の社に行かない?」
「私たちが思っている以上にお諏訪さまは人気が高いのだとか。」
「諏訪大社が、か……」
 千早の目が細められ、視線を足元に落とした。胸にせりあがる苦い思いの答えを見つけるように、暗い地面を穴があくほど見つめる。それから何度か首を左右に振って参道に続く闇夜に明るい出店の並びを見た。
「千方、僕たちは今日は遊びに来たんだ。つまらないことを考えるのはやめよう。ほら、あっちにわたあめの店がある。行ってみよう。」
「そうですね。せっかくお父上の許可を頂けたのですから。」
 にっこりと微笑む兄の笑顔を確認してから千早は参道を歩き始めた。
 バナナの叩き売りに、わたあめ、金魚すくい、お面売り、輪投げ、かたぬき……軒を連ねる店は千早も千方も見たことのないものばかりだった。全てが物珍しく店先に立ち寄るが、店番に声をかけられると千早はあたふたと店を後にするので千方がそれを追う。
 結局のところ、何も買うこともなく二人は出店の途切れた鳥居の外まで出て、肩で息を吐いた。鳥居の前に取り付けられてある「相本社」と墨字で書かれた大きな提灯の明かりが二人の顔をほんのりと橙に照らし出している。
 時の間をおいて、千方が声をかけた。
「千早さま、お体は大丈夫ですか? 疲れていらっしゃいませんか?」
 気遣いの中に後悔の混じる声色だった。
「大丈夫だ。初めての場所だからちょっとびっくりしただけだ。」
「……申し訳ありません。」
「どうして千方が謝るんだ?」
 謝罪の言葉とともに俯いてしまった千方の顔を、千早は目を見開いて覗き込む。兄の表情がいつにもまして落ち込んでいるのを訝しんで、千早は千方の浴衣の袖を引っ張った。
「なあ、千方。何か悪いことでもあったのか? 僕は誰にも触れられてはいない。父の言いつけを破ってはいないぞ。」
「はい。ですが、これだけの人の中に千早さまを連れ出してしまったことを申し訳なく思っております。もう少しきちんと調べておいて一人くらい大人の付き添いを連れて来るべきでした。そうすれば、千早さまも楽しめたと思います。」
「そんなことはない!」
 千早は腹の底から声を張り上げた。行き交う人々が一瞬、二人を見てまた何事もなかったかのように喧騒に戻って行く。
 千方の袖をもう一度引っ張って千早は兄の目をまっすぐに見た。
「兄さんと二人で来たかったんだ。付き添いなんていたら、あれやこれや口出しされて楽しめないじゃないか。」
「千早さま……」
 言葉の端は提灯の薄明かりに溶けて消えた。千方の顔から愁いがすっと消えておだやかな笑みが浮かぶ。
 その様子を目の端で見て取った千早は浴衣の袖を離して、そのまま千方の手を握った。
「もう慣れたから大丈夫だ。わたあめ、買いに行こう。」
「わかりました。雲を食べに行きましょう。」
 頷き合い、手を繋いだまま鳥居の向こうの参道の賑わいに戻ろうとしたときだった。
「おい、お前たち。どこの村のやつだ?」
 千早と千方が同時に振り向く。
 二人とそれほど歳の離れていないと思しき少年が四人、玉垣に寄りかかったり登ったりしていた。所々につぎはぎの見える丈の短い浴衣が彼らの金銭的な貧しさを語っている。おそらく農家や猟師の子どもたちだろう。提灯の明かりでぼんやりと見える少年たちの表情に好意の欠片はなく、むき出しの敵意がはり付いていた。
「見かけない顔だな。神宮寺の村のやつか?」
 一番背の高い少年が、玉垣から飛び降りて二人に一歩、近付いた。
 千方の顔に瞬く間もないほどの短い時間、刃物が夜闇に光るような鋭く冷たいものが浮かぶ。
「千早さま、私のうしろに。」
 そう言って、千方は千早を自分の背後に促して少年たちに対峙した。
「諏訪大社前宮に親戚がおりまして、少し前からこちらで過ごしております。今日は祭というので両親と一緒に遊びに来ています。」
 寸の間、空気が張り詰めて、それは少年たちの大きな笑い声に破られた。
「『親戚がおりまして』だってよ!」
「おいおい、どこのおぼっちゃまだよ!」
「さすがお諏訪さまのところの人間だ!」
 罵りの混じった少年たちの笑い声が祭の夜に響く。千方は唇を痛くなるほど引き結んで、そっと振り返る。
「千早さま、いいですか。私が合図をしたら、一緒に参道を駆け抜けましょう。」
 その隙に、玉垣の下に座り込んでいた少年が身をすべらせて千方の背後に移っていた。
「おい、こいつ、女、連れてるぞ!」
「なに言ってるんだ!?」
 返事をしたのは少年の仲間ではなく名指しされた千早自身だった。
「僕は男だ。失礼なやつだな!」
「男がなんで長い髪くくってんだよ。そんな奴、いるわけないぞ。」
「うるさい! これは僕の家のならわしなんだ!」
 まだ少年になりきる前の甲高い声を張り上げた千早の言葉に、千方が目を見開いた。
「いけません、千早さま!」
 振り返り、頭半分だけ低い千早の体を抱き寄せる。そのまま、そっと一歩、足をうしろに退いて、相手の出方を伺う。
「ならわしって……ああ、もしかしておまえら、墓守の家のやつか?」
 一番背の高い少年が近付きながら言う。その隣の坊主頭の少年が尋ねた。
「墓守って、あの夏直路のか?」
「ああ、父さんが言ってた。あそこで一番えらい奴は髪の長い男なんだってさ。」
 大人が二人くらい通れる間を作って、少年は立ち止った。
「墓守がなんでこんなところに来てるんだよ。気持ち悪いんだよ。」
「ユーレイとか一緒に連れて来てるんじゃないのかよ。帰れよ。」
 坊主頭の少年がどんと千方の背を衝いた。千方は動かず、逃げるタイミングを図っている。反応がないのが面白くないのか、「帰れよ」と繰り返して坊主頭は千方の足首に力一杯蹴りを入れた。ぐらりと体が揺れて、千方はどうにか倒れ込むのを耐えると同時に振り返って二人の少年を見る。そこにはいつものおだやかな千方はいなかった。全身から殺気すら漂わせ相手を威嚇する険しい視線が少年たちの心を斬りつける。一歩、また一歩、二人の少年はうしろに下がって千方から距離をとる。その少年二人を睨み据えていた隙だった。
「やめろっ!」
 千早の悲鳴に近い叫び声に千方が振り返る。先ほど、千早のことを女だと言った少年がその長い髪を引っ張っていた。
「すげー長い! この髪で呪い殺したりするんだろ、お前ら。知ってるぞ。俺のじいちゃんが言ってたからな。」
「離せ! 僕はそんなことしない!」
 千早は顔を真っ赤に染めて言い返す。さらに言い募ろうとしたとき、千早の髪に伸ばされていた不届きな手が尋常ではない強さで叩き落とされた。少年は痛みと呪いの言葉を叫んで、飛び下がる。
 表情を失った千方は、一言も発さず、仕草だけで千早を再び自らの背後に押しやる。
「お前……」
 千方の口から低い声が漏れた。聞いたことのない不気味な兄の声に千早の背筋が粟立つ。それは、千方であって千方でないように思えた。
「千早さまに触れたな?」
 闇から突き出るように、千方の腕が少年の浴衣の衿元をつかみ上げた。
「な、なんだよっ! それがどうしたっ!」 
 虚勢をはる少年の声が震えている。千方の変貌ぶりに驚いたのは千早だけではなかった。
「お前ごとき下賤が触れていいものではない。」
 荒波が打ち寄せるごとく言い放って、千方は少年の衿元を離して放り投げた。地面に重い音を響かせて転がった少年に千方が歩み寄る。
「千方!」
 嫌な予感がして千早は千方を呼び止めた。しかし、いつもならば絶対に応えてくれるはずの兄が振り向くこともしない。体が芯からじわじわと凍り付くような恐ろしさを覚えて千早は千方の浴衣の袖を強く引っ張った。
「兄さん! 千方兄さん!」
 千早のその言葉が呪言であったかのように、千方の動きがぴたりと止まる。表情を失った貌に人間らしい色あいが戻り、目には本来のおだやかな光が浮かんでいた。
「千早、さま。私は……」
 夢から覚めたように、千方はぽつりと零した。振り向いて、千早を見る。
 すでに少年たちは逃げ去ったあとだった。
 提灯の明かりに儚げに佇む千早と千早の影をしばらく見つめ続けていた千方の表情が、ゆがんだ。今にも泣き出しそうになるのを千方は必死に堪えて千早の背中に腕を伸ばして強く抱き締める。千早も応じるように兄の背に手をまわした。提灯に照らされ重なった二つの影が切り絵のように地面に落ちる。
「申しわけありません。あんな穢れた者に千早さまを触れさせてしまいました。」
 命乞いのような言葉に千早は戸惑う。いつもおだやかな兄の、こんなに取り乱した姿を見るのは初めてだった。
「大丈夫だ、千方。家の者も誰も見てないから父さんに怒られたりはしない。」
「いえ、それでも千早さまの大切なお体が、ミシャグチ様のお力が穢れてしまいました。」
「千方は……」
 言葉だけが先に出て、その先を千早は言いよどむ。自分を守ってくれる双子の兄。彼が守っているのは本当は誰なのだろうという気づいてはならない昏い疑念が、胸の深い深いところから染み出してくる。
 千方の背後に回した手で紺藍の浴衣を掴むと、千早は千方にだけ聞こえるように囁いた。
「千方は、僕がミシャグチの神の子だからやさしくしてくれるのか? もし、そうでなければ遊んでくれたり守ってくれたりしないのか?」
 千早の耳元で、ひゅっと千方が息を呑む声が聞こえた。
「そんなことありません、千早さま。」
 千早から顔だけを離した千方は、哀しそうに微笑んだ。提灯に照らされたその微笑みは吹けばすぐに消えてしまいそうなほど弱々しかった。
「千早さまがどのようなお立場でも、私は千早さまを守ります。」
「夏直路の次期当主でなくても?」
「はい。」
「弟でなくても?」
「ええ、どこの誰であろうとです。」
 そう応えて、千方はまた愛おしそうに千早の頭を抱き締めた。
「千早さまには誰にも触れて欲しくないのです。畏れ多くもそれが、たとえミシャグチ様であってもです。千早さまが夏直路の次期当主であることが、時々、辛いときがあります。そうでなければ、さらってでも私は千早さまを自分のものにするでしょう。」
「兄さん……」
 先の言葉を呑み込んで、千早は目を伏せた。兄の抱擁は熱く身体を包み込む。心も身体もこの兄に守られているのだという安堵が、千早を何物にも代え難い奇跡のような甘く幸せな気持ちにさせた。このまま二人で諏訪を出たいと初めて思った。

 千早が十六歳の年、諏訪で流行病が蔓延して大勢の村人が死んだ。奇しくも、諏訪大社の大行事である御柱(おんばしら)の年だった。皆が口をそろえて不吉だと、諏訪の神様の怒りだとささやいた。夏直路もその例に漏れず、二月までに三家から四人の死者が出た。そして三月、千早が籠りの神事を終えてすぐ、夏直路社当主が病に伏せた。病床でも気丈に振る舞っていた千早と千方の父は、山桜の終わる頃に、その命を散る花に託すように儚い人になった。
 千早も千方も、そして夏直路の村の者も、誰一人として自分たちの長の死に涙するものはいなかった。ミシャグチ様の力を宿した者は死すことでより完全にミシャグチ神と一体化する。諏訪最高の聖地、夏直路を守る祖霊になる。木々の一本一本、守屋の山を吹き渡る風、踏みしめる大地、湧き出る水、生活を支えるそういった自然に還る。それは哀しいことではなく喜ばしいことだった。
 当主の死よりも夏直路の住人たちにとって重大だったのは「次期当主」、千早の当主継承の儀だった。夏直路では一日たりともミシャグチ神の力を宿した当主の座を空けてはならない。それは儀式的な意味ではなく、空けてしまうことで諏訪全体の霊的秩序を壊してしまうからだ。夏直路とは、そういう場所だった。
 父の死んだ夜、千早は三角紋の透かしの入った儀式用の神衣(かんぞ)という着物をまとって冬ごとに籠る御室にはいり、一人、ミシャグチ様に模した赤蛇と過ごした。朝、御室を出ると、白い着物で正装した村人が一斉にかしずいた。村人と千早の間は供物を備える祭壇で隔てられている。祭壇の上には、鹿の生首が十五頭並べられて、したたり落ちる血が地面を赤黒く染めていた。
 自分にひれ伏す村人、供えられた鹿の首、そういったものに迎えられて、千早はとうとう、自分が「人間とは違う何か」になった気がした。今までは半信半疑だった「ミシャグチ様の力」が全身に漲っている。見える景色がやけに鮮やかで、諏訪湖から吹いてくる風もまた、いつになく光って見えた。
「当主さま。」
 村人の中で一番年嵩の、八十に手が届く胡麻塩頭の男が静かに言った。
「これからの夏直路をよろしくお願いいたします。」
「分かっている。」
 つい先日まで、自分のことを子ども扱いしていた男が恭しく頭を垂れるのに千早はそれらしく頷いて、自分が夏直路の当主についたのだと改めて確認する。と、ふいに視界に大切なものが欠けていること気づいた。
「千方は?」
 すっと場の空気が冷えた。村人の誰もが口を開こうとしない。
「千方はどこにいる?」
 神衣の裾を引き摺りながら、祭壇を通り越して千早は胡麻塩頭の男を威圧的に見下ろした。男はしばらく黙っていたが千早の尋問から逃れられないと悟ったのか、錆びたような重たげな口調で応えた。
「大切な御柱の年に夏直路の当主が亡くなるというのは不吉であり、これは穢れであると、昨晩の長老会で判断しました。そのため樹さまの当主継承の際の穢れを祓う役目を千方は引き受けましたので、ここにはおりません。」
 千早は体を硬直させて、息を止めた。その言葉の意味を瞬時に理解する。次いで、ゆっくりと声を押し出した。
「どうして千方がそんな役目を? 誰が許した?」
「前当主様の御遺言です。次期当主の穢れは双子の兄である千方が引き受けよとのことでした。」
 空気が裂けて痛くなるような沈黙が落ちた。誰も身じろぎひとつしない。
 千早は無意識に着物の胸のあたりを掻きむしっていた。鼓動が早くなるのが分かる。息が短く早くなる。自分の頭を過る想像に目眩がした。
「千方は……今、どこにいる?」
 胡麻塩頭の男は頭を横に振って何も答えなかった。
 春の諏訪の緑の香りを乗せた風がさらさらと瑞々しい木の葉を揺らして千早の頬を撫でた。男に集中していた意識がすっと解放されて焦点がクリアになる。改めて場を見ると、村人の姿が四人、見当たらなかった。
「まさか!」
 千早は視線を深い森の奥に遣って目を閉じた。
 聴覚以外の全ての感覚を閉じる。
 下馬沢川の水の跳ねる音、木々の葉がこすれ合って緑の闇を作る音、その隙間をぬって、千早の焦がれてならない声の切れ端が聞こえた。
「兄さん!」
「当主様、おやめください!」
 走り出そうとする千早の足を、男が止めた。
「夏直路のためです。我らを見捨てなさるのですか? 夏直路はミシャグチ様を宿した当主様でしか鎮められないのですよ。」
「分かってる! だからって千方は関係ないだろう? 僕はこうしてちゃんとミシャグチ様の力を継承して当主を引き継いだんだ。」
「それは当主様の穢れを千方が引き受けたからでございますよ。今、千方のところに行けば……」
 千早は胡麻塩頭の男の言葉を最後まで聞かず、白い裾をひきずって千方の声を頼りに鬱蒼と昏い森の中に駆け出した。
 幼い頃はずいぶんと広く、かくれんぼにも事欠かなかった夏直路の森は、成長してみればずいぶんと狭く感じられた。どこに広場があり、どこの木の上に何の鳥が巣を作り、どの祠で何を祀るのか、一瞬にして頭の中で地図になる。
 千早は獣道を走る。 
 下馬沢川を越え、幾つかの祠を通り過ぎて、小道に出る。そこからまた深い森に分け入って樹齢千年と言われる神木の樅の木を越えたところで、視界が開けた。森の中に広場がすり鉢状に広がっている。ミシャグチの神に捧げる鹿の首をはねる神域だ。そこに四人の白い着物姿の人影を見つけて駆け寄ろうとした瞬間に緑の檻から突き出された手に腕を掴まれた。強引に引っ張られ、千早はようやく足を止める。振り向くと、よく知った顔があった。千早に体術を教えている五十絡みの村人だ。顔の骨が岩のようにごつごつとしていることから、村では「岩の旦那」と呼ばれている。 
「離せ!」
「当主様、この先には行ってはなりません。」
 岩が喋ったような重く揺るぎない声だった。
「千方は殺させない。今の当主は僕だ。僕の言うことに従え!」
「我がままをおっしゃらないでください。千方の当主様への深い忠誠を無碍にするおつもりですか? 彼の強い決心があったからこそ、樹様は穢れないミシャグチ様の力を現世に体現して当主になられたのではないですか?」
「千方の決心? そんなの嘘だ! 千方はずっと僕の側にいると言ったんだ! 当主を継承するからといって僕から離れることが……」
 風が止んだ。
 呼ばれたように神域を振り向いた千早は、春の朝日にぎらりと禍々しく光る冷たい刃物の軌跡を見た。
 愛おしい者の名を叫ぼうとしたその口を、岩の旦那に塞がれる。唐突に視界が暗くなった。目を塞がれているのだと気づくまでに一呼吸の間があった。 
 千早が右肘に力を溜めて、岩の旦那を振りほどこうとしたとき、ふっと視界が明るくなった。口元の手も離されて、体に自由が戻る。
「当主様、どうか夏直路のためにも心を落ち着けて下さい。」
 岩の旦那の言葉は幼い夏直路の当主には届かない。千早は広場の中央に向けて走り出した。翻る神衣の純白が昏い森の緑を引き裂く。
 五月の柔らかな緑の下草が燃えかすのように赤黒く染まっている。その血溜りの中央に、命の色で白い着物を染め上げた少年の死体が横たわっていた。
「千方……」
 呆然と千早は呟く。視線の先の死体を瞬きも忘れて見つめている。
「嘘、だろ……」
 血溜りに膝を折る。千早の神衣の純白を赤黒い色が冒した。俯くと長い黒髪が血に濡れて、神衣にはり付いた。
 千早は初めてその顔を見るように、死体の貌の造りを湛然に確かめた。短い髪、吊り気味の太めの眉。少し骨ばった頬、薄い唇、すっと伸びた鼻梁、右耳の下の首筋にあるホクロ。愛した兄に間違いなかった。
 諏訪の神の力を宿した身体が小刻みに震え出す。愛した者の命の色が染みた神衣が真紅色に燃え上がった。我を忘れた千早の霊力が作り上げた深紅の陽炎の炎は広場一帯を飲み込み、村人たちは慌てて森の中に逃げ込んだ。
 猛り狂う赤の衣をまとった千早は千方に折り重なってその頭を抱き締める。
「兄さん……」
 兄さん、兄さん……。
 喉から絞り出すように何度も口に出す。その言葉は途中から、幼い子どもの泣きじゃくるような嗚咽に取って代わった。それでも不思議と千早の目に涙は浮かばなかった。ただ壊れた楽器のように日が暮れるまでその名を繰り返していた。

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