第46話 真夏の鳴動(4)



 その日の夕飯を四人が食べ終えたのは、夏の陽がとっぷり暮れてしまったずいぶん遅い時間だった。
 約二ヶ月、食事を摂っていない遼に伸は「夕飯は遼の一番食べたいものを作るよ」と訊くと、遼はしばらく考えてから「保育園の給食で出ていたオムライスが食べたい」と答えた。伸には遼の言う「給食で出ていたオムライス」というものがどういうものか分からず、さらに問いを重ねた。遼の説明では保育園の近所に養鶏場があり、その日の朝に生まれた玉子を給食のオムライスに使っているらしいとのことだった。
 その話を聞いた伸は冷蔵庫の中の2パックの玉子には目もくれずナスティに連絡をとった。吉祥寺は都会だが少し三鷹方向に離れれば畑や養鶏場や果実園があちこちにある、と当麻が言っていたことを思い出したのだ。
 伸はゲストハウスから一番近い個人経営の養鶏場を四件聞き出して訪ね歩いた。最初の三件はすでに個人販売を終えており(そもそも朝一番のとれたて玉子というのは地元民が好んで購入するもので午前中も早い時間に売り切れてしまうということだった)最後の四件目、養鶏場というよりも鳥小屋と言ったほうがふさわしいであろう場所で十羽と少しの鶏を飼育している老夫婦からようやくのことでその日の朝にとれた十個の玉子を分けてもらった。伸は老夫婦の示した倍の金額で玉子を購入すると、後日、必ずお礼にきますと約束して帰路についた。夕方の五時を過ぎたころだった。それからゲストハウスに戻り夕飯を作り始めたのだから遅くなるのも無理はない。そんな伸の努力は徒労にならず、夕飯に大満足した遼は燦々と輝く笑顔を伸に向けて言った。 
「俺、今、最高に幸せだよ、伸。ありがとうな。」
 隣の席でそれを聞いた征士が一瞬、フォークを落としかけたのを伸は見逃さなかったので、あわい笑みを浮かべただけで遼の一言には答えなかった。
 時計の針が十時を過ぎるころには遼を囲んだなごやかな語らいを終えて、それぞれがリビングから寝室に移った。
 征士と遼にとっては約二ヶ月ぶりの二人で迎える夜だった。
 適度に落とされた照明は落ち着いた金色で室内を染めていた。光を咲かせる花が、暗い夜の森の中でこっそりと出会う恋人たちのためにその花弁をひらき明かりを灯しているようだった。
 昼に風呂に入った遼は、部屋に戻ると大型犬よろしくばったりとベッドに倒れ込んだ。久しぶりのやわらかなベッドの感触を存分に味わってから仰向きになり、しばらくは何も言わず天井を見つめていた。そんな遼の様子を目の端に入れて、征士は一言「シャワーを浴びてくる」と言い残して浴室に向かった。
 三十分も経たないうちに征士が浴室から出て来ると、やはり遼はベッドの上で仰向けになり天井を見上げたままだった。
「遼、疲れたのか?」
 まだ少し水分の残った髪をタオルで拭きながら征士が訊く。
「いや、そうじゃなくて。」
 遼の貌に何かを深く思案するような陰影が刻まれている。
「帰ってこられたんだな、とか、みんなが元気で良かったな、とか、いろいろ感じるんだけど。」
 一旦、遼はそこで言葉を置いて自分の心の在処を探すように、言葉に迷うように、ためらいがちに言った。
「征士に会えたことが一番嬉しいんだよ。他のことがどうでもいいくらいに。」
「私も遼が帰って来てくれて嬉しいと思う。」
「征士はそれでいいんだ。誰よりも俺のことを心配してくれてたんだろ? けど俺はさ、今日、みんなからおかえりって言われたけど、多分、その言葉全部あわせても『征士のところに帰って来られた』ことの方が嬉しいんだよ。そんなの仁将として失格だろ?」
 押さえ気味の声で言って遼には似合わない自虐の笑みを口元にはり付かせた。
「それにさ、結界の中に閉じ込められていたときも、ずっと征士のことばかり考えていたなって。この寝室のことばかり考えてたなって、天井を見て思い出したんだ。」
 夜の太陽が涙を見せずに嘆いている。征士は何も言わずにベッドの端に腰をかけた。あわい光を受けた玲瓏な面がまばたきするほどの短い間、泣きそうな笑顔を浮かべて消えた。
「いいではないか、遼がそう思うのであれば。もしそのことを知っても他の三人は遼を責めたりしない。」
「分かってるよ。あいつらはみんなやさしいから俺を責めないってことくらい。」
「やさしいからではない。こちらに来てから私たちは知ったのだ。互いが、十年前から成長して変わってしまったことを。だから遼が十年前のように仁将としてふるまう必要もないのだ。」
 征士は上半身を捻って振り向いた。長い手を伸ばして遼の艶々とした黒い髪に触れかける。しかし太古からの絶対的な禁忌を犯してしまったかのように、手は弾かれて動きを止めた。
 遼の濡れ羽色の黒々とした目が征士の紫を射貫く。征士の紫が一呼吸の間、黒から逃げて、もう一度、決意を秘めて黒い瞳に応じた。伸ばした手でゆっくりと遼の髪を梳く。気持ちよさげに遼の目が閉じられる。
 音一つないあわい光の空間は二人を閉じ込めたまま、規則正しい時を重ねる現実から過去も現在もない楽園の海へ漕ぎ出そうとしていた。
 けれども遼が、止まってしまった恋人たちのゆるやかな時間の針を動かした。
「なあ、征士。」
「どうした?」
 遼の隣で長い足を伸ばして座っている征士が、髪を梳く手を止める。
「俺に何か言わなきゃならないことがあるんじゃないか?」 
 眠っているように見えた瞼が開いた。夜の太陽を宿す黒々とした瞳が問うように征士を見る。息を詰めた征士が口元を引き締める。静かな光をまとった金髪が震えながら揺れて、遼から離れた。
「どうしてそう思う?」
「さっきから征士、辛そうな顔してるから。俺が帰って来て嬉しいって口で言っているのに、俺が帰ってきたことを怖がっているように見える。」
「遼の目はごまかせないな。」
 征士は右の手のひらで顔の上半分を覆い隠すと声もなく笑った。
「遼のいない間、たくさんのことがあった。」
「だろうな。みんな、俺のことを気遣って何も言おうとしなかったけどずいぶんやつれている感じだった。」
「ああ、特に……」
「当麻はひどかったな。」
 征士の言葉を先取りした遼が紫の瞳から目を逸らし、言葉にした人物を思い浮かべるように宙空を見つめた。
「奴は奴なりに、遼のことや伸のことで責任を感じているらしい。『軍師』の役が抜け切れないようだ。」
「伸のこと?」
 それから征士は、遼がいなくなってから今日にいたるまでに起きた出来事をつぶさに話した。
 神田明神で起きた事件、カユラの来訪、六月三十日の大祓に行った伸が倒れたこと、その日以降、東京という街全体におぞましいものが跋扈し瘴気が充満していること。それに呼応するように鎧玉も活性化していること。
 遼は何も言わず征士の話を頷きながら聞いていた。声が途切れると不思議そうに尋ねた。
「俺のいない間にたくさんの事件が起きたのは分かったけど、本当に言わなきゃならないことはそれじゃないよな? そんなことで征士が怖がったりしないよな?」
「ああ、そうだ。」 
 短く答えて征士は俯いた。目を閉じて何度か深呼吸をする。この先に話すことの重みを全身で感じながら、きつく下唇を噛みしめる。鉄の味に気づいて我に返り、顔をあげた。 
「『北辰結界』のことを遼は覚えているか?」
「覚えているもなにも、俺たち、そのためにここにいるんだろう?」
「陰陽寮が金烏玉兎集の解読を終えて『北辰結界』の詳細が分かったと渡井氏が伝えに来た。九月九日にその祭祀が執り行われる。」
「九月九日っていうと、もうすぐじゃん。」
「ああ、陰陽寮の方も遼が帰って来てひとまず安心だろう。で、この『北辰結界』の内容なんだが……」
 征士は目を閉じて何度か浅い呼吸を繰り返した。彼らしくない様子を不思議に思って遼が声をかける。
「征士?」
「ああ、すまない。」
 造花のようにぎこちない笑みを口元に貼付けて征士は続けた。
「渡井氏の言うには、『北辰結界』というのは『チ』の結界らしい。」
「『チ』の結界?」
「『チ』というのは『大きな力』を指すと同時に、音通り我々の体内を巡る『血』を意味するそうだ。つまり、この結界に必要なのは我々の『血』の力ということになる。」
「え、じゃあ、俺たちの血をそこで差し出せって感じなのか?」
 仰向けになっていた遼がごろんと転がって征士の方に向いた。怪訝な顔で征士を見上げる。
「そうではないらしい。おそらく重要なのは『血』に宿る呪物としての力の方だろう。古くから人間の体の一部というのは呪術に使われてきた歴史がある。問題はその先なのだ。」
 荒れる波を押し出すような語尾だった。目を丸くして遼は征士を見る。ただでさえ白い征士の顔は青ざめて何日も食べていない病人のように見えた。
 起き上がった遼は征士の隣に座り、頭を彼の肩に預けた。
「遼……」
「俺、怖くないぜ。征士の言うことは多分怖くない。だって俺たちは、十年前に血よりも深い絆で結ばれただろう? 互いの命を預け合って戦い抜いたんだ。あれ以上の怖いことなんて絶対あるはずないさ。」 
 無邪気に笑う太陽に、征士の貌が緩んだ。あわい金色の中にくっきりと輪郭を描く黒々と濡れたような髪を右腕で抱き寄せる。
「ああ、そうだったな。」
 声をやわらげて征士は応じると話を戻した。
「『チ』の結界というのは我々の『血』で作られる、というのは先程話した通りだが、その結界を維持するためには我々の直系の子孫の『血』を絶やしてはならないそうだ。つまり、結界を維持する限り我々と我々の子孫は必ず伴侶を得て直系の子孫を残さねばならない。」
「え、それって、つまり……」
「結婚して子どもを作れということだ。」
 刺を含んで冷ややかに放たれた言葉は誰にも受けとられずに弾けて消えた。
 ちかり、ちかり、と二度、部屋の照明が明滅した。恋人たちを運ぶあわい光の船が難破していると危険を告げているようだった。
 征士が目だけで部屋の隅々を見遣ったが、やわらかな金色の照明はもう何も言わなかった。
「で、征士は納得がいかないわけだ。」
「いや、納得がいかないというのではなく……」
 まっすぐな気質の征士が言葉に迷っている。迷った挙げ句、大きく息を吐いてうなだれた。
「この条件を叶えると、私は遼の傍にいられなくなる。」
「なんでだ?」
「え?」
 遼はあわい光を溜めた黄金の豪奢な髪に手を伸ばして幼い子どもをあやすようにくしゃくしゃとかき乱した。征士が顔をあげるとすかさずその頬にふんわりとキス落とす。
「遼!」
「はははっ! 今の征士にはひまわり保育園のキスで十分だ。」
 またたく間に空気がなごむ。
「今は真面目な話をしている……つもりなのだが。」
 蝋細工のように白かった征士の頬に血の色が戻る。それを目で確かめて遼は言った。
「俺も真面目に聞いてるぜ。そして多分、征士の気持ちも分かってるつもりだ。」
 征士は答えない。身動きせず、遼をじっと見つめたまま次の言葉を待った。
「俺と征士の子どもたちでサッカーチーム作ろうぜ。男女混合で。」
「……遼?」
 征士は何度か瞼を上げたり下げたりして、全てを解決してしまう秘密の鍵を隠し持っているかのような黒々とした遼の瞳を覗き込む。
「つまりさ、『北辰結界』を完成させてそれを維持するためには、俺たちは結婚して子どもを作らなきゃならないんだろ? 次もその次の世代も。俺は仕事柄、子どもは好きだよ。結婚して自分の子どもがいてもいいと思う。征士はどうなんだ? 今まであえて聞かなかったけどさ。伊達家っていう名家の唯一の跡取り息子なんだろ? 結婚せずにすむのか? 俺には兄弟や親戚がいないからあまり気にならないけど、征士はそうじゃないだろ?」
「私は……」
 言いかけて、征士は口をつぐんだ。
「結婚して子どもができたら、征士は俺のことが嫌いになるのか?」
「そんなことはない! あるわけがない!」
 征士にしては珍しく声を荒げるのに、遼は肩を震わせて笑った。笑い終えてからあらためて征士の紫色の瞳を覗きこんで、すっと表情を消した。それからいつもの彼からは想像しがたい、やけに大人びてあらゆる事象の深淵を覗き込むような貌をした。
「そうだろ、征士。確かに今までとは違う関係になってしまうかもしれない。でも、征士は俺のことが大事だし俺も征士が大事だ。だから、今日で終わらせて、今日から始めよう。それが俺の答えだ。」
 先ほど征士を揶揄した声とは全く違う、悠久の時を経て来たような静かで落ち着いた声音だった。
 征士は、言の葉が見えるとでもいうようになめらかに動く遼の口元を息を詰めてじっと見ていた。言葉が終わると、何度か深呼吸をして遼の黒々とした瞳を覗き込んだ。黒い瞳にはやはり征士を落ち着かせる秘密の鍵が見え隠れしていた。
 また、部屋の照明がチカチカと明滅した。空調のモーター音だけが寝室を薄い音の膜で包んでいる。けれども、二人の目にも耳にも届かない。存在する層が違うようだった。
 やがて征士が何かを言いかけて、一度、唇を引き結んだあと、紫色の瞳に強い光を宿して再び口を開いた。
「遼。」
「なんだ?」
 二人が同時に互いの方に体を向ける。征士はそのまま遼の方に身を傾けて、長い両腕を伸ばし健康的でしなやかな体を抱き締めた。二人だけの閉じた世界を作ると征士は遼の耳元に懇願するようにささやく。
「私は遼が好きだった。」
 遼が小さく頷いて目を閉じる。
「俺も好きだよ。」
「これからは愛してもいいだろうか。」
 閉じた目をにわかに開いて、遼は瞳だけで征士の金髪を見た。
「私は結婚しても、遼以上に家族を大切にすることはできないだろう。それは相手に対して礼を欠くと同時に人間として失格ではないかと思う。
 遼がいない間、私は全く私自身ではなかった。夜がくるのが怖かった。朝がくるのも怖かった。遼のいないベッドが怖かった。どれだけ竹刀を振っても遼がいない世界に私の居所は見つからなかった。本当に苦しくて、何度も遼がいなくなる夢を見て、夢の中で大声で泣いていた。だから多分……私は遼以上に大切な存在が見つかると思えないのだ。それはつまり遼を愛しているということなのではないかと、思ったのだ。」
 一音一音が満月の月明かりのようにまっすぐ揺らぎのない声だった。それなのに、泣いているような声だと遼は思った。
 遼は自分を抱いている征士の左腕を取ると、彼の手のひらに自分の手のひらを重ねて握った。握り返してきた感触に安心して、遼もささやくように呟く。
「なあ、征士。俺ってすごい幸せものだよな?」
 握った手に少し力を入れると、頷くように握り返された。
「結界に囚われたとき、一番会いたいと思っていたヤツから一番心配してもらえてるんだ。そしてこうやって、ちゃんとここに戻って来られて、すごく大切な言葉をもらえた。」
 征士の節の高い手が遼の手を握り返した。
「俺も征士のこと、愛してるよ。」
 言葉だけでは零れてしまうものを必死で伝えようと遼は征士の手をもう一度強く握りしめる。あわい光をまとう金髪に埋めた顔を離し、征士の桔梗色の瞳を生まれて初めて見るような透き通った黒い黒い目で見返した。事実、そのとき遼が見た征士の瞳には、この世の色をすべてかき集めても見つからないであろう不思議であたたかい色が浮かんでいた。
「遼?」
「うん?」
 返事を待たずに、遼を抱き締めていた方の征士の手が背中から離れてしなやかな筋肉をまとう肩を這い上がり伸びかかった黒髪を抱きかかえた。自然、征士が少し、遼を見下ろす体勢になる。
「桜の下での約束を果してもいいだろうか?」
 了解を求めるように、征士がもう片方の握りあっている手に力を入れた。あたたかな手で握り返されて、束の間、征士の表情が緩む。
「あのさ、征士?」
「なんだ?」
 くすくすと、遼が征士の胸の中で笑っている。ほんの一瞬だけ緩んだ征士の貌がすっと緊張を帯びて口元が引き結ばれた。
「わざわざ丁寧に断ってくるのが征士だなって思ってさ。」
「おかしいだろうか?」
 うーん、まあ普通はこういう状況だと……と遼は曖昧に濁してから、やはりしばらく征士の胸の中で笑っていた。征士は時折、黒い髪をいじりながら遼を愛おしげに見守っている。
 また、ちかり、ちかり、と部屋の照明が何かの合図のように明滅を繰り返したが閉ざされた二人の世界には届かない。
「そういうところも征士らしくって俺は好きだ。愛してるぞ。」
「私もだ。」
 遼の髪を何度か撫でてから、征士の口の端に力がはいる。もう一度、遼の手を握りしめて、握り返されたぬくもりを確かめてから言った。
「遼、目を閉じて欲しい。」
「俺が目を閉じる方なのか?」
 照れ隠しのようにおどけてみせる遼の言葉に征士は従わなかった。
「そうだ。遼が目を閉じる方だ。」
「……わかった。」
 早くなる呼吸のせいで、遼の胸が何度も上下する。ゆっくりと音もなく、世界の秘密を解く鍵を秘めた黒い黒い瞳が薄い瞼の向こうに隠れた。陰影をくっきりと浮かび上がらせた喉仏を征士はじっと見てから、遼の唇に自分のそれを重ねた。握りしめていた遼の手が征士の手を強く握り返す。空いている腕が征士の背中にまわって、ねだるように寝間着をきつく引っ張った。征士は唇を少し離して角度を変えて口付けた。遼の喉の奥から水を飲むときのような音がした。遼の手を強く握って、征士は舌を遼の中に入れた。冷たく整った外見とは裏腹の熱を持った舌が遼を誘う。応じた遼の舌は征士のそれよりももっと熱かった。口の中で溶岩が溶けているようだった。二人の舌が唾液をかき混ぜながら絡み合う。遼はぴくりと体を引き攣らせて、征士の手を汗で湿った手で強く強く握り返していた。
 また、ちかり、ちかり、と照明が明滅した。
 途端に世界が力を失ったかのようにまっ暗になった。ついで、どぉんと大地の底を打つ轟音が部屋中を蹂躙した。
「どうした?」
 遼を抱き締めたまま、征士は硬い紫水晶の視線を部屋中に走らせる。また、どぉん、と大地が割れるような音がして部屋が揺れた。
「征士、あれ!」 
 遼が南の方角に設えられた大きな窓を指差す。暗い鈍色の空を幾筋もの光の龍が何者かの来訪を告げるがごとく駆け巡っていた。
「雷か? 予報では今日一日、晴れると言っていたが。」
 遼を抱き締めたまま、征士は半ば恨み言のように呟いた。
「この音の大きさだと近くに落ちたんじゃないのかなあ。」
「被害がなければよいが。」 
 征士が相槌を打ったそのときだった。空を走る雷の光に照らし出されている白い大きな蛇を見た。頭をもたげ、赤く爛れた目が二人の部屋を覗き込んでいる。
「征士。」
「ああ、青梅で会った、あいつだ。」
 名残惜しげに征士は遼をから手を引いて離れた。二人でベッドがら飛び降り階段を駆け下りる。玄関口で征士は竹刀を手にして外に出た。
「伸も当麻も秀も気づいてないのか?」
「いや、案外、私たちだけに用があるのかもしれん。」
 そう言った征士の予想した通りだった。
 玄関の扉が異界への入り口でもあったかのように、二人が外に出るとゲストハウスは夜の闇に吸い込まれた。
 夜の曇天には相変わらず稲光が走っている。周囲は画家が執拗に追い求めたような純粋な黒がまんべんなく塗り込まれている。地を這う雷の音が地面を揺らしている。
 その中で、白蛇は神々しいまでの銀色の輝きを放ち二人を睥睨していた。
 遼を背後に征士は白蛇を睨みつける。その耳に戦場にひどく相応しくない涼やかで凛とした声が届いた。
「ごきげんよう。いえ、はじめまして、とでもいうべきかしら?」
「誰だ?」 
「征士、あそこだ、多分。」
 遼が白蛇の頭の上を指差す。人影らしきものがある。 
「用があるなら降りて来て挨拶するのが筋というものだろう。」
 征士が声を荒げると、喉元で笑いを押さえたような声が雷の音よりも大きく空中に轟いた。
「まあ怖い。別にあなた達を取って喰おうなんて思って来たわけじゃないのよ。」
 白蛇の頭を少女が撫でると、蛇の妖は抗うことなく頭を下げて彼女を地上に降ろした。
 大地に降り立った少女は美しかった。美しいといわれるもの全てが頭を垂れてもおかしくないほど美しかった。
純白の着物をまとい細い腰を朱に近い赤の帯で結んでいる。黒く長い髪は結い上げられ、赤い花を髪留めに刺していた。初雪のように白いうなじが雷の光で時折、ちらちらと生き物のように蠢いている。小さな面はまだうら若く口元にすっと朱色の紅をさしている。その口元が威圧的に笑っていた。
「今日は別に、あなた達と力くらべをするつもりもないし、こちらから何かを仕掛けるつもりもないの。ただ、忠告にきただけ。だからそのぶっそうなもの、さげてもらえるかしら?」
「貴様を信じる理由などない。」
 相変わらず、征士は遼を背後に竹刀を少女に突きつけたまま、動じる様子はない。
「東方木気のあなたのお仲間とは違って物わかりが悪いのね。私、あっちの方が好みだわ。」 
 雷の光が一瞬、少女の貌を浮かび上がらせる。紅を刷いた口元が面白そうに歪んでいた。
「忠告その一。北辰結界は成功しないわよ。」
「どういうことだ?」 
「言葉通りよ。あなた達に北辰結界を完成させる力はないのよ。」
「なんでだよ!」
 遼が踊り出して少女を睨んだ。
「北辰結界は『チ』の『力』の結界でしょう。それがどういう意味か、あなた達はもう十分知っていると思っていたのだけれど。」
 少女は背後の白銀の蛇に体を預けて艶やかに笑った。目だけが、征士を見据えている。
「昔話をしましょう。十年前、マアツミカボシが呼んだ鬼がこの街に災いをもたらした。五人の少年がそれぞれの力をもって倒そうとしたけれど、鬼の力には及ばなかった。力に力で対抗できないと知った少年たちは、それぞれの『想い』で鬼を封じることに成功した。どう? よく知っている昔話でしょう?」
 征士の竹刀の先端が震えた。
「力の結界なんて所詮そんなものよ。誰かがそれを阻止しようと強く願えば、簡単に封じることができる。」 
「それは違う! 確かに北辰結界は『力』の結界かもしれないが、俺たちの想いだって十年前と同じように集結させるんだ。今回はただの力比べじゃない!」
 また一歩、前に進んで遼が叫ぶ。少女は雷の光で金に輝く蛇の鱗を撫でながらうっすらと笑った。
「南方火気のあなたがそう言うのなら教えてあげる。あなた達の想いなんて、私の主の想いにくらべれば髪の毛の一筋のような軽いものよ。」
「主とは誰だ? 北辰結界を妨害しようとしている首謀者のことか?」
 征士の問いに少女は応えなかった。かわりに、蛇に預けていた身を起こしてゆっくりと征士の方に歩み寄った。
 大地の割れる音と稲光の音を背景に、少女は征士の竹刀の切っ先の寸前に立つ。
「忠告その二。北辰結界を完成させることができないのはあなたのせい。」
 征士を見据えていた少女の目が、ぎろりと赤い光を宿して異形であると告げた。
「なんのことだ……!」
 少女を睨みつける征士の苛烈なまでの眼光が怒りに弾けた。そんなことは知らぬ風に少女は続ける。
「言ったでしょう。あなた達が今、やろうとしていることは、人の『力』か人の『想い』か、どちらが純粋で強いかという、そういう種類のやり取りなのよ。決して戦いではないの。どちらが、どれほど、誰かを想っているかということなの。そして残念ながら、あなたは決して大切なものを愛せない。」
 征士の動きが塑像のように止まった。
「愛すというのはね、血も体もどろどろに溶け合って一つになって、それでも満足感を得られずに相手を求めるということなの。人間の倫理から外れても人の形を失っても、相手を想うことなの。光輪、だったかしら? 正義を照らすというあなたにはとうてい無理でしょう? あなたには人の道を外れてまで誰かを愛することはできないわ。私の主は世界の倫理なんて関係なく想いを貫き通しているもの。だから、このやり取りは私たちの方に分があるということよ。」
「私は、遼を……」
 竹刀が大きく震えて、少女の顔に向けられていた先端が下に降ろされた。
「あなたが守りたいのは、そこの南方火気でしょう? でも本当に、彼のために全てを捨ててまで愛せるかしら? 異形になる覚悟はあるかしら? だってあなた、一度、守れなかったじゃない。」
 雷鳴の中、竹刀が大きく揺れた。竹の棒が大きな音を響かせて地面を叩いた。
「征士!」
 闇に沈んだ金髪が小刻みに揺れていた。遼は征士の竹刀を取り上げると少女を睨みつける。竹刀の先を少女に向けた。
「お前の言うような愛は、愛とは言わない。それはただの妄執だ! 本当の愛は人を不幸にしない。自分たち以外の誰かを傷つけない。人間としてあるべき道を失ってまで貫き通す愛なんて許されるはずがない!」
「ふふ、青いわねえ。他人を基準に許される愛なんて、愛って呼べるのかしら?」
「それに征士は!」
 喉から声を振り絞って遼はその名を呼び、征士の腕を取って自分の方に引き寄せた。
「俺のことを愛してくれている。俺のことをいつも想ってくれて、俺のことで悩んでくれて、俺のために変わってくれた。そうだろ、征士?」
 最後の一言を、遼は征士の顔を見て言った。薄暗闇の中、覇気をなくしていた征士の瞳が、ふたたび紫の強い光を帯びて蘇る。二人の視線がカチリ、と合図を打ってから征士は顔をあげた。
「ありがとう、遼。」 
 征士は遼から竹刀を受けとる。右手で竹刀を持ち左手で遼の手のひらを握ると深く呼吸を整えた。
 異形よりもはるかに珍しい紫の瞳が少女の赤い目を捉えて縛り付ける。竹刀の切っ先を再び、少女の眼前に突きつけた。
「お前のいう愛がどんなものか私にはわからない。そもそも私には遼以外に愛する者がいないのだ。他人が説教する愛など興味ない。だから私は何があっても遼を守る。お前たちの好きにはさせん。」
「あら、そう。」
 少女は右頬に手をあてて、小さく首を傾いだ。赤い唇を歪ませて、征士の決意の一言を侮蔑するかのように嘲笑う。
「ならいいわ。どちらが正しいか年末には分かるわ。それまでせいぜい頑張ることね。」
 竹刀の切っ先を少女は手で掴んで、小さな体に相応しくない力で振りほどくと二人に背を向けて銀の白蛇の方へ歩みを進めた。追いかけようと踏み出した征士を、遼が止める。
「征士、二人だけじゃ敵わない気がする。応援を呼んだ方がいい。」
 二人の前で少女は白蛇の長い胴を撫でた。それに応じるように銀の蛇は頭を少女の方に降ろす。少女は着物とは思えない軽々とした動作で白蛇の頭に飛び乗ると遼と征士を見下ろして言った。
「忠告その三。あなたたちは利用されているだけよ。」
 白蛇がどうと体をうねらせた。はじめはゆっくりと、次第にスピードをつけて雷が乱舞する曇天の空に消え去った。白蛇の姿を隠すとたちまち、空の雲は割れて夏の夜の濃い紺色の天蓋を広げ始めた。先ほどまでの雷鳴が嘘のように、虫だけが鳴いている夏の夜だった。
「征士、遼!」
 仲間の声に二人は即座に振り返る。当麻が寝間着のまま玄関から出てくるところだった。ゲストハウスも、いつのまにか夜闇の中に姿を取り戻していた。
「一体、何があったんだ?」
 当麻が訊くと、征士と遼は二人で顔を合わせた。どちらが話せばいいか迷っているようだった。それを察して、当麻が征士に声をかけた。
「竹刀を持っているとはただごとじゃないな。」
「ああ、青梅で会った白蛇が来たのだ。」
 征士はさきほどまで起きていたことをつぶさに説明する。頷きながら聞いていた当麻は何度か険しい表情を浮かべたが、夜がそれを隠してしまった。
「陰陽寮に連絡しなきゃならないんじゃないか?」
 遼が言うと当麻が反射的に頭を振った。
「いや、この件は内密にしておこう。」
「どうしてだ?」
 当麻の視線が束の間、二人から逃げて庭の灌木の茂みに向けられた。
「北辰結界の直前にこんなことがあったなんて知ったら、陰陽寮の人間は俺たちをもっと束縛するかもしれないぞ? 第一、ここには結界が張ってあるのに白蛇と女は入って来たんだろう? そうなるとゲストハウスにもいられなくなりそうじゃないか。」
 なるほど、と二人は頷いた。
「ところで秀と伸は?」
「ああ、安全が確認ができるまで家の中で待機してる。俺たちの方も大変だったんだ。突然、停電してブレーカーにも異常がないことを確認して、お前らを呼びに行ったらいないだろ。で、探しに出ようと思って玄関のドアを開けようとしたら開かなくてさ。これは何か起きたなと思ったわけだ。」
「なるほど、やはりあの女の狙いは私と遼だったわけだ。」
 征士が竹刀を地面に突き立てた。
「とりあえず、お前らが無事で何よりだ。伸と秀が心配してるから家に戻るぞ。」
 当麻がゲストハウスに向けて歩き始めた。その後ろを少し離れて征士と遼が続く。
「なあ、征士。」
「どうした?」
「俺、ずっと征士のこと信じてるから。」
 遼が征士の手のひらを握る。征士はその手を強く握り返して声にならない返事をした。

真夏の鳴動、最終回です。どうもありがとうございました。糖度高くて苦手な人はすみません。続きはブログにて。