第46話 真夏の鳴動(4)

 真夏の鳴動(4)





 午前九時四十五分の真夏の陽の光を受けて散水用ホースの先から出る水の粒が、庭の濃い緑色のツツジや沈丁花や藤棚の瑞々しい枝葉を濡らす。征士が黙々と水を撒いていた。緑と光は彼の領分だと伸から任された仕事を征士は一度も手抜きしたことはないが、遼がいなくなってからは緑たちにひそやかな笑みを向けることもなく機械のように散水ホースを動かすだけだった。
 それは今日も変わらず、虚ろな目でぼんやりと宙空を見つめたまま藤棚に水を撒いている。多過ぎる水に苦情を言うように、藤棚から大量の雫が垂れ落ちていることに征士は気づかない。
 散水用ホースで水を撒く征士の姿を見て「征士が超流破を操っているみたいだ」と大笑いしたのは遼だった。そんなことはない、と大真面目に否定しても遼は笑うのをやめなかった。
 この春、四月に再会してからまだ四ヶ月しか経っていないのだ、と征士は心の中で呟く。たった四ヶ月、その間に遼は目の届かないところにさらわれてしまった。桜の下で過ごしたぬくもりに満ちた時間と交わした約束が征士の心を千々に乱れさせる。ホースから出る水を鈍い動きで止めて征士は空を見上げた。じっとりと汗ばむ額をタオルでぬぐう。ゲストハウスに張られている結界の外は薄い灰色の瘴気が漂い真夏の青空を濁しつつあった。
 一通り仕事を終えて屋内に戻ろうとしたときだった。先ほどまで水を撒いていた庭に何者かの気配を感じた。紫色の硬い視線を濡れた緑たちに走らせる。
 宝のありかを示すように一房だけ時期外れの花をつけている藤棚の下の空気がゆらりと揺れた。
 そこで征士の紫の硬い視線が止まり、息を詰める。睨み据えて全身に緊張を走らせる。身構えていつでも戦うことのできる体勢をとる。うっすらと緑に輝く光が征士の全身を覆っていた。
 藤棚の下で揺れた空気は、少しずつ形を取り始めた。曖昧な輪郭だが人の形をしている。時折、ゆらゆらと揺れながら赤の絵の具を水に溶かしたような色も浮かび始めた。
鋭い眼光で尋常ではない状況を見守っていた征士は、そのあやふやな幻のようなものから懐かしい気配を感じ取って、呆然とした。
「……そんなわけがない。」
 ぽつりと呟いて、息を止める。心臓が激しく存在を主張し始める。
 曖昧な蜃気楼はやがて、完全な人の形を成した。
 遼だった。
 右膝を地面に付き左膝を曲げて地面を踏んでいる。上体をまっすぐ正面に向けて今まさに立ち上がろうとしている瞬間のようだった。
「遼!」
 叫ぶと同時に征士は藤棚の下に向かって駆け出した。放り投げられた手拭い用の白いタオルが水に濡れた黒い土の上に落ちる。強く蹴られた大地に穿たれた足跡は征士を足早に追った。
「征……士?」
 蜃気楼から生まれた遼はぼんやりした表情で、初めてその言葉を口にするようにたどたどしく名前を呼んだ。何度も瞼を上げたり下げたりして周囲の様子を伺ったあと「本当に征士なのか」と言った。征士は応えず、遼の前で両膝を折ってその肩を引き寄せて抱き締めた。激情にかられた抱擁は数ヶ月の魂の飢えの表れだ。妖や異形がはびこる今、眼前に現れた「遼の形をしたもの」の真偽を確かめることもないままそれを「遼」と決めるのは征士らしくない。異形が彼の形をして侵入してきてもおかしくないのだ。真実を見極める天性を持っているとしても1ミリもためらわず抱き締めるという直情的な行動は彼らしくなかった。
 それだけ征士は遼の存在に飢えていた。
 明けぬ夜の暗闇に怯え陽の光を心から求める人々のように、征士もまた遼という光を渇望していた。仲間の前でその素振りを見せないぶん、彼の明けない夜は残酷だった。
 遼が消えた日からずっと征士には朝が訪れていなかった。その耳に朝を告げる鶏の声は届かなかった。常闇の中で声をあげずに慟哭していた。仲間の誰一人としてそれに気付かなかったのは、鍛え抜かれた精神力とわずかな理性がぎりぎりのところで征士を現実に引き止めていたからだ。
 たっぷりと水蒸気を含んだ都会の公園の夏特有の風がやさしく藤棚を揺らした。枝葉に宿っていた水の粒が朝の光を弾いてきらきらと二人の間に降り注ぐ。
「うわっ!」
 中腰のまま征士に抱き締められていた遼は、うなじから背中を走るひどく冷たい感触に驚き体勢を崩した。ただの水滴だとは今の遼は分からない。洞真の結界に閉じ込められていた間、彼の野生の五感は都会の人間のそれよりも鈍くなっていた。倒れかけた遼につられて体勢を崩しかけた征士は、肩を抱いていた両手を大地について一緒に倒れ込むのをどうにか避けた。
「征士……ありがと。」
「大丈夫か?」
 遼は仰向いたまま頷き、わずか5センチ上にある征士の目を見た。自分の姿を映し込んでいる征士の瞳が厳しさを含んだ紫水晶の色から自分だけが知っている桔梗色にゆっくりと変わる。それだけで、征士のまとう雰囲気はがらりと変わる。一人の戦士から一人の人間へ。戦う者から護る者へ。誰も知らない征士の姿をその目で確認してようやく、遼はあの結界から出られたのだと思った。征士のそばに帰ってこられたのだと知った。張り詰めていた緊張の糸が一気に緩み、全身を大地に投げ出して大の字になる。夏の太陽すら嫉妬するまぶしい笑みを満面に浮かべて言った。
「俺、やっと征士のとこに帰って来られたんだな。」
 ぴくり、と一度、征士の体が痙攣したかのようにひきつれる。藤の花の流した涙に似た何粒もの水滴を留めた黄金の豪奢な髪が頷きながら揺れた。大地から左手を離して右手だけでバランスをとって、征士は遼の頭をもう一度かき抱く。その耳元で震える声を押さえながら言った。
「おかえり、遼。」
「ただいま。」
 くったくなく笑った遼は右手で征士の頬を包み込んだ。濡れていた。その涙は藤が流したのか桔梗が流したのか、今は知らなくてもいいのだと、征士のためだけに唯一残されていた野生の勘で思った。



 玄関のドアが閉まる音を聞いて伸は征士が庭の水やりを終えたのだと思いキッチンから顔を覗かせた。
「おつかれ、せい……」
 言葉はそこでせき止められた。十時のおやつの準備の途中、手にしていたスプーンが手から零れてフローリングの廊下に硬い音を響かせた。近付けばすぐに飛び立ってしまう小鳥をおびえさせないような慎重な足取りで伸は彼に近付く。
「…遼なのかい?」
 そう言って一歩。
「ただいま、伸。心配かけちゃったな。」
 夏の王様が微笑む。伸にはその声は届かない。
「本当に遼なのかい?」
 また一歩。それより先に進むことがためらわれるという風に足を止めて遼をじっと見つめた。
「ああ、俺だ。」
 靴を脱いだ遼は廊下に上がるとそのまま伸の前に立った。細い左手をとって自分の胸の上にあてる。遼の鼓動が手のひらごしに伸に伝わる。
「ちゃんと生きてるぜ。戻ってこられた。」
「りょう……」
 伸の他には誰も発音できない音でその名前をしっとりと呼ぶ。残されたもう片方の手のひらと小さな頭を遼の胸にあずける。
「おかえり。待っていたよ。」
「……伸、申し訳ないんだが。」
 伸が甘い呼吸を何度か繰り返したあと遼の背後から声がした。伸が遼から体を離す。征士がいつにもまして無表情を決め込んで二人を見て言った。
「遼の服が汚れているから一度風呂に入って着替えた方がいいと思う。」
 驚いた伸は改めて遼の服を見た。見事に泥だらけだった。

 ラベンダーのほのかな香りが五つのティーカップから立ちのぼりリビングの空気をやわらげている。カップの隣には焦げ目の綺麗なスコーンが添えられて早めの昼食の時間を告げている。 
 遼が帰って来たことに一通りの驚きと喜びに湧いたゲストハウスは次の課題に直面していた。
 結局、遼をさらっておきながら何の要求もせず危害も加えることもなく帰した人物とその意図が掴めないのだ。
「改めて聞くが遼は一体、今までどのような場所にいたのだ?」
 言ってから征士はティーカップを置いた。
「うーん、それが俺にもうまく説明できないんだよな。」
 必死に考えるように首を傾いだあと遼は続けた。
「とにかく、広さとか高さとかそういうのがまったくないまっ白な空間に閉じ込められていたんだ。唯一さわれるのは床だけで、そこもひどくなめらかで何ひとつなかった。本当に白以外の何色もない場所で俺はそこにいる間、全くお腹も空かなかったし眠くもならなかったし疲れなかった。おかしいだろう?」
「なんだよ、それ。ぜってー『この世界』じゃないよな。おい当麻、お前、最近、そういうのばっか調べてるんだろ? 何か心あたりはないのかよ?」
 バタースコーンを手にした秀が当麻に訊く。同じくレーズンスコーンを口に運ぼうとしていた当麻は手を止めて四人の顔をぐるりと見渡してから、隣の家の子どもの受験について話すような熱のない声で言った。
「そうだな。確証はないが今世間を騒がせている神隠しにあったんじゃないか。」
「そんなんじゃない。」
 強い声で遼が当麻の意見を遮る。
「一回だけその空間の中に人が現れたんだ。四十歳くらいの男の人が。呪術師とかそういう人には見えなかった。ものすごく普通の人だったから俺、余計に驚いたんだ。その人は『北辰結界』のことを知ってた。賭けに勝つために『北辰結界』を阻止しようとしていると言ったんだ。」
「その男は洞真法人というのではないのか?」
「名前まではわからない。話したのはほんの十分くらいで一度きりだったし。」
 征士に訊かれて遼が素直に答える。二人のやり取りをちらと視界の端に入れて当麻は言った。
「洞真法人って吉祥寺あたりで見通占をやっている占い師だろう。」
「当麻、会ったことあるのかい?」
「いや、噂だけだがな。ただの占い師が遼をさらってそんな特殊な結界に閉じ込めたり『北辰結界』に関わったりしているとは思えないな。それだけの腕があるなら大物政治家専属の呪術師になればいい。この国の権力者は妙なところで非現実的なところがあるからな。」
「洞真法人という人は……本当にただの占い師、だけなのかな?」
 当麻の隣で伸がぽつりと呟いた。水面に言の葉が投げ込まれリビングにさざなみのような静けさが訪れる。
「僕は一度会ったことがあるんだ。こっちに来て一ヶ月くらいにときに、サンロードでナスティと一緒に観てもらったんだけど。なんて言えばいいのかな。確かに見た目はすごく普通で呪術者っていう雰囲気も何もなかったんだけどね。ほんの一瞬だけなんだけどすごく怖い目をしたんだ。あの目は普通の人じゃないと思う。」
「街角で占い師をしているくらいだから少しくらい普通の人間と違うところもあるだろう? 特に人間の顔の中で目というのは印象付けられるから余計に伸の記憶に残っているだけじゃないのか。」
 当麻の言葉に伸は首を振った。
「今思い出したんだ。そのとき、洞真法人という人は僕たちに『皇居の鬼門には本物の鬼がいる』って忠告してくれたんだ。言われたときは全く意味がわからなかったけれど、皇居の鬼門って、つまり陰陽寮のある気象庁が建っている方向だよね。」
「今の皇居、つまり江戸城の鬼門、正確には鬼門封じは一般的には上野山寛永寺と神田明神だ。気象庁が皇居から見て東北に位置するのは偶然だろう。そんなことを言ってたら皇居から見て東北方向にある建物全部が鬼門封じということになる。」
 カチャリ、とカップを置いて当麻は続けた。
「それにみんな、忘れたのか? 俺たちが今までどんな奴と戦ったか。天狗や鬼や蛇、あんなやつらが北辰結界を狙って出て来たんだぞ? なのになんで遼は無傷で帰って来られたんだ? 辻褄があわん。」
「言われてみればそうだよなあ。」
 秀が腕組みをして唸った。
「すまない。俺がもう少しあの結界の中でいろんなことを調べてこられれば良かったんだ。」
「いいんだよ、遼。君は無事に帰ってきただけで十分だよ。」
 なだめすかすように伸は遼に言う。
「当麻。」
 征士がきつく射貫く視線を当麻に向ける。
「なんだ?」
「お前、真犯人を知っているのではないか?」
「俺が? なぜだ?」
「いや、お前の口ぶりはどうも何かを知っているような感じがするのだが。」
 しらじらと間があいて、当麻は芝居がかった溜め息をついた。
「俺が知っているくらいなら、陰陽寮の有能な方々が先に遼を見つけてくれていたはずだろうさ。」
 吐き捨てるように言って、当麻は残り一口のスコーンを口に放り込むと席を立った。
「当麻、どこに行くんだい?」
「悪い、今日、渋谷で仕事の打ち合わせが入ってるんだ。ああ、夕飯はいらないから。」
 言い残して当麻は四人に目もくれずにリビングをあとにした。
 居心地の悪い静けさだけが残り誰もが言葉を探している中、伸が何かに気付いたように当麻の飲み干したティーカップを手に取った。
「さっきの当麻、おかしかったよね。」
 その問いに返事はない。伸は独り言のように続けた。
「僕、遼が帰ってきたから嬉しくてうっかり五人分のハーブティを用意したけど、こういうとき、いつもの当麻なら珈琲が飲みたいっていうはずなんだ……」

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