真夏の鳴動(3)
翌日、当麻が指定されたカフェに着いたのは夕方六時五十分を過ぎたころだった。外から伺うと店内はほぼ満席だった。外国産の色とりどりのビール瓶で飾られた入り口で当麻がためらっているところにポニーテールに白いシャツ、濃い緑のカフェエプロンの小柄な女性がやってきて当麻に声をかけた。
「こんばんは。お一人さまですか?」
「ええと……」
先に電話の主が来ているかどうかは分からない。一人ではないことは確かだ。相手は自分の行動を察知できるのだからどこにいても分かるだろう。そう思い当麻は「一人です」と答えた。
「それでしたら、奥のカウンター席が空いてますので、そちらにどうぞ。」
案内されて店内に入る。
通路から店に入った途端、視界が狂った。まっ白な空間に、人や机や額縁やグラスや店のあらゆる事象のすべてが、黒々としたインクで綺麗に描かれた線だけになって動きを止めた。
動けるのは自分だけか、と確かめるように当麻が右手を二度握って開いたときだった。
「こちらに席を設けてある。」
奥から電話と同じ声がした。ちょうど、柱の裏側になっていてその姿は見えない。音の出所だけをたよりに、当麻は慎重に歩みを進める。店内の真ん中にある一番大きな柱、といっても、今はまっ白の、線だけで描かれた柱の横の二人席に男の姿があった。非常に印象的な光景だった。モノクロの映画のフィルムの中で林檎だけが命を与えられ真っ赤に描かれているくらいにインパクトがあった。男には色彩があったのだ。線の椅子の上にまるで宙空に浮いているように座っている男は、白いシャツの上に黒に近い緑のジャケット、ごく普通のジーンズというありふれた格好だった。こういう特別な空間でなければ記憶の片隅にすら残らないようなひどく平凡な服装だ。そこに加わる顔の造作もまた、一度や二度会っただけでは絶対に覚えられないであろう凡庸な四十代のそれだった。ただ眼だけが、眼窩におさまる眼球の黒い部分だけが異質な粘り気を帯びて当麻の方を見ていた。
「安心して欲しい。君に危害を加えることはないから信用して席に着いてもらいたい。」
「本当に用件は南方火気のことだけなんだな?」
男が手で促すとおりに黒い線だけのテーブルを挟んだ向かいの、こちらもまた黒い線だけの椅子に座りながら当麻は尋ねる。
「南方火気のことがひとつ。それと、君たちにとって有用な情報をひとつ。こちらからは何も要求しない。その必要はなくなったのでね。」
『要求しない』『必要はなくなった』。男のその物言いに当麻は相手に悟られぬようほんのわずかな時間で思考を重ねた。表向きは見通占をし、その実はかつて在野で活躍した陰陽師の末裔であるかもしれない男。自分たちの敵であるかもしれない男。その彼がなぜ、こんなにあっさりと全てを投げ出すような言い方をするのか。それともこの言葉に裏があるのか。
「とりあえず君とは初対面……いや、本当は私は一度会っているんだが、君は初めてだろうから自己紹介というこう。洞真法人という。こんな地味ななりでもそこそこ当たると評判の街角の占い師だ。」
「そんな地味な占い師がこんな術を使うのか?」
皮肉めいた口調で当麻が返すと洞真は口の端を少しつり上げた。
「なるほど。陰陽頭からの情報通りだ。君は世界を論理で切り分ける種類の人間だろう。」
「何が言いたい?」
「君のような人間は、歴史の中で民間に流れた陰陽師の行く末を文献上の文字で確認しないとその存在を認められない、ということだ。」
当麻は唖然として洞真を見た。ここしばらくの自分の動きを誰かが観察していることなど思いも寄らなかったのだ。だから、陰陽頭、という重要な言葉に反応できなかった。
洞真は当麻の反応など知らぬ風に、黒のインクで描かれたストローを口にして黒い液体を飲んだ。アイスコーヒーなのだろう。テーブルの上にストローの入っていた紙袋が丁寧に1センチ四方の正方形に折られており彼の性格の一面を伺わせた。
「君はとても頭がキレるし勉強熱心だ。敬意に値する。ただひとつ忠告しておこう。君が今、知りたがっていることのほとんどは、国会図書館や神田古書街やどこの大学の文献にも存在しない。多くの文献は偽書である可能性が高いし正史だと言われる文献は勝者の文献だから正しくは記されていない。つまり君は、どれだけ勉強してもこの……私たちの世界を理解することはできない。その最たる例が、この私だ。」
「つまり、あんたが民間に流れた陰陽師の末裔と言いたいのか?」
「そうだ。しかも安倍晴明を殺害したという悪評の高い芦屋道満の直系の子孫だ。まあ、所詮伝説にすぎないがね。」
芦屋道満。その名を当然当麻は知っていた。宮廷でその才を発揮させた安倍晴明の影ともいうべき存在だ。数々の文献に出てくる彼にまつわる話は伝承した者たちの悪意さえも感じさせるほど惨めだ。
その血を受け継ぐものが目の前にいる。その事実に当麻は息を浅くして全身を強ばらせた。蛇や鬼といった異形が存在し、陰陽寮は名前を変えて政治の中枢に組み込まれ、そしてまた芦屋道満の子孫と名乗る男が現れた。阿羅醐と戦ったときは人間界とは違う層の世界であったからまだ受け入れることはできた。けれども、今、当麻が向き合っている状況は、インターネットで世界中が繋がり、民間の会社が宇宙旅行プランを発売し、遺伝子構造から特定の疾患を調べることが出来る、0と1が織りなす科学技術が支える完璧なまでに美しい現実に、突如、正体不明の曖昧模糊としたわけのわからないものがおどろおどろしく沼の底から噴出したようなものだ。それは、当麻の思考パターンの範疇外だ。だから当麻は、恐怖した。
「さて、これで私の方の自己紹介は終わった。長い前置きに付き合わせてしまったね。本題に移るとしよう。その前に、君に約束して欲しいことがある。」
「約束?」
「話すと長くなるので簡潔にいうと、実は私自身も今、かなり危険な状態に置かれている。どの呪術者や異形に狙われてもおかしくないほどにね。特に……ある異形は私の生死など人差し指一つでどうにでもできるほどだ。だから、彼らからこちらが見えたり聞こえたりしないように特殊な結界を張った。強力な結界ほど発動条件が厳しくなる。この結界の発動条件は、結界内部の人間はここで起きた事象のすべてについて、外に漏らさないこと。仮に漏らした場合は私も君も死ぬことになる。つまり、ここで見たり聞いたりしたことを君は絶対他人に言ってはいけないということだ。それを承知してくれるなら、この先にすすもう。」
一分ほど当麻は洞真の言葉を吟味して頷いた。
「分かった。あんたを信じちゃいないが、こちらに何の情報も要求しないというのであれば問題はない。」
洞真も頷いて話をすすめた。
「まず、南方火気のことだ。いきなりこんなことを言ってもおそらく信じてもらえないだろうが、私は陰陽頭の幸頭井と密約して北辰結界の創成を妨害する役目を引き受けた。」
「ちょっと待て。北辰結界の創成を俺たちにもちかけたのは陰陽寮だぞ? なぜその陰陽寮がお前にその妨害を指示したんだ?」
「違う。陰陽寮ではなく彼らのトップの『陰陽頭』の幸頭井とだ。密約のおおよその内容はこうだ。私がもし、北辰結界の創成を妨害できたなら、私を含め、民間に流れた陰陽師の末裔たちを陰陽寮に迎え入れると。歴史の中で常に権力の影にあった『陰陽師』の、そのさらに闇に属する私たちに力を発揮する場所を与えてやると幸頭井は言った。だから私はその役目を引き受けて、北辰結界の北斗の要である南方火気をさらった。ついでにいうと、金烏玉兎の再生の儀の時にも邪魔させてもらったが、君に止められた。」
幸頭井と密約をした……その言葉に、当麻は腹の底にすうっと冷たい鉛を流し込まれたような気分の悪さを覚えた。洞真の言葉の信憑性はともかく、陰陽寮は敵か味方かという疑問に対する答えの一片に触れたような気がした。
「勘違いしないで欲しいが、私と密約を交わしたのは幸頭井本人の意志であって陰陽寮の意志ではないということだ。幸頭井以外の陰陽寮の人間は、おそらく切実に北辰結界の創成を願っているはずだ。」
「腑に落ちないな。なぜ、幸頭井はこの病んでしまった都市を回復させるための唯一の手段であるはずの北辰結界を無効にさせるようなことをお前に頼んだ? それとも、北辰結界はさほど重要ではないのか? そして……お前はなぜ、そこまでして『陰陽寮』に入りたいんだ? それほどまでに『陰陽寮』という組織は魅力的なのか?」
まくしたてるような当麻の質問に、洞真は苦い笑いを零す。
「君のように世界も人間の心も数式で表せると思っている種類の人間にはなかなか説明が難しい質問だな。まず、ひとつひとつ、答えていこう。
幸頭井が北辰結界をどう捉えているか。これはあくまでも推測だが、北辰結界は確かにこの危機に瀕した街を護るだろう。が、同時に、『陰陽寮』は北辰結果を完成させてしまうことで、取り返しのつかない『代償』を払うのではないかと思う。幸頭井はこの時代には類のない予見者だ。だから、それを知って表向きは北辰結界でこの街を護ると言いながら、別の術を用意して都市を護り『陰陽寮』を維持したいのではないか。だから私と密約を交わすときに、北辰結界の守護がなくとも別の手段を講じてあると言った。だが、やはり私自身が調べた限り、この都市の現状を打破するには、北辰結界が一番有効ではないかと思う。」
「なぜそう思う?」
「それを嫌う化け物に会ったからね。」
淡々と語っていた洞真の表情が、その言葉を発する瞬間だけ何か目に見えないものを怖れるようにぴくりと引き攣れた。
「そして『陰陽寮』が魅力的かどうかというのは、こちらも難しいな。この件について君を心から納得させるためには千年以上の歴史を振り返らなければならない。だがあいにく、そんな時間はないので手短かに説明させてもらうよ。
君はこれまでの人生の中で、『その他大勢』とは少しちがう種類の人間とすれ違ったり出会ったりしたことはないかい? たとえば、一しか伝えていないはずなのに十のことが分かってしまう、勘がいいというよりも本当に相手の心を見透かしているような人間。電車のつり革を触れられないくらい過度に神経質な人間。自らの世界を閉じて引きこもって家から出られない人間。幻聴や幻覚が見えてしまう人間。明らかに社会に適応できていない、そんな『異質な人間』と君は一度も出会ったことはないかな?」
「なくはない。知り合いにいるわけではないが、そういった社会不適応な性質を持つ人間の存在は知っている。ただ、俺はそういった人たちは社会に適応できていないのではなく、社会の側が受け入れるシステムを持っていないだけだと思っている。」
「『受け入れるシステム』、なるほど、君らしい発想だ。」
喉で笑って洞真は続けた。
「ではもうひとつ。『陰陽寮』が名前を変えて現在まで存在していたことについて君はどう思ったかい?」
当麻の脳裏に幾人かの姿が過る。記憶にある彼らは皆、一様に『異能』ゆえに許された白い浄衣姿だった。
「確かに最初は驚いた。しかし今は彼らに対して偏見は持っていない。住んでいる世界が違ったり見えているものが異なったりするのは、大企業に入社して会社に縛られるか自分で起業して会社を運営するかの違いのようなもので、別に彼らが特別だとは思わない。」
「君にかかるとあの『陰陽寮』も形無しだな。」
ひどく愉快気に洞真は笑って、ストローをもてあそんだ。
「知っての通り、『陰陽寮』は公式記録には明治二年に廃止されている。ちょうど百四十年前のことだ。けれど飛鳥時代から連綿と受け継がれてきた秘儀秘術というものはたかが百年やそこらで断絶することはなかった。そしてそれは、陰陽寮以外にも言えることだ。民間の陰陽師や修験者は明治の王政復古までは暗黙の了解のうちに公に認められていたんだよ。それが明治になって『明治政府により廃止された』。この意味は君なら分かるだろう。つまり彼らや彼らの術も能力もたかが百四十年やそこらで消えるはずがないんだ。私やその仲間のようにね。」
当麻が必死で文献で探していた内容を、洞真はさらりとまとめて答えた。
闇の系譜をひく呪術者は絶えてはいないのだ、と。
平凡な顔にはり付いた粘り気のある湿度の高い二つの黒い目が当麻に問うようにじっと見る。
「明治時代、日本は日本古来の様々なものを捨てて諸外国に追いつこうとした。たかが極東の小国にすぎない国が戦争で勝利するくらいにね。そして太平洋戦争での敗戦。その後の高度経済成長期。やはり日本は日本であることを捨てて、白人西洋資本主義社会に追いつこうとした。まあ、こんな歴史を君に説明するのは野暮だと思うがね。その百年たらずの間に日本人は忘れてしまったんだよ。『異能』や『異形』は自分たちのすぐ隣に当たり前に存在していたということをね。」
「つまり、『異能』や『異形』は今この社会にも普通に存在しているけれども、俺たちの方が変わってしまったために見えなくなったと言いたいのか?」
当麻の問いにほんの少し間をおいて洞真は答えた。
「見えなくなったのではなく、認められなくなったんだよ。古来より盲は預言者だった。今の社会ではただの肉体的弱者だろう? 先にあげた『精神疾患』に分類される人間の何割かも、元々『異能』の力を持っている。けれども最大公約数的ふるまいを求められるこの社会でその力を封じられて、本来の力を発揮できずねじまげられた生き方をしている。何錠もの薬を投与されて手足を縮こめて社会の常識の影で怯えているんだ。もちろん、それだけじゃない。そういった自分の『異能』の力を客観的に自覚した者の多くは、その力をひっそりと生かして生業としている。私のように辻占をやるものもあれば、カウンセラーやセラピストになったり新興宗教の教祖になったりしてね。そうやって、生き抜いている。
不公平だとは思わないか? 『異能』の力でこの国の権力の中枢に取り入っている陰陽寮の人間がいる一方で、その『異能』のせいで苦しむ人間がいるというのは。彼らの背負う闇の深さを君は想像できるか? 自分の能力について何も分からず相談する相手もなく、世界でたったひとりであるというその恐怖を。そんな人間を私はたくさん見てきたんだ。
だから私は幸頭井と密約を交わした。私の知る多くの『異能』の力に光をあてて彼らに生きる場所を、つまり『陰陽寮』という場所を与えたかったんだ。南方火気……真田遼、彼をさらったのはそういう理由からだ。」
そこまで言うと、洞真はすべて話し終えたでもいうように半眼を閉じて大きく深呼吸した。静かな面はひどく年老いて見えた。
当麻は瞼を閉じるのも忘れて洞真の話に深く聞き入っていた。そして想像する。緻密に設計された都会で己の力に怯えながら毎日を送る孤独な人々。彼らの気持ちは決して理解できない。自分が鎧戦士であることを仲間以外の誰とも共有できないのと同様に。
「それで……今日、俺をここに呼んで、南方火気をどうするつもりだ?」
「君たちのもとに帰す。」
「幸頭井との密約を破棄するのか?」
「そうせざるを得なくなったのでね。」
洞真は線だけで描かれたストローに手を伸ばして、その先を話すのがためらわれるという感じでコップの中をかき混ぜた。カラカラリと透明な音が白い空間に響く。
「私の他に、北辰結界の創成を望んでいない者の存在を君は知っているか?」
当麻は答えないことで洞真の問いを肯定した。予想通りだった。北辰結界に絡んでいるのは、自分たちと陰陽寮とそれと敵対する第三者、そんな単純な三角関係ではないということがはっきりした。
「その存在に釘を刺されたんだ。これ以上、北辰結界に関わるなと。関わるなら命はないと思えと。私も呪術者のはしくれだ。彼我の力の差はわかる。まあ、正確にいうなら相手はまっとうな人間ではないのだから力の差というよりも人間と異形の力量の違いというのが正しいな。」
「異形? それは鬼や天狗といったものか?」
当麻は記憶を辿ってここ数ヶ月に出会った『異形』の存在を頭に浮かべた。青梅で出会った巨大な白蛇。銀座で出会った幻術を使う天狗。神田明神で出会った黒いスーツをまとった鬼。彼らの全てが当麻の想像を凌駕する異質な力の持ち主だった。そして確かに、彼らの力と目の前の洞真法人と名乗る男の力とは違うと肌感覚で納得する。
「いや、そんな分かりやすいものではない。あれは……そうだな。神を使役する力を持つ、神に近い化け物だ。」
言って洞真は、自分の言葉に怯えるように息を詰めたあと、軽く首を振った。
「まあ、つまりこの強力な結界はその化け物対策のために張ってある。先程も言ったが、あの化け物はその気になれば指先ひとつで不都合な存在を消してしまう力を持っている。」
「ちょっと待ってくれ。さっきから化け物だ化け物だとあんたは言っているが、そいつは人間じゃないのか?」
「いや、見るのが憚られるくらいに美しい人の形をしている。君も名前くらいは聞いたことがあるんじゃないか。最近、話題の日本画家、千早樹、彼だ。」
千早樹。
その名前が当麻の鼓膜を震わせた途端にぬるい汗が背中を伝った。ずっとずっと、心の奥底で警告の赤いランプが灯っていたその人物の名前が当麻の心の内側からずるりと音を立てて這い上がる。
「……どうしてその化け物が千早樹だと?」
「さっきも言っただろう。彼に呼び出されて北辰結界に手を出すなと釘を刺されたんだ。そのときはあまりにも恐ろしくてね。相手が誰なのか私はさっぱり分からなかったが。あとになって気づいたんだよ。千早樹だと。そしてここからは呼び出されたときの状況から私が推測することになるが、千早樹は諏訪大社上社と何らかの繋がりがある。彼のことを調べるなら諏訪に行くといいだろう。諏訪は古来、ヤマト朝廷すら一目おいていた聖域だ。何がでてきてもおかしくはない。なぜ、あの化け物が北辰結界を妨害しようとしているのかも分かるかもしれない。」
「どうしてそんな情報を俺に言うんだ?」
「南方火気をさらってしまって、君たちに迷惑をかけたことへの謝罪だと思ってくれるとありがたい。」
洞真はうっすらと闇の呪術師らしくない静謐な笑みを口元に浮かべた。異質な雰囲気をかもしていた黒い粘度のあった眼球も、今ではすっかり秋の夜空のように澄み渡っている。洞真が芦屋道満の子孫、闇の呪術者の証拠であったはずの『闇』がすっぽりと抜け落ちていた。彼が全てを手放した瞬間だった。
「さて、こちらの話はすべて終わった。何か質問はあるかい?」
「ないな。そちらが今話したことがどこまで正しいかは俺自身が判断する。それでいいか?」
「せいぜい頑張ってくれ、命を落とさない程度に。さて、最後に君にやってほしいことがある。」
「やってほしいこと?」
洞真のあまりのおだやかな口調に当麻は呆気にとられてひどく間の抜けた返事を返した。
「この結界を君に解いて欲しい。」
ジャケットの内ポケットから5センチ四方に切った半紙を取り出して洞真は、当麻の目の前に差し出した。
「俺が結界を解く? 結界を張ったのはお前だろう?」
「ああ、最初に言い忘れていたんだがね。この強力な結界を作る条件は、この中でやりとりされた事柄の全てを外部に漏らさないことと、もう一つ、発動条件がある。この結界は作った者自身の呪力が働いている間は解くことはできない、という特殊な条件だ。つまり、君がここを出るには、私の呪力を削がなければならない。」
洞真の声はどこまでも落ち着いている。口にする内容とは裏腹に晩秋の夕暮れを思わせるように静かで、微量の寂寥感を滲ませていた。
「だから、この紙に私の呪力を預けてある。君はこれを破ればいい。そうすれば術は解けて君も私もこの結界から出られる。」
「本当に呪力を削ぐだけなんだな?」
当麻は目の前に差し出された白い紙を睨みつけ、その強い視線を洞真に向けた。
「そうだ。そして私は呪力を失ってただの人になる。この歳で仕事が見つかるかどうか分からないがまっとうな人間として生きていく努力はしてみるつもりだ。」
語尾を苦い笑いで濁して、洞真は白い紙をさらに当麻の方へと突き出した。
さあ、と眼前にまで突きつけられ、半ば強引に受けとらされたその薄く小さい半紙は、見た目を裏切って命を孕んでいるように重かった。当麻は驚いて問うように洞真を見たが、彼は無言だった。
……呪力を失った洞真を、陰陽頭や千早樹はどうするのか、少なくとも、事件の概要を知る彼をそのままにはしておかないのではないか。
「さあ、早く。」
当麻の逡巡を断ち切るように洞真が言った。言葉に操られるように当麻は白い半紙を破る。
半紙と同時に世界を破ってしまったかのような、ビリビリという大きく耳障りな音に鼓膜が痛み、当麻は目を閉じた。次に目を開けたとき、そこにあったのは音も色もない、まっ白な空間。
無。
その上空から秋雨のように真直ぐに声が降ってきた。
『都合のいいことを言うかもしれないが君には覚えていて欲しい。こんな生き方しかできない呪術者もいたんだということを。』
声の粒をかき消すように大きな笑い声がいくつも当麻の耳に飛び込んできた。次に食器のぶつかる音、せわしない靴音、歓談する人々の喧騒、オーダーを受ける若い女性の声。それらに気をとられているうちに、世界に色が戻り始めた。テーブルと椅子の濃い茶色、黒に近い緑の柱や壁、卵形のオレンジのシェードのかかったランプ、スタッフの緑のカフェエプロン。
当麻の五感が現実に戻る。
テーブルの向こうには誰もいなかった。ただ、グラスの半ばまで残ったアイスコーヒーと丁寧に折り畳まれた白いストローの袋だけが残されていた。
翌朝、当麻は征士の読み終えた新聞をリビングで見つけて、なにげなく目を通していた。その紙面のほんの片隅に小さな記事を見つけた。
「下北沢で四十代男性の変死体発見」
……下北沢のアパートの一室で今朝未明、身元不明の男性の変死体が発見された。男はあぐらをかいたまま死んでおり、足元には割れた水晶の玉が散らばっていた。
リビングのテーブルに新聞を戻した当麻は椅子に深く腰掛けてしばらく俯いたまま、熱くなる目頭を右手のひらで覆っていた。
読んでくださりありがとうございました。続きはブログにて。

