真夏の鳴動(2)
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ところどころ塗装がはがれ、くすんだ鼠色のコンクリートの色が見える千石大学文学部キャンパスの研究棟の三階にある元柳生博士の研究室を当麻が訪れたのは、伸が夜遅く帰ってきた日の翌日だった。研究室とその資料は柳生博士の死後ナスティが引き継いだので、現在はナスティの名義になっている。千石大学の蔵書のうち、研究者しか閲覧できないいくつかの文献(もちろん大学外に持ち出しは禁物の)を借りるためにナスティと会う約束になっていた。
「ナスティ、入るぞ。」
ノックをして返事も待たずにドアを開ける。とそこに、意外な人物を目にして当麻は立ち止って中にはいるのをためらった。
「あら、羽柴君。」
元気なショートカットと年齢に相応しくない美貌の持ち主の研究者が、ワインレッドの唇を薄く動かして当麻ににっこりと笑いかけた。
「……あ、どうも。」
もごもごと答えてから、当麻は後ろ手にドアを閉めて研究室に入った。
八畳より少し広いくらいの部屋の壁面すべてに書籍やら紐綴じの文献やら果ては巻物までがところ狭しとつめこまれている。決して並んでいるという感じではない。今にも落ちてきそうなくらい紙束が溢れている。その本棚に囲まれて四人くらいが座れる長机とパイプ椅子。奥にナスティ専用のデスクトップパソコンが見える。密閉された空間に古い紙の匂いが充満していて、その中にふわりとただよう柑橘系の香りが無彩色の研究室に艶やかな色を落としていた。その香りの持ち主が誰なのかは当麻は聞かずとも分かった。
「ええと、ナスティ。乃千先生がどうしてこちらに?」
二人の女性に視線を往復させて、当麻は尋ねる。記憶にある限り、ナスティと乃千清美は一度しか合っていないはずだった。
「個人講義を受けていたのよ。」
ふふ、と満足そうに笑うナスティの答えに当麻は心の中で首を傾げた。勉強熱心なナスティが講義を受けているのなら、ノートやボールペンやICレコーダー、講義に関する本、そういったものが机の上に並んでいるはずだ。しかし、今、机の上に並んでいるのは、古びた研究室に咲いた花のように鮮やかな橙色の二つのティーカップと、クッキーの並べられた白い皿だった。これでは講義ではなくただの女性同士のお茶会である。
「で、何の講義なんだ?」
「対馬の天道信仰についてよ。先生、縄文以前の古代信仰についてもお詳しくいらっしゃるの。」
言いながら、ナスティは当麻に自分の隣の席を手で示して座るように促した。
「当麻は珈琲でいい? 知ってると思うけど、ここの珈琲はまずいわよ?」
「飲めりゃいい。」
返事を確認してからナスティは研究室を出て行っていって、三分ほどで黒いインクを煮詰めたような色の珈琲の入った茶色のマグカップを手にして帰ってきた。それを当麻の前に置く。一口舐めて当麻は「やはりここの珈琲が一番まずい」と思った。
「羽柴君は珈琲派なの?」
清美のひどく親しげな声音に違和感を覚えつつ当麻は答えた。
「ええ、まあ。」
「研究者に限らず男の人って珈琲派の人が多いわよね。うちの旦那と息子もそう。息子は旦那の影響を受けただけなんだけれど。三人とも、行きつけの、しかも店長の気まぐれでしか開かないお店の珈琲豆で煎れた珈琲しか飲まないの。だから切らさないようにするのが大変。私は紅茶派だから、朝食の準備も珈琲と紅茶を準備しなくちゃならなくて、それも結構面倒なのよね。女性の朝の忙しさを知らないのよ。」
研究者としての清美しか知らなかった当麻は、その彼女の口からいかにも特定の男性の妻らしい言葉を聞いて面食らった。そして、いそいそと朝食の準備をする清美の姿を想像しようとして失敗した。彼女のかもしだす雰囲気はやはり家庭とはほど遠かった。
「分かります。うちの啓介も珈琲が好きなのに酸味の強いの苦手で、いつもイタリアン・ローストかモカマタリなんかを選ぶんですけど、それも当たり外れがあってたまに文句を言われるんです。」
笑顔を零したナスティが今にも身を乗り出しそうな勢いで清美に同意する。憧れの研究者と研究以外のことで話題が合ったことが嬉しいらしい。「男の人って我がままよね」と清美が溜め息をつくと、ナスティがそうですよね、とうなずいて当麻をちらと見た。それに気づいたのか、清美も当麻の方を見て何かに納得したように頷いた。
「羽柴君って可愛いわよね。もう一度結婚できるなら、羽柴君みたいな子がいいわ。」
「は?」
「それが贅沢ならせめて息子にしたいくらい。」
唐突な言葉に当麻は口に含んでいた珈琲の液体を喉に詰まらせてむせ込んだ。
「ええと、乃千先生、おっしゃってる意味が分からないんですが。別に俺だってまずい珈琲を好んで飲んでいる訳じゃなくて、ここにはこれしかないから飲んでいるだけですよ。」
「そうじゃないのよ。」
清美は首を振って、カップに一度口付けて続けた。
「愛する人のためならなんだって面倒だなんて思わないわ。私はね、旦那とは家同士の許嫁だったの。うちは代々、厚生労働省の官僚を輩出していて旦那は大手製薬会社の次男でね、今は専務よ。もちろん旦那に忠誠は尽くしているわ。でもね、自分で決めた相手でもないのに、愛せるわけがないじゃない。二人の息子だってそう。子育ては楽しかったわよ。成長していく息子たちを見守るのは私の生き甲斐だと思ったときもあったわ。でもね、息子たちが成人してそれぞれが家庭を持って一人の大人になったとき、だめだなあって思ったの。旦那の影が二人の後ろに見えるの。愛していない男の子どもを愛せるわけないじゃない。だから、面倒、なのよ。」
言ってから、清美は自分の言葉を飲み込むようにティーカップの紅茶をすすった。
「それに、母の私が言うのもなんだけれど、二人とも旦那に似て人に対する愛情が薄いの。私、一度も母の日にプレゼントをもらったことがないのよ。」
寂しそうに清美は笑った。応じる言葉が見つからずナスティも当麻も押し黙る。誰もがうらやむ美貌にも華やかな経歴にも必ず影がつきまとっているのだと、そしてその寂しげな影の形を本人から聞いてしまったのだと二人は思った。
「だからね、恋愛結婚の柳生さんや、誰かを護ろうと必死になっている羽柴君がとてもうらやましいわ。私、この歳まで一度もそういう経験をしたことないもの。そんな激しさを味わってみたいわね。」
「そんな……恋愛結婚だなんて、啓介と私は……」
口にしたビスケットの欠片を零しながら慌ててほおばって、ナスティは俯き加減に言った。ほんのりと頬を赤らめる。
「年齢的にもやばいなって思ってたときに、啓介が声をかけてくれただけで……」
「でも好きだったんでしょう?」
ナスティは女子高生のような幼い仕草でこくりと頷いた。
その様子を伺いながら、当麻は奇妙な感じを覚えた。
ナスティと乃千清美のこの距離。
そもそも乃千清美がなぜ、ナスティが結婚していて、しかもそれが恋愛結婚だと知っていたのか。このお茶会のような講義風景の意味するところは? 清美自身が自らの家庭事情を語ったのはナスティがそれを知ることを許される距離にあるからだ。つまるところ、当麻の知らないところでナスティと乃千清美は連絡を取り合い、このような講義と名のついたお茶会を繰り返し、研究者同士という立場から一歩踏み込んだ女性同士の関係になっていたということだ。
一方でまつろわぬモノたちを研究し、自分に「護りたいものがあるなら全力で護りなさい」と何かを知っているようなことをほのめかした乃千清美という女性は、はたして、信頼に足りうるのか。いや、正確には「どちら側の人間」なのか……。
思いに耽り、まずい珈琲の表面を眺めていた当麻の耳に軽やかな清美の声が続いた。
「ところで話は変わるけど、柳生さんと羽柴さんは幼なじみか何か特別な関係なのかしら?」
「幼なじみ、ですか?」
ナスティが裏返る寸前の声で言った。
「前々から思っていたのだけれど、あなたたち、研究者とその後輩にしては妙に親しく呼び合うでしょう? 『柳生さん』と『羽柴君』なら分かるんだけど、さっき、羽柴君がここに入ってきたときも、『ナスティ』ってすごく親しく呼んでいたから、ただの先輩と後輩にしては奇妙だなあって思ったの。」
そう言って、清美は二人の顔を視線で往復してからカップに口付けた。当麻はその視線にさらされて、一瞬、背筋に氷が走ったようなひやりとした思いをしてナスティに目だけで合図を送る。ここは任せる、と。
「ええと、当麻……羽柴君のお父さんが研究者で……」
ナスティが咄嗟に思いついた無理矢理な言い訳を阻止するかのように、ピロロピロロと電子音が鳴った。
「あ、俺です。すみません。」
ジーンズの腰ポケットに突っ込んであった携帯を取り出す。非通知だ。三秒迷って、当麻は通話ボタンを押した。ナスティと清美に外に出ますと手で合図をして研究室の外に出る。
研究室の廊下は水族館の底のようにひんやりとしていた。階段の柵に身を預けて当麻は携帯電話の向こうの相手に声をかける。
「はい、羽柴です。」
電話の向こうは人の多い所のようだった。人々の喧騒、食器の当たる音、大きな笑い声、何かをオーダーする声、様々な音が折り重なって雑然とした飲食店のような空間を想像させた。
「出てくれて感謝する。」
低い声が返ってきた。声の質から想像すると四十絡みの男であろうと当麻は思った。体中をピリピリと電気が走るような緊張が這う。何かの予感だった。
「南方火気について話がある。」
当麻は携帯をきつく握りしめる。どくんとひとつ、大きく心臓が跳ねる。運命という流れがあるなら、この電話はその『流れ』を変えるものだと当麻は直感した。
「分かった。それで俺はどうすればいい?」
「明日の夕方七時に、吉祥寺駅ビル中の『ロゴスカフェ』に来て欲しい。もちろん他言は一切無用だ。私は君の行動をおおよそ把握できる。たとえば、今、君が千石大学文学部キャンパスの研究棟の廊下にいることも。」
当麻は目だけ動かして周囲を見た。人影どころか虫の一匹もいない殺風景さだ。つまり、相手はそういうことができる呪術者の類だと当麻は理解した。
「分かった。明日、必ず向かう。」
電話は向こうから切れた。
征士や伸の言っていた洞真法人という男のいくつもの情報の切れ端が当麻の頭を過る。その容貌や能力を想像する。
通話時間五分二十五秒を示している携帯の液晶画面を見つめたまま、当麻はきつく唇を噛みしめた。
約三ヶ月ぶりの更新となりました。待っていてくださった方、本当にありがとうございます。続きはブログで。

