第43話 真夏の鳴動(1)


 八月の定期講演会から帰って来た千早は、白に近い鼠色の麻の着物の衿元に手を差し込んでほんの少し緩めた。猛暑日は今日で十日目の連続記録を叩き出している。街にはびこる瘴気や妖気ならともかく、年々、平均気温が高くなる東京の夏に、千早は辟易としていた。諏訪は夏は空気がさらりとしていて最高気温も三十度に届かなかった。山に囲まれ、湖を抱える盆地は、緑と水の涼に包まれていた。湖の上に小さな波を立てた風が、盆地の木々の葉の一枚一枚を揺らして守屋の山に帰る。そう、守屋の山に……。
「千早さま。」
 呼びかけられた声に、はっと千早が振り向く。開けられた部屋の扉の前で、千方が感情を表さぬ黒々とした目をほんの少し細めて千早に視線を向けていた。
「お体の具合はいかがですか。顔色がすぐれないようですが。」
 平板な声にやはり感情は籠らない。一語一語の継ぎ目がなめらかであることだけが、人工合成音よりも人間的であった。
「ああ、大丈夫だ。心配することはない。暑いからね、少し疲れているだけだよ。」
 嘘だった。感情を持たぬ千方に話しても無駄だという無意識が、真実を口にすることを千早に避けさせた。千早の体力を奪っているのは夏の暑さだけではなかった。『泡嶋様』の本体がここにあることを他人に悟られぬように屋敷全体に千早が使える呪の中で最も強力な術を施している。泡嶋様が新しい神話の主役として登場するには、まだ期が満ちていない。それまではここを他の誰にも気付かれないようにしなければならなかった。
「お飲物は何になさいますか?」
「麦茶でもいいけど……他に何かあるかい?」
「今日、千早さまのファンの方からいただいた品物の中にハーブティがありました。ハイビスカスとレモングラスとペパーミントです。どれもアイスでもいただけますが。」
 千早は黒のスーツ姿を爪先から頭のてっぺんまでじっくりと見て、小さく首を傾げた。
「家政婦から教わったのかい? いや……うちにはハーブティなんて置いてないはずだし。」
「先日、千早さまがお仕事の間、はす向かいの高野様のお宅で奥様主催のカフェ教室がありまして、その折に習いました。」
「千方は器用になるねえ。そのうちカフェでも開くつもりかい。お前が笑えば、人気店になりそうだね。」
 言ってから、千早は自分の言動におののくように体を硬直させた。その脳裏に千方の笑顔が浮かんだ。千方の、否、……兄の笑顔。それを目にすることは六歳のあの朝に、断たれたはずだった。だから、目の前の千方は、笑えない。笑えない千方は自分の鮮やかな想いの奔流に気付くはずもない。
 千早は千方に背を向けて、ハーブティを、と一言、頼んだ。 


 清美が千早の家を訪れたのは、ビル群の輪郭が昼と夜の境界線に縁取られるころだった。慣れた足取りで広い家屋を歩いて、南に面した部屋にたどり着く。
 縁側には、揺り椅子と、その隣で正座をする千早の姿があった。暮色の中、それは奇妙な取り合わせに見えた。
「千早、来たわよ。」
 朗らかに清美が声をかけると、千早が今しがた気付いたとでもいうように、ゆるりとその方へ顔を向けた。
「ああ、清美さん、お待ちしておりました。お忙しいところすみませんね。」
 そうしてまた、千早は正面に向いて、中庭にうすぼんやりと凝る宙に視線を戻した。
 清美の知っている千早は、極端な二面性を持ち合わせている。日本画家として背筋をぴしりと伸ばし、人好きのする巧妙な作り笑いをする千早と、千方の無償の奉仕に甘えるようにのんんびりとくつろぎ、己の欲求にはどこまでも素直な千早。しかし、目の前の千早は、そのどの側面とも違っていた。夕闇の色に溶けそうなほどに透明で浄化された神々しさをまとい、彼のいる周囲は踏み込み難い聖域のようだ。その圧倒的な存在感に清美はひるんで、次の一歩が踏み出せない。その隣に視線をやると、どこかで見たことのある揺り椅子があった。どこだろう、と清美が思いを馳せたとき、千早が背中越しにそれに応えた。
「お目覚めになった泡嶋様です。清美さんも、お会いしてください。」
 その言葉にうながされて、清美はおそるおそる、揺り椅子の前に移った。唐紅の着物に身を包んだ幼い女児が、すやすやと眠っている。けれども清美はその小さな体から発される尋常ではない霊気に思わず息を呑み、体が無意識に反応して『泡嶋様』の前にかしずいた。人が雨を乞うのに天に祈りを捧げるのと同じように、それは意識や理性とは全く関係のないところで行われた。
 清美は、『泡嶋様」の話をほんの少しだけ千早から聞いていた。
 曰く、『偽りの神話の中で葬られた真の日の神』だという。
 職業上、『泡嶋』という存在について清美が知るのは、現在の日本神話におけるイザナギ、イザナミ二柱の国産みにおいて二番目に生まれ損なった『失敗作』だ。ヒルコ同様、不具の子であったため葦の舟に乗せられ流された。記述はそこで終わる。神話研究においても現代まで取り上げられることもなく、唯一、折口信夫が流し雛との関連性を指摘しているだけである。 
 けれども千早は、その『泡嶋』こそが日の神であるという。その論拠については聞いたことはなかったが、今、こうして目の前に激しいほどの霊威を放ってなお、安らかに眠る存在を見ると、なんの根拠もなく、千早のいうことが理解できてしまう。
「清美さん。」
 声をかけられて、清美は我に返り顔をあげた。鳶色の視線がこちらを見ている。濡れたような朱色の唇に、微笑がはり付いていた。
「いかがです? 我らの神様は。」
「そうね……」
 言葉を探しながら、清美は揺り椅子の斜向かいに正座をして応えた。
「千早のいう通り、私たちの知ってる神話は偽りなのかもしれないわね。」
「ええ、それが、もうすぐ証明されるんですよ。だから、以前からお願いしてあったように、清美さんにも力を貸していただきたい。」
「それは約束だわ。私が私の欲しいものを得るためでもあるんですもの。」
 紫がかった夕闇がゆっくりと夜の色に染みてゆく。二人と揺り椅子が、灰色のシルエットへとうつろう。不思議なことに、千早宅ではミンミンゼミは全く鳴かず、ヒグラシだけが哀しそうに鳴いていた。
「それで、私にできることは?」
「泡嶋様が真の神として人々の意識に現れるのは、来年の正月です。新しい年に人々が迎える新しい神は、泡嶋様ではなくてはならない。決して、現在、流布している偽りの日の神であってはならない。そのために、邪魔になるものがひとつ。」
「……北辰結界ね。」
「そうです。あれは、泡嶋様の力を弱めてしまう。話によると、九月九日に祭祀が行われるそうです。それまでに、力を削いでおきたい。」
「つまり、あの五人を始末しろってことかしら?」
 清美の貌が、宵闇の中に白く浮かび上がった。瑞々しい面に凄惨な色が過る。清美の中の真の姿が、首をもたげたのだ。
「いえ、そこまではしなくていいんです。結界は七つの力で発動するらしい、裏を返せば、七つ揃わなければ発動しないのです。ですので、ひとつでいいのです。殺さなくても良い、ほんのちょっと、力を弱めるだけでも自信を失うだけでもかまわないんです。星がひとつ落ちればいいんです。」
「なるほどね。それなら、千方や花月じゃなくてもいいわけね。」
「すみませんね。清美さんにはご家族がいらっしゃるから、あまりお手を煩わせたくはないのですが。千方は今、私の補佐で手一杯ですし、花月は別件で使えないので。」
「いいのよ、そんな遠慮は。……で、ターゲットは誰かしら?」
 夕飯のメニューのリクエストでも聞くように清美は尋ねた。
「西方金気、伊達征士。五人のうちでおそらく今、一番、落としやすいのが彼です。小鼠が細工をして、彼の護ってきた南方火気と離されてしまいましたからね。精神的動揺は深いはずです。」
「なるほどね。」
 言って、清美は春の始めごろに千早から見せられた一連の資料の中から「伊達征士」のページを引っぱり出した。日本人のくせに金髪で紫色の瞳という風変わりな、しかし千早と違う意味で玲瓏な青年の写真を思いだす。
「詳細はおって、千方経由でお知らせしますので。」
「分かったわ。」
 頷いて清美は千早を見た。瞬間、目を見開いた。
 千早が突然、ぜいぜいと咳き込み、背を折って正座のままうずくまった。銀鼠の長い髪が板の間に這い広がった。
「千早! どうしたの!? 何があったの!?」
 見たことのない弱々しい千早の姿に、清美は悲鳴に近い声をあげる。それと時を同じくして背後の部屋の奥から人の駆け寄る足音がした。
「千早さま!」
 千方だった。相変わらずの無表情だったが、普段の彼ならありえない人間らしい焦りを感じさせる声でその名前を呼んだ後、くずおれた千早の華奢な体を抱き寄せた。
「千早さま、大丈夫ですか?」
「……悪いね、千方。どうやらエネルギー不足みたいだ。」
「ちょっと、千方、どういうことなの?」
 繰り広げられる光景を唖然として眺めていた清美が、ようやくその言葉を絞り出す。千方は、いつもの感情の色を持たない黒い瞳で清美を見て言った。
「千早さまは今、体力の限界のところで泡嶋様の霊気が外部に漏れないように術を施しております。本来ならば、立っているのもお辛いはずなのです。」
「その話はいい、千方。それよりも……。」
 血の色をなくした青白い貌をあげて、千早はか細い声で言ってから千方の頬に手を伸ばした。千方は「わかりました」と頷いて、千早の首の後ろと膝の後ろに手を差し込んで全く重さを感じさせず抱き上げた。そのままの格好で、清美を見下ろして言う。
「申し訳ありませんが、清美さん、半時ほど泡嶋さまを見ていていただけませんか。」
「え、ええ。もちろんだけど。大丈夫なの、千早は。」
「はい、少し時間をいただければ快復します。」
 そう言い残して、千方は清美に背を向けると部屋の奥に姿を消した。

 深い水底を漂っている千早の意識に、音が届いた。耳慣れた音だった。音はしだいに言葉になる。
「……さま、千早さま。」
 意識が音に釣られるように急激に浮上して、千早は目を開けた。見慣れた寝室だった。自分の体が布団に横たわっていると理解するまでに、数秒かかった。頭だけを左に向けて、そこに端座している千早の姿を認める。口元に笑みらしきものが浮かんだ。
「ああ、千方。手間をかけたね。泡嶋様はどうしてる?」
「清美さんに見ていていただいてます。」
「それは良かった。」
 言ってから千早は疲れ切った長い溜め息を吐いて、千方の黒々とした二つの目に視線をやった。その双眸にほんの少し艶が滲む。
「千方、わかっていると思うけど、頼むよ。」
「わかりました。」
 応じて、千方は微塵の躊躇いもなく千早の上半身を抱き起こした。やはり何の感慨も浮かばない黒の瞳を千早のそれに合わせてから、顔を近づけて口付ける。
 千方の肉体は、諏訪大社の御神体である守屋山の土を使って千早が兄を模して作った。ゆえに、気の元である守屋山がその霊力を削がれない限り、千方の体は無限の気を放つことができる。一方、千早の方は普通の人間とは言い難いが、体だけ言えば、一般人と変わらない。霊力においては他者を圧倒するが、霊力の元である「気」そのものは、無尽蔵ではない。現状のように、通常の何倍もの霊力を放ち続けるのは至難の技だ。だから、このようなとき、千方から直接、気を受けとるために口付けを交わす。
 細身の逞しい腕の中で、千早は少しずつ、自分の体の隅々に力が湧いてくるのを感じる。それと同時に意識も徐々に明瞭になる。近付いて来た千方の顔に思わず閉じてしまった目を、うっすらと開けると、千方の物言わぬ黒の瞳が見えた。いつもと変わらない全く感情の見えない目。口付けの本当の意味を理解しない人形の目。ああ、と千早は思う。これが兄なら、こんな目はしない。黒い瞳には変わりはないが、もっとやさしくてあたたかい瞳の色だった。顔の造りも体の造りも全く同じはずなのに、なぜ、こっちの「千方」には魂が宿らなかったのか。
 そんな疑問に千早は自分で応えていた。
 分かっている。
 なぜなら、これは土人形なのだから、感情が宿るはずがないのだ、と。
 千方の向こうに兄の影を追う自分と、それを冷徹に批判し、千方には感情がなくて当たり前だと主張するもう一人の自分の間に苛まされながら、千早は全身で千方からの気を受け止めていた。

本編更新、遅くなりました(汗 待っていて下さったかた、すみません。 その他呟きはブログにて。