第43話 真夏の鳴動(1)

 真夏の鳴動(1)



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 午前二時。いつもはぐっすりと眠りについている時間に、タクシーから降りた伸がゲストハウスに入ろうと鍵を取り出したところで、ドアが内側から開いた。
「当麻!」
 真夜中、近所の迷惑にならない程度に音量を絞って伸が驚きの声をあげる。当麻はその細い腕に手を伸ばして玄関に伸を引き入れた。ガチャリと音がして、ドアが閉められる。自然、伸の体は当麻と玄関のドアに挟まれる形になった。
「遅くなるから、先に寝てていいよってメールしたのに。」
 後ろ暗いことのためにやや伏し目がちに言った伸を、当麻は観察するように見たあと、ふうと細い息をついた。
「何もなかったんだな。」
 伸のことを鋭く探るような目つきが安堵のそれにとって変わる。
 やさしい貌だった。伸の無事を確認して心から安らいでいる当麻の表情は、いつもパソコンや文献に向けている顔からは想像できないほどやわらかなものだった。
「心配かけちゃったね。ありがとう。」
 小さく肩を竦めてみせてから、当麻を見上げる。海の色を溶かし込んだ瞳が、ほんの少し、潤んでいる。伸のその動きはおどけているようにも見えたし、非常にリラックスしている態度にも見えた。
 けれどもその心の中は泣き叫ぶ嵐のように渦巻いていた。
 ごめん、当麻。
 これからずっと、君のことをだまし続けなければならない。僕のこの笑顔も、この仕草もみんな偽りなんだ。そして、君は絶対にそれが偽りだと知ってはいけないんだ。
 それが、僕の、君に対する責任だから。
 伸の激しい決意に当麻は気付かない。気付かないが、ふいに首元に手を伸ばした。
「確か……出て行くときは白いシャツじゃなかったっけか?」
 濃い茶色のハイネックのシャツを不思議そうに見ながら、当麻が訊いた。
「ああ、ええとね。どうもこっちの夏の気候があわないらしくって、アレルギーがでちゃったみたいなんだよ。見た目、ちょっと気持ち悪いし、ひどくなるのも嫌だから、ナスティの旦那さんに我がまま言って、ハイネックのシャツをいただいてきたんだ。だからちょっと大きめなんだけどね。遅くなったのはそのせいなんだ。今度、サイズの合うものを、知り合いの方に譲っていただけるそうだから、また伺うんだけど……。」
 簡単な嘘はつけるのに、本当の嘘はつけない伸の、精一杯の努力の結果がこれだった。ナスティの家に行ったせいで遅くなったのも、旦那からハイネックのシャツを借りたのも事実だ。けれどもその原因が気候が合わないためのアレルギーというのは、あまりにもお粗末だった。伸自身も分かっている。
 当麻なら気付いてしまうだろう。
 そう思いながら、自嘲を秘めた微笑を浮かべる。問い質されれても、押し切るしかない。そう、決意する。
 当麻は一瞬、柳眉を寄せて訝しげな表情を浮かべたが、それだけだった。伸を責める風でもなく、落ち着いた視線を伸に向けたあと、ふわり、とその小さな亜麻色の頭を抱き寄せた。
「そりゃ、大変だったな。でも……もしそのアレルギーが本当に耐えられなくなったら、絶対、俺に言うんだぞ。頼む。そうでないと、俺が辛い。だからこれは俺の我がままだから、俺のために言ってくれ。」
 耳元で秘め事のように低く囁かれる言葉に、伸は先程までの強い決意を突き崩されそうになり、血の味が滲むまで唇を噛んだ。

 伸が当麻と一緒にベッドに横になったのは、もう朝といってもいい三時過ぎだった。いつもは居心地のいいあたたかな当麻の腕の中は、その晩は泣けそうなくらい幸せで、つまるところそれが辛くて、一睡もできなかった。カーテンの隙間から朝日が漏れ始めた午前五時を枕元の時計で確認して、伸はベッドを抜け出してキッチンへ降りた。
 手際良く一人分の紅茶を入れて、自分専用の水色のカップから立ち上る香りに思考を委ねながらぼんやりと考える。
 幸せだとこれまで感じてきた、誰かのひとつひとつの想いや行為が、これからは辛い。
 それが、少なくとも九月九日過ぎまで続く。
 あと一ヶ月と少し、それに耐えられるだろうか。涙を見せずに乗り越えられるだろうか。
 昨日の強い決意が、当麻の、あの無条件なやさしさに、いとも簡単に壊れそうになる。自分の脆さを自覚する。
 征士や秀や、そして帰って来た遼には、どう接すればいいんだろう。どうすれば、気付かれないですむのだろう。 
「伸?」
 ふいに自分を呼ぶ声がして、伸は深い思案の海から浮上した。声の方を振り返ると、胴着姿の征士が興味深そうに視線を送っている。
「あ、征士。おはよう。」
 鬱鬱とした先程までの想いを慌てて振り切って、伸は最上級の笑顔を友人に向けた。
「早いね。練習かい?」
「ああ、夏の朝は気持ちいいからな。」
 そこで一旦、征士は言葉を置いて、紫水晶の瞳をカチリと伸のそれに合わせた。偽証は許さない、相手に対してそう求めるときの征士の癖だ。
「昨日はずいぶんと遅かったようだが。伸から連絡がないと当麻が怒り狂っていた。私と秀がなだめても何の役にも立たなくてな。」
 征士の言葉に伸は思わず吹き出してしまった。抱えてしまった事情はともかく、怒り狂う当麻とそれをなだめる征士と秀の姿を想像すると、なんだか微笑ましくなってしまう。仲間だからできること、他人には決してできないことだ。
「征士にまで迷惑かけちゃったね。原因はこれ。」
 伸は先に予防線を張ることにした。ハイネックのシャツの首元をつまんで、征士に示す。
「こっちの気候に肌が慣れないらしくってね。アレルギーがでちゃったんだ。ひどく腫れてちょっとみっともなくてさ。昨日の夜、ナスティの家に押し掛けて旦那さんにハイネックを拝借したんだよ。ナスティたちと話し込んでいたら、返信もできなくてね。その上、遅くなっちゃった。」
 征士はまっすぐな視線を一度、ハイネックの首元にずらしてから、もう一度、伸の目を見た。
 一呼吸の空白に、伸はひやりとして気取られないように肩を竦めたが、征士の返事は意外にも楽観的なものだった。
「やはり、こちらの水がよくないのだろう。」
「……え?」
「私の勤める学校の卒業生の何割かは上京して東京の大学に入るのだが、その中にこちらの水が合わなくて、やはり顔や体に湿疹やアレルギーが出る生徒がいるそうだ。伸も綺麗な水で育ったからやはり、そういうのが出てしまったのではないか? 一度、ちゃんと病院で見てもらうといい。」
「あ、うん。きっとそうだね。」
 予想を斜め上にいく征士の返事に、伸は拍子抜けしてぽかんと玲瓏なその顔を眺めた。それから何度か小さく首を振って、話題を変えた。
「それよりも征士、練習は今からじゃないとダメかい?」
「どうした?」
「一緒に紅茶でもどうかなって思ってさ。三十分くらい。」
 ひとつ、ひとつ、丁寧に仲間と接することの大切さを痛みのように味わっていた伸の口から、無意識にその言葉が出た。
 明るい伸の笑顔に征士も微笑で応えて、竹刀を玄関に置いてからリビングに向かう。
 伸はキッチンで改めて、二人分の紅茶を用意してリビングに足を向けた。朝日を浴びて、征士の金髪が豪奢に輝いている。
 征士の前に紅茶を置くと、征士は「ありがとう」と言ってから、伸を見上げた。何か問いたげに、一度、瞼を閉じて、それからゆっくりと開けて、伸から紅茶に視線を向ける。
 向かいの席に座った伸は、昨日から間断なく続いていた緊張をほんの少し緩めてソファーの背もたれに体を預けた。
「そういや、征士と二人っきりで話すのって、珍しいよね。」
「そうだな。伸にはいつもあれがついているからな。」
「ひどいな、あれって。」
 くすくすと笑いながら、伸はティーカップに手を伸ばした。
「伸に苦言を呈するわけではないが……昨日の当麻の荒れ具合は手に負えなかったぞ。まるで母親から引き離された子どものようだった。私と秀に対する態度も八つ当たりだったな。あれは心配性というよりも、手を離すのが怖い、という感じだ。」
「そう……」 
 呟いて、伸はそう語る征士の心境を思った。遼がいなくなってから、毎晩、一人のベッドでちゃんと眠れているのだろうか。それとも、征士くらいに精神の鍛錬を行えば、それすらも乗り越えられるというのだろうか。
「だが、この件に関しては、私は当麻の肩を持つ。」
「え?」
 予想外の台詞に、伸は大きく目を見開いて征士を見た。
「大切に思う者がいなくなれば、不安になってあたりまえだ。取り乱すのは人として当然だと思う。」
 そして、自分も遼を失って取り乱しているのだと言外に征士は告げた。
「ましてや北辰結界の日取りが九月九日と決まったのだ。つまり、我々はあと一ヶ月と少ししか一緒に居ることはできない。それを思えば、当麻も焦るのではないか。伸に本当に伝えるべき気持ちを伝えられないことに。」
「つまり、征士は……」
 相手の言わんとするところに気付いて、伸は体を強ばらせた。それは、本当なら誰よりも当麻に知っていて欲しいにも関わらず、絶対に当麻には知られたくないという複雑な背反性を持つ想いだ。
「あのことを、当麻に言った方が良いというんだね?」
「私はそう思う。二人の間に口を挟める立場ではないが……あれでは当麻が可哀想だ。」
 伸と征士の間にある「あのこと」とは一つしかない。伸の特殊なセクシュアリティのことだ。
 ふうと長い溜め息を吐いて、伸は紅茶を啜った。俯き加減で考える。
 征士の忠告は正しい。
 でも、もうそれは、無意味になってしまった。異形のこの体を今さら、当麻に晒すわけにはいかない。すべては、このまま明け方の夢のようになだらかに終息しなければならないのだ。皆との関係も、当麻との関係も。
「征士。」
 ことさら明るい声で言って、伸は笑みを作ってみせた。
「かぼちゃが旬だから、今晩はかぼちゃづくしにしようか。」
 遼と離れてしまって元気のない征士のために、いつか別れなければならない友のために、伸はそう言ってまぶしそうに黄金の豪奢な髪を見た。

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