「第二の天の岩戸開きだよ。」
南向きの部屋の縁側に立つ千早はそう言って、自分の隣の揺り椅子に座る、唐紅の着物をまとった子どもの、艶やかな黒髪を撫でた。鳶色の片目で薄曇りの空を見上げたまま、ゆっくりと、しかし確実に光を取り戻し始める太陽を眺めている。濡れた朱の唇に、満ち足りた微笑みを浮かべて、しばらくそうしたあと、優雅な所作で腰を屈め、揺り椅子の前に移った。かしずいて、深々と頭を垂れる。ゆるやなか長い髪が木張りの廊下を這う。天空から零れる紗幕を通したような光が二人を照らす。
体を伏せた格好で、千早は口の中だけでとくとくと呪を唱える。音にならない、無音のまじない。
それから、厳かに言った。
「泡嶋様。準備が整いました。」
重々しくはあるが、ひどく丁寧な物言いだった。手の届かぬ高みにいる貴人を尊ぶような口調だ。
千早は静かに立ち上がり、光を宿さぬ女児の昏い両目に手を当てた。自らも目を閉じて、大きく深呼吸したあと、体中から声を響かせるように声を張り上げ、言祝いだ。
「御生れ!」
声に驚いたかのように、ビクリ、と女児の体が震える。千早はそっと手を離してから、その二つの瞳を覗き込んだ。
光が宿っている。
命の光が。
ずっとずっと、長い間、煮詰めた闇の凝った時間の中に身を沈めていた命が、息を吹き返した。
ゆっくりと繰り返される瞼の瞬き。
ぴくり、ぴくり、と痙攣する手や足の先。
呼吸のために上下する肩や胸。
陶器のようにまっ白だった頬に、徐々に赤みがさして、再び血液が体中を巡り始めた事を告げた。
同時にその体から、荘厳な霊気が立ち上る。清濁問わずあらゆるものを浄化し無に帰してしまうまばゆい黄金色の光は、唐紅の女児の体をふわりと包んでから、勢い良く天空を目指して一条の筋となり駆けあがった。暗闇の世界を裂いた光条は、いまやあかあかと世界を照らしている。
「おめでとうございます。」
千早は女児に一礼をして、すっと視線を部屋の奥の暗がりに投げかけた。
「千方、泡嶋様がお生まれになったよ。僕たちの願いがようやく叶うときがきた。」
一拍おいて、返事があった。
「千早さま。」
「どうした?」
千方の黒いシルエットが、小さく身じろぎした。何かを訴えたいというような間をおいて、千方は応えた。
「いえ……、おめでとうございます。」
感情のないはずの千方の声に、そっと触れても壊れそうなくらいに繊細な哀しみの色を感じて、千早は目を見開いた。
大規模対策予知対策研究室の窓のシェードあげて、窓を開き、幸頭井は眼下に広がる街を見つめていた。
いつもと変わらぬ風景。
しかし、異能の力を持つ幸頭井の目には、街は全く別世界のように映った。
皆既日食のために、ただでさえ不安定な東京の街のあちこちで、禍つものたちが騒ぎたてている。人々の、新しい神への祝福の声が街中から聞こえる。世界が緩慢に崩壊し始める音が聞こえる。
……とうとう始まったか。
息を呑んだ幸頭井の目に、空に向けて突き刺さる一筋の黄金の霊気が映った。燦然と輝く光の帯。それは壮麗で美しいはずなのに、世界の終末を告げる不吉を予感させた。
新しい神。
街中でその言霊が唱和されている。
そして、その神の力を操ろうとしている者がいる。
この、圧倒的な黄金の霊気を放つ、天津神でも国津神でもない、しかし霊威においては神話に登場するどの神にも対抗しうるだけの力を持つ神を支配しようとしている者がいる。
ここまでは、予見どおりだった。圧倒的な「何者か」による、北辰結界の妨害。それは十年前から分かっていた事だった。
幸頭井は目を閉じ、それからゆっくりと目をあけて、しわがれた声で呟いた。
「第二の天の岩戸開きを引き起こし、新しい神を引きずり出す。しかし、その神が本物とは限らない。……いや、そもそも誰が、神の真偽を決めるのか。」
チュニック書き納めの回でございます。楽しかったです。その他呟きはブログにて。

