第41話 ミアレ (3)

 ミアレ (3)



 3


「本当に良かった。今週末には新しいカーテンに模様替えできそうだ。」
 声を喜びに踊らせる伸の隣で、当麻が心から感心して言った。
「伸ってほんとにすごいんだな。あの膨大な布の迷路の中から、よく選べるよなあ。やっぱ、いい女房になれると思うぞ。」
「なに馬鹿なこと言ってるんだい。ああいうのは、経験なんだよ。大量の焼き物の中で育ってきた僕にとって、色と柄のついてる布を選ぶなんて、君たちの夕食の準備より簡単なことだよ。」
 当麻と伸は二人して笑いながらユザワヤ一階の出口のドアを開ける。容赦ない夏の日射しに一瞬、ひるんだものの、次の目的地のために一歩、踏み出した。
 渡井がゲストハウスを訪れてから、ちょうど一週間が過ぎた。神符のおかげで、伸は二日もせずに、生まれたての朝日のように翳りのない笑顔を取り戻した。それはゲストハウスの住人全てを安堵させるに十分だった。特に当麻は、あまりの喜びにその笑顔の真偽も忘れて、人目のないところで何度も何度も快復した伸を抱き締めた。
 何も状況が変わったわけではない。ただ、伸が快復した、そのことが、自分たちを取り巻く得体の知れない事態の好転の先駆けのようだと、皆が感じていた。
 ……伸自身が秘めてしまった思惑をよそに。
 体調を取り戻した伸は、気分転換にと家の中を一気に掃除した。残り三人ではおおよそ気の付かなかった細かな汚れや埃を、ゲストハウス中から一掃したあと、部屋の模様替えを思い立った。ゲストハウスに来たのは四月の春、それから時は過ぎて今は夏の盛りだ。立て続けに事件が起きたせいで、時期を逸した感じも否めないが、遼の不在で暗くなりがちな雰囲気を変えようと、カーテンに始まり、カーペット、ソファのカバー、などなど、一式を新調することにした。もちろんナスティの了解済みだ。
 今日はその模様替え計画一日目の買い出しの日で、まず、伸はユザワヤで布を選びカーテンをオーダーした。ゲストハウスの設計が特殊なため、既製品ではサイズが合わないのだ。
「えーっと、次はPARCOかな。Franc Francでカーペットと雑貨を見たいんだけど。」
 メモを片手に歩きながら尋ねた伸は、返事がないことに不審を覚えて顔をあげる。と、当麻と視線がすれ違った。
「何? 僕の肩に何かついてる?」
「いや、その服、生地が薄い上に襟ぐりが広くてだな、丸見えだなあと。」
「何が?」
「鎖骨。」
 当麻の言葉が終わらないうちに、伸は右手で夏の陽気に汗ばんだ鎖骨を隠して眦をつり上げた。
「公衆の面前で、一体、君はどこ見てるんだい!?」
「だってなあ。それは俺じゃなくても目がいくぞ。さっきのレジの店員も見てたし。」
「えっ……」
 ぱっと頬をさくらいろに染めて、伸は自分の服装を改めて見返した。
 白のインナーに、衿元を大きく開けたジーンズ生地のチュニックシャツ、グレーのレギンスパンツにスニーカー。前回、ナスティが来たときに、伸の服ね、と紙袋一杯に置いて行った中から選んだものだ。
「ナスティが、メンズだって言うからっ!」
 だから自分の責任ではない、という伸の言葉を当麻は笑って受け流して、ふいに真面目な顔になったあと、亜麻色の頭をとても丁寧にに抱き寄せた。
 「ちょっと、当麻!」という伸の抗議を聞いてから、当麻は瞳にあたたかな色を浮かべて、まだほんのりと赤い耳元に低く囁く。周囲の雑踏の音を消してしまう魔法みたいに、その声は世界を二人だけにしてしまう。
「元気になって良かった。」
 安堵の言葉に伸の目が細められ、必死に堪える表情を浮かべた。当麻に対して秘密を持ってしまったこと、長くは一緒にいられないかもしれないこと、幸せにしたいのに、裏切ることでしかその夢がかなわないこと、さまざまな懊悩が伸の貌を過る。しかし、当麻は気付かない。こうして街に出かけられるほど快復したという素直な喜びが、彼の判断力を鈍らせていた。
 伸もまた、愁いをすぐに消して、いつもの穏やかな表情に戻る。
「……ごめんね、心配かけた。」
「外に出て、調子はどうだ? まだ変なものは見えるか?」
「神符のおかげだろうね。まったく体も重くないし、呼吸も楽だよ。でも、周囲に見えるのは……やはり昏い瘴気と、得体の知れないモノたちだ。」
「そうか……。」
 独り言のように呟くと、当麻はゆっくりと伸の頭を離して、抱き締めた腕はそのまま、顔だけを自分の方に向かせた。
「ええと、なんだったっけな? 墨江の……」
「墨江の三前の大神だよ。当麻もよく知っているはずだよ。」
 首を傾げ、見当がつかない、と当麻が仕草で示すと、伸は小さく吹き出した。
「別名、住吉三神、通称スミヨシさん。大阪の住吉大社に祀られてる。」
「ああ! スミヨシはんか!」 
 その一言で、ふっと魔法が解けたようだ。ざわざわと喧騒が戻って来て、二人はコンマ数秒、目を合わせてから互いの気恥ずかしさを悟って、何事もなかったように並んで歩き出す。
 スミヨシはんはな、と当麻が昔、両親と参拝した際の話をしながら人混みを歩く。吉祥寺駅中央改札出口方面に向かい、駅前からバスロータリーを突き抜けて向かい側の商業施設に続く横断歩道の前で当麻と伸は足を止めた。
 足を止めたのは、二人だけではなかった。
 サラリーマン風の男性、数人で戯れている女子高生たち、ベビーカーを押している女性、交番前で勤務に就いている警察官。
 皆、一様に見上げていた。
 空を。
 紗がかかったような雲が青空を遮り、曖昧模糊とした色の空を。
 その向こうで、太陽が輪郭を失っている。
 空に住まう化け物に喰らわれたかのように欠けてしまった太陽の光は届かない。
 まだ正午前だというのに、街はしん、と静まり返り、ゆっくりと闇に飲み込まれてゆく。
「ああ、そういや今日は皆既日食だったな。」
 当麻が言うと、伸は不安気に相槌を打った。
「朝からニュースで騒がれてたけど……こんなになるんだね。僕、初めてだな。ちょっと怖い。」
 二人の会話の間にも、静かに、静かに、墨を流したような薄闇が押し迫る。街並は色を失い、人々の姿が黒い影になる。冷やり、と肌に触れる大気の温度が下がった。
 そして数分も経たないうちに、光が完全に失せた。
 喰らいつくされた太陽は天空から姿を消して、闇夜が吉祥寺の街に訪れる。
 どこかで、犬の遠吠えがする。一匹ではない、何匹もの犬が、まるで怯えるように哭いている。何十匹ものカラスが高い声で鳴き始めた。警告のように高い声で、五月蝿いくらいに鳴いて、街中に羽の音を響かせた。ただ静かなのは、人間だけ。誰も、一言も発さず、事の成り行きを見守っている。
 伸は暗がりの中に、鮮やかに輝いて翻る唐紅の衣を見かけて、そちらに視線を遣った。しかし、誰もいない。そしてまた、右の視界に唐紅の色が舞う。目で追うと、やはり何もない。
 何だろう、独り言ちた瞬間、頭に直接声が染みた。哀しみの響きを含む幼くあどけない子どもの声。
 ……ワタシカラニゲテ。
 その声に共鳴して、伸の中のもう一つの命が轟いた。声に応えるかのように、どう、と伸の体でのたうって、そのまま沈黙する。
 ……蛇神は、唐紅の夢のことを知っている?
 眉を寄せ、唐突に考えついた思いに囚われている伸に、当麻が声をかける。
「どうかしたのか?」
 はっと我に返り、伸は「なんでもないよ」と顔を上げた。そして、次の言葉を継ごうとしたとき。
 バスロータリーを縦に過る横断歩道の真ん中で、声が上がった。男か女かは分からない。甲高く悲鳴に近い、しかし、歓喜に満ちた声が。
「神だ!」
 伸と当麻は二人して空を仰ぐ。
 消えてしまった太陽の輪郭のほんのわずか、手を伸ばして比べてみれば指の爪の先くらいの部分が、強い輝きを放っている。薄絹の向こうに隠されたダイヤモンドの煌めき。それは、街中をこれまで覆ってきた昏く鬱屈した空気を払拭する道しるべに見えた。
「新しい神だ!」
 また別の場所で、鋭い声があがった。それに呼応して、駅の改札前で、商店街の真ん中で、デパートの裏道で、吉祥寺の街の至る所で一斉に唱和された。人々の声は祝福の言霊となって世界を包み込む。

 ……新しい神様が生まれた。

 御生れ。

 ミアレ。


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