サンロードの往来の人影もまばらになり、洞真法人は折りたたみの椅子から腰を上げた。平日の夜、もう客も来ないだろうと店を畳みはじめたところに、小さな人影が近付いて来るのを認めて、手を止めた。
市松人形が歩いている。
まとう着物は、燃え上がる夏の使者を思わせる、深緋(こきひ)。
肩でまっすぐに切りそろえているおかっぱの髪は光を吸い尽くしてしまったかのような、漆黒。
幼い面は化粧を施しているのだろうと見紛う、雪の如き白。
春を待つ小さな蕾を思わせる口元は、さくらいろ。
そのどれもが、神の玩具のように優美で作り物めいていた。ただ双の眼だけが、生々しく濡れて黒光りしている。日本人形が生きている証……命を持たぬ人形ではない証だった。
洞真は眼を半眼にしてそれを見据える。こんなものが、こんな時間に吉祥寺の大通りを歩いている訳がない。いるとすれば、それは妖の類。しかし、人形からは邪念も悪意も感じられない。
人形が歩みを止めて、言った。
「洞真法人さんですね。」
日本人形の唇が動いた。さやさやと鳴る鈴のごとき深く透明な声が流れ出た。洞真は答えない。自らの名前を暴かれることの危険性を知っている。代わりに、問い質した。
「お前は誰だ。」
人形が口元に袂を寄せて静かに笑ってから応じた。
「誰かと問われればお答えしましょう。はかなく散る花、日ごとにうつろう月、この世の幽玄を一身に宿した者の名を花月と申します。」
芝居がかった口上を述べてから、人形は口元の袂を翻して手を伸ばす。思わずその手の先を見てしまった洞真は自分がまんまと罠に嵌められた事に気付いた。人形の指先に、ゆらり、ゆらりと紅の幻火が灯っている。その灯火から目が逸らせない。体はいうことをきかず、声も出ない。
「さあ、行きましょう。僕のご主人様がお待ちです。」
くるりと振り向いて、人形はサンロードを北に向かって歩き始めた。洞真もまた、人形の命に抗えず歩き出す。
商店街を突き抜けたところで、洞真は呆然とした。そこにあるはずの大通りは影もなく消え失せ、視界に飛び込んで来たのは、見るものを威圧し見下す大きな木の門。視線を走らせ、そこが何なのか探ろうとして、門扉に刻まれた紋様に気付いた。
「……梶の神紋? 諏訪大社か?」
額に皺を寄せて、呪術者の記憶の引き出しを漁る。
手のひらのように広がった三枚の梶の葉、それを繋ぐ四本の根。間違いなく諏訪大社・上社の神紋、「諏訪梶」だった。ならば、諏訪大社ゆかりの者が自分を呼んだのか、と思い至ったところで、人形の声がした。
「ここより先はご自分で歩いて下さい。ええ、世にも妙なる主があなたにお会いしたいとおおせですから。」
ひょうと湿り気を含んだ生温い風が吹いた。溶けるように、市松人形は消えた。
洞真は注意深く周囲を見渡す。ただぬめぬめとした闇しかない。無明の世界からの抜け道であるかのように門扉だけが光を放っている。選択肢はなかった。洞真は門扉を押した。見た目を裏切ってわずかな力で開いた門の向こうに、しらじらとした灯りが見える。目を凝らすと、灯りの中に人影があった。なるほど、あれが人形の言っていた主なのか、と思い至り、さて、会うか逃げるかと考えた。背後で大きな音がした。振り返る。あったはずの門が闇に飲み込まれたようにひとかけらも残さず消えていた。出口を閉ざされ、周囲にはもはや、息苦しい漆黒しかない。
「なるほど、これはあの人形の操る幻というわけか。」
独り言ちて洞真は苦い笑いを浮かべる。これが人形の呪術なら、目的が達成されるか、人形を滅するしか、幻から逃れられないことを、呪術者である自分自身がよく知っているはずだった。ならば、手段は一つしかない。あの人物に会わなければならない。
門を潜って五分も歩いたところで、暗闇が途切れた。
縁側に、すらりとした人の影がある。背後に家屋の中から漏れる灯りのせいで逆光になって、つぶさには見て取れない。ただ、シルエットから男性であることは明らかだった。
「こちらへ。」
闇に響く深い声がした。声にも呪力があるのか、洞真は逆らえず、足を踏み出す。一歩、また一歩。
影は洞真を導くように屋敷の奥へと続く障子を開けて、中にするりと滑り込んだ。洞真もまた、それに続いて障子の向こうに一歩足を踏み出した。その瞬間、霊格の高い神社の結界に無防備に入ってしまったときのような、痛いほどの霊気で体中を縛り付けられ、胃の中のものを戻しそうになって顔を伏せた。意識が遠のいたが、ようやくのことで踏みとどまる。
辛うじて上げた視界の向こうは、黒々とした木々が生い茂っていた。わずかに揺れているのは、冷ややかな風のせいだ。都会の夜特有の、湿度の高い風ではない。高原に吹き渡るさらりとした風。木々に囲まれて、小さな空間があった。その真ん中に、勢いよく燃え上がる赤々とした炎がある。あれも、呪力によるものだろう、と洞真が思ったとき、声がした。
「さあ、そこに君の場所を用意した。座ってもらおう。」
声の主を探して、洞真が視線を滑らせる。緋色に燃える炎から少し離れたところに、例の影の主と思しき男が空中に浮いて足を交差させ、くつろぐように座っていた。
炎に映える男は、人ならざる美しさを漂わせていた。炎の色を宿してほのかな黄金色の光を放つゆるりと長い髪が、細面の貌の左半分を隠している。洞真を見降ろす片方の右目は、静かに燻る鳶色に火が灯っている。整った鼻筋に、嘲りの微笑みを湛える朱色の薄い唇。人の美しさがある種の欠点を含むものだとすれば、目の前の男の美しさはそれとは真逆の、完全無欠の美しさだった。それを持ち合わせるのは、人ではなく、神か鬼だ。
洞真は男を見上げて、相手の出方を探るように言った。
「私に人以外の知り合いはいないが。」
「ええ、こちらも、本来なら、貴方ごときの小汚い呪術者を屋敷に招き入れることなど不本意極まりないのですが。」
ごうと、木々を打つ風が吹いた。その風に煽られて、洞真の体が浮き上がると、炎を挟んでちょうど男の反対側に叩き付けられた。臥せった姿勢で男の次の言葉を聞く。
「結論から言うと、貴方にこの舞台は相応しくない、そういうことですよ。」
「なんのことだか分からないな。」
「南方火気の次に狙うのは、北方水気ですか。それは私が認めない。あれは、私の駒だ。」
洞真は自分の唾を飲み込む音を耳で聞いて、つうとぬるい汗をかいた。北辰結界を知る者は陰陽寮とあの七人だけではなかったか。幸頭井は何と言っていた?
「陰陽頭があなたに何を代償に、北辰結界を妨害させているのかは知らないが、呪術者のはしくれなら、騙されていることくらい気付いた方がいい。」
男の口元から微笑が消え落ちた。玲瓏な貌に浮かぶもの凄まじい嫌悪感が洞真を圧する。
「そんなことが、なぜ、貴様に分かる。」
「北辰結界の妨害工作に、貴方一人だけを使っている、ただそれだけのことですよ。」
洞真は言い返そうとして、返すべき言葉を失い諦めた。
「北辰結界を完成させず、今の陰陽寮の無能さを暴く事ができれば、現在の陰陽寮の人員配置を再整備するという口実で、洞真以下、民間で能力を持て余している呪術者を陰陽寮に入れる」。それが、幸頭井の提示した条件だった。北辰結界は首都の護りを強化するものだが、完成しなくても別の手段を講じてあるので問題ない、そう、付け足すように言われた。
洞真は知っていた。自分以外の、多くの有能な術者たちが異端ゆえに社会になじめず、その能力を隠すように生きている。彼らは、連綿と受け継がれた自らの力に苦しんでいた。自分の能力を生かして生計を立てている者は洞真と、名前も知られない小さな新興宗教団体の教祖くらいだった。異能を受け入れない世間を恨んでいた。同じ能力を持ちながら、「陰陽寮」という名のもとに守られる呪術者の存在が許せなかった。だから、疑いもせず引き受けた。自らが陰陽寮に食い入ることで、状況を変えようと思う一心で。
「そうそう、十年前の東京大事変の折、貴方の妹がこの街にいましたね。あの時、陰陽寮は自分たちに講じる手だてがあったにもかかわらず、五人の少年に命運を預けた……その五人が、北辰結界を作る五行の彼らだ。貴方は、自分の身内の命の恩人の身柄をこのまま拘束し続けるつもりですか。」
「そんな……」
信じられない、と続けようとして、洞真は目を見開いたまま、動きを止めた。痙攣するように、全身がぴくりと動く。
それを揶揄するように見下ろして、空中でくつろぐ男は、髪を掻き揚げる。不快感を隠そうともせず、洞真を卑しむように言った。
「何度も言うようですが、つまり、貴方ごとき小物はこの舞台に邪魔なんですよ。さっさと南方火気を帰して、この件から手を引く事です。そして、今後、私の前に現れぬことだ。命が惜しければ。」
男が空中に立ち上がった。
背後に、背丈の倍はある輪郭のあいまいな、赤く長い胴体の生き物の姿を見て取って、洞真は体を強ばらせた。
この空間に入った時に感じた、強烈な霊気の正体。その名を知識だけで知っている。
「お前は……諏訪の、ミ……」
「神聖な名を汚すことは許されぬ。」
男が先程とは全く違う、獣の唸るような声で洞真を威嚇する。同時にどう、と鞭で打つかのごとき強風が吹き、炎がかき消えた。
風に翻弄され、受け身の体勢を取った洞真は、はっと我に帰って周囲を見回した。
そこは見慣れたサンロードの一角。まとめかけの荷物の横で自分が倒れていると自覚するまでに一分ほどの時間を要した。
うとうとと眠りの湖に足を浸していた伸の耳に、携帯の着信音が届いた。ベッドサイドの携帯に手を伸ばし、相手を確かめる。渡井だった。
当麻は風呂に入っている最中だ。出てきたときに、渡井と話してる最中であれば、そのあと、彼は内容を問い質すだろう。そう考えて、自分のテリトリーであるキッチンへ向かうことにした。キッチンにいれば、何かあったときでも、言い訳ができる。
通話ボタンを押すと渡井が出た。
「夜分遅く申し訳ありません。」
階段を降り、リビングにもダイニングにも明かりが灯っていないことを確認してから、伸はキッチンへと歩みを進める。
「いえ、まだ起きていました。何か急ぎの用でもありましたか?」
「お体の方は、その後、いかがですか?」
「おかげさまで、少し楽になったようです。」
言いながら、伸はキッチンの照明を弱にしてスツールに腰をかける。
「実は、北辰結界のことで、毛利さんにお話をしたいことがあるのですが。」
「今日、伺ったこと以外で、ということですか?」
渡井の声が途切れた。訪れた虚の時間にただならぬ意味が含まれていることに感づいて、伸は相手の言葉を待った。
「はい、毛利さんにだけ、どうしてもお伝えしなければならない事があります。他の方にそうと気付かれぬように、お会いできませんか。」
「……分かりました。日時はそちらで決めてください。都合をつけます。」
「どうもありがとうございます。」
言葉に重なって、列車がレールを駆け抜ける音がしたあと、「それでは失礼します」と、渡井は電話の向こうでお辞儀でもしているような丁寧な口調で言ってから通話を切った。
電話を切り、その無機質な機械を見つめながら伸は考える。
陰陽寮が「何か」を秘匿していることは、薄々、気付いていた。昼間の態度や、この電話からも分かるように、渡井自身も隠し事をしている。
明かされない内容は、自分に深く関わることだろう。
決断の時がきたのだ。
「ごめんね、当麻。君を裏切ることになりそうだ。」
ぽつりと零した台詞は、キッチンに静かな波紋を描いて消えた。
今回は多めでした。これから、いろんなことがつまびらかになります。その他呟きはブログにて。

