ミアレ(4)
4
七月も最終週に入り八月の声を聞き始めたころ、伸は渡井と吉祥寺で会う事になった。渡井の指定してきた場所は、デパートの路地裏にひっそりと隠れるように佇むレンガ造りの喫茶店だった。赤茶けたレンガが、店の紡いできた歴史を物語っていた。
伸が店にはいると、すでに狭い店内の奥の席で渡井が待っていた。他に誰も客はいない。店の奥のカウンターの向こうで、頭の高いところで髪をひとつに束ねている女性スタッフがグラスを拭いていた。
渡井の座るテーブルの上にはティーカップが置かれてある。伸が渡井に声をかけたのは、彼がそのカップに手を伸ばしかけたときだった。
「遅くなってすみません。どうも仲間の監視の目をかいくぐるのが大変で。」
テーブルに近付きつつ伸は遅刻したことを詫びる。約束の時間を半時ほど過ぎていた。
「いえいえ、おかまいなく。確かに羽柴さんの目を盗むのは難しそうですから。」
え、と伸が驚きの言葉を零して、何度か瞬きする様子を見ながら、渡井は、あのいつもの、年齢を曖昧にさせる笑みを浮かべた。それから、身振りで、伸に座るようにと示して珈琲を啜った。伸は言われたままに、渡井の対面に座って、一息つく。
「その後、お体の具合はいかがですか? 先日の日食の影響はありませんでしたか?」
「頂いた神符のおかげで、生活に支障なく暮らせています。本当にありがとうございました。イザナギの禊で生まれた神様の力というのはすごいですね。」
ふいにそこで会話が途切れた。先程、カウンターにいた女性スタッフがオーダーをとりにきたので、伸はアールグレイの紅茶を頼んだ。女性はオーダーを復唱したあと、「ごゆっくり」と二人に声をかけて、笑顔を向ける。やけに人懐っこい笑みだった。
「あまり時間をとってしまうのも、毛利さんに申し訳ないので、早速本題に入らせて頂きます。」
カップをソーサーに戻して渡井は言った。すでに笑みは消えていた。伸を見つめる二つの瞳は、激しいほどに真摯だ。その中に深い悔い色が滲んでいることに伸は気付いたが、たぶん、気のせいだろうと思い話を続けた。
「北辰結界のことですね。」
「その通りです。そして、まことに勝手ながら、今から私がお話することでお願いがあります。聞き届けて頂けるでしょうか?」
伸は無言で頷いて承諾した。
「これから話す一切を、ここだけの話、つまり毛利さんと私だけの内密の話にしていただきたいのです。どれだけ親しい方にも、話さない、という約束をしていただきたいのです。ご無礼は承知です。ですが、そうでないと、この先を話すことができないのです。」
静かな声だった。しかし、その穏やかさの中に心を刺すような鋭さを感じ取って、伸は、表情を引き締めた。そしてやはり、不思議と渡井の瞳には伸を不安にさせる深い悔いの色が浮かんでいる。伸はほんの少し、首を傾げたが渡井は自分の話に集中しているようで、その細かな動きには気付いていないらしい。だから、伸は渡井の真剣さは、度を過ぎたものではなく、それに相応しい内容なのだと思い、その深い悔いの理由について考えるのは後回しにした。
「わかりました。」と伸が頷くと、渡井はほんのわずか、厳しい表情を緩めた。
「あのとき、『北辰は誰か』と羽柴さんはおっしゃいました。私はそれに対して、虚偽を答えました。……そうせざるを得なかったのです。」
「どうしてですか?」
伸の問いに、渡井は唇を強く噛みしめた。一瞬、怖いものから逃げるように伸から目を逸らす。苦悶と苦渋を交互にその顔に浮かべながら、渡井は応えた。
「北辰を担うのは……毛利さん、貴方だからです。」
「……僕が?」
裏返りかける声を押さえて、伸は瞳孔の動きだけで驚きを示した。
と、同時に、納得した。何に納得したのかは、伸自身もよく分からなかった。ただ、先日、渡井が皆に隠してしまったことは自分に関係のあることではないかという曖昧な予感は当たったのだ。しかし、それがなぜ、当麻や皆を裏切ることになるかもしれないという、漠然とした胸騒ぎにつながるのかは、やはり、分からなかった。
「これは、毛利さんたちに北辰結界の創成に協力してもらうということが決定したときから、陰陽寮で決定していたことだったんです。」
「じゃあ、僕が北辰を担当して、北方水気も兼務するということですか?」
「いえ、北方水気は……」
再び、渡井は声のトーンを落とし、自らの言葉に己の苦痛を委ねた。
「北方水気を司る黒を持つ玄狐が相応しい、というのが陰陽寮の判断です。」
「クロが?」
もう一度伸は、跳ね上がりそうになる声を自分の理性で押さえた。脳裏に過る、クロの幼い姿。妖であるクロはとてもきまぐれだ。きまぐれにもかかわらず、おやつの時間と夜眠る時間にはきっかりと現れて生活にとけ込んでいた。当麻とおやつの取り合いをする姿も、ベッドで寝場所を取り合う姿も、微笑ましくて見ているとあたたかい気持ちになれた。それは当麻に抱くそれとも、仲間に抱くそれとも違う、不思議な気持ちだった。その気持ちに名前がつけられないのは、クロが本当は『クロ』という名前ではないからだ。彼は自分よりきっと長く生きてきて、この世界のこともよく知っているはずだ。でも、クロはそんな知識の切れ端の欠片も見せない。危険な時に駆けつけてくれる時以外、自分の前では少なくとも、小学校高学年くらいの男の子の域を出ない振る舞いをする。たまに見せる昼寝の時の寝顔の無邪気さも、一緒に服を選ぶときの奇妙な好みも、夕飯に好物のオムライスが出たときのはしゃぎっぷりも、外から帰って来たときにふわりとまとう日なたの匂いも、その全てが伸には愛おしくてたまらないのだ。
「まさか、クロを殺したりするんじゃ……、もしかして他の六人も……」
その先の言葉は、「おまたせいたしました」という、会話の内容にひどく場違いな明るい声に消された。例の店員が、ティーポットとカップの載ったトレイを片手でうまく持って運んで来て、伸の前に並べたあと、友人に向けるようなくったくのない笑顔を見せてから、テーブルを立ち去った。
にわかに雰囲気を壊されて、二人はしばらく途方にくれた。一度、重い石を持ち上げて、それを降ろしてから、再び持ち上げるのは至難の技だった。
話を戻したのは、やはり年嵩である渡井だった。
「毛利さんのご心配はもっともですが、あの時、明言した通り、北辰結界は『チ』の結界です。その『血』が途絶えるようなことは行いません。ですので、玄狐が滅せられることもないので、ご心配なく。」
「そうですか。」
ふうと安堵の細い息を吐き出し、伸はポットからカップに紅茶を注いだ。湯気と香りが鼻孔をくすぐる。心の休まる匂いだった。
「それで、北辰の僕は何をすればいいんですか?」
「九月九日、北斗の結界の創成のあとの、十二月二十二日の冬至に行われる『尊星王祭』本祭に参加していただきたいのです。」
「冬至、ですか?」
「はい。夜の時間が最も長い日、星の力を最大限に利用することができます。北辰、つまり北極星を祀るとは、北極星の司る夜の祀りなのです。」
なるほど、と呟いて、伸は頷いた。顔をあげた瞬間、渡井の奇妙な表情が目に飛び込んで来た。先程まで見せていた深い悔いに、諦めが混じったようなひどく辛そうな顔。冬の日に氷雨の寒さに必死に堪えているような顔付き。伸は急に渡井の、この表情の変化が怖くなった。きっと彼は嘘をつけないタイプの人間だ。じゃあ、彼が今言ったことの、本当の意味は。
自分の不安を打ち消すように、伸は小さく頭を振った。渡井は絶対に嘘はつかない、そう信じている。いや、信じたい。
「分かりました。……しかし、冬至までに、東京のこの状態は保ちますか? どうも、あの日食以来、街の様子が余計におかしくなっているような気がするのですが。」
「現在、全国の力のある神職、呪術者、仏教関係者……つまり宗派や所属を越えて、守護の力に自信のある者が東京に集まって、各自、浄化の作業を進めています。状況が極端に悪化しない限りは、冬至までなら持ちこたえられるというのが、上の判断です。」
「……そうであって欲しいですね。」
それからしばらく、二人の間に会話はなかった。
伸は考えていた。
北辰は自分であるという。話の流れを聞く限り、まず、北斗を配置し、北辰である北極星を祀ることで結界は完成する。つまり、北辰は最大の要だ。その役目が自分に巡ってきた事が、不思議にも重責でも苦痛でもなく、生まれつき、あらかじめ座るように定められていた椅子のようにとても自然なことだと思えてしまうのだ。鎧の宿命よりも、ずっとずっと自分に相応しい役目。
なのに、どうしてだろう。そのことが、皆を裏切ることになってしまうという予感と、当麻を幸せにできないという直感に結びついてしまう。説明のつかない背反性。渡井の話では、命を落とすようなことはないと言っていた、『チ』の結界。連綿と受け継がなければならない『血』の結界。確かにそれは、当麻の自分に対する想いを妨げる。それぞれが結婚をして子どもを成さなければならないという条件。自分だって、本当は当麻と一緒にいられるなら、ずっといたいのだ。
……本当に? きらきらとした当麻との未来を自分は予感していただろうか。「一緒にいられないかもしれない」と心の中で思っていたのではないか? 所詮、家を継がなくてはならない身なのだ。今は一時的に、当麻の事を何よりも大事にできたとしても、将来、母や姉や親戚の期待に背いてまで、自分の当麻への想いを貫く毅い意志は、本当にあったのだろうか。……全てを捨てて自分を守ってくれる当麻のように。自分は当麻の甘えを許すことで、本当は甘えていたのではないだろうか。当麻は『血』の結界の話が出てからも、一度たりともその話をしたことはなかった。本来なら詰め寄ってでも聞いて来るはずの彼が。まるで、それに触れる事がタブーであるかのように。自分への負担になりはしないかと気遣うように。当麻は、どう思っているのだろう。何も言ってくれないんだろう。そして、なぜ、こうも、不安ばかりが募るのだろう。渡井は、ここまでちゃんと、命の保証をしてくれているはずなのに。
「毛利さん。」
自分の思考の無限ループを、渡井の言葉が遮った。
「え、はい?」
渡井は静かに立ち上がり、怖いくらいに表情を削ぎ落として伸の顔を見つめた。しばらくそうしたあと、緩慢に何度か目を閉じたり開いたりして、彼の年にはひどく相応しくない、今にも泣きそうな目元を刻んだ。口元が麻痺したかのようにぴくぴくと痙攣して何かを必死に伝えようとして努力をしているが、言葉にならない。しんとした喫茶店の中に、彼の浅い息の音だけが響く。無意識なのか、右手を頭に伸ばして顔を俯けてから肩を小刻みに震わせている。それからもう一度、顔を上げて伸を見た。縋るような表情だった。
「渡井さん?」
不審に思い、伸が声をかけると、渡井は先程までの表情を消し去って、何かに決意したように口元を引き結んだ。
そして、深々と腰を折り曲げて、お辞儀をした。
「本当に申し訳ありません。」
その顔は見えない。ただ、声と行為のみが渡井の気持ちを伝える。
「え? 渡井さん、それは……」
渡井の行動の意味を汲み取れずにいた伸は、躊躇いがちに何度か瞬きをして、それから天啓のようにその儀礼的な渡井の礼と、会話が始まってからずっと渡井が浮かべていた深い悔いの表情の理由を悟った。
……ああ、そうか。これは僕に対する謝罪ではなく、僕の命に対する謝罪なのだ。
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