ミアレ (1)
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東京という街のここかしこに、醜くおぞましいものが生まれつつあった。
長く伸びるビルの隙間に、プラットフォームへと続く階段の隅に、人通りの多い交差点の横断歩道の終わりと始まりの境目に、それらは息を潜めて黒く凝っていた。
「あんな馬鹿な上司、死んでしまえば良いのに。」
会社帰りのOLは、足早に人混みをすり抜けながら、無表情に、声だけは苛々とさせて、ぽろりと零した。その一言は、雑踏に紛れて、やがて道端に潜むおぞましいものに吸収された。
「まったく、今日も帰れないのかよ。俺、もう死んでもいいわ、こんな仕事、続けるんだったら。」
設立してまだわずか二年の、コンテンツプロバイダの技術部の派遣社員の男は、オフィスの隣にある喫煙ルームで、煙草を吸いながら呟いた。そのひそやかな言葉は、吸い殻入れの下に潜むおぞましいものに取り込まれた。
「こんな偏差値じゃ、全然、志望校に行けないわ。またパパとママに怒られる。もう死にたい。死んだら、勉強しなくていいし。もう、いろいろ面倒くさいの!」
有名塾のビルから出てきた長い髪の女子高生は、歩みを早め、やがて走り出して人通りの少ない裏道へ駆け込んだ。そして、雑居ビルの一階の階段に座り込んで、模試の結果を泣きながら眺めてそう声を荒げた。彼女の声は、階段の隅のおぞましいものにするりと飲み込まれた。
「なんで、僕だけシカトされてるの? 悪いことした? なんでみんな、僕を見ないの? 怖いよ。もう学校に行きたくない。消えてしまいたいよ。」
暗くなり始めた空を見上げて、まだ幼い少年は泣くこともできず、声を震わせた。誰にも相談はできない。家は安心な場所ではなかった。父は遅くに帰って来て、毎日のように母と喧嘩をしていた。ヒステリックな母の声と、怒鳴る父の声を聞きながら、布団の中で怯える日々。その上、学校にすら居場所がなくなってしまっては、少年の心はどこにいても安らぐことはできない。
「もう、死んでしまえばいいのかな。僕なんて、きっと誰にも見えていないんだ。」
家への帰路の途中の歩道橋の前で立ち止って、少年は言った。その言葉は、歩道橋の一段目に息づくおぞましいものが喰らった。
六月末の名越の祓が終わり、七月に入ってから、都内の犯罪件数が異常に増加した。立て続けに起きる暴力事件、殺人事件、強盗、誘拐……。本来ならそれらは過剰に報道され、世間を騒がせるに十分に値したが、新聞の片隅に掲載されるに留まった。なぜならそれ以上にスキャンダラスな事件、企業の贈収賄事件、政治家の不正が明るみに出て、メディアを騒がせたからである。
新型インフルエンザも収まるところを知らず、また増える一方の感染者に対する特効薬はなく、人々はマスクを楯に見えない細菌に怯えるしかなかった。
東京という街を中心に、日本中が暗い空気に覆われていた。
おぞましいものは、人々の負の想いを糧に、人目に悟られぬよう、数と勢いを増していった。それらは本来、特別なものではない。これまでも存在してきたものの、社寺といった霊的浄化空間により、清められ、処理されてきたものだ。しかし、その社寺が千早樹の施した術によって力を失った今、おぞましいものは増え続けるしかない。
征士とクロが街の見回りからゲストハウスに帰って来たのは、梅雨空の合間を縫って現れた夏の青空が、宵闇に暮れてゆく頃だった。その相性の悪さゆえに、これまでは全く行動を共にすることのなかった二人は、皮肉なことに、目にみえざるものへの感覚がすぐれているという共通点を持ち合わせていたため、ここ数日、共に街の偵察に繰り出していた。征士もクロも、それぞれの相性の悪さと眼前の切羽詰まった状況を天秤にかけて、どちらが重要であるかを見極められる程度には大人であった。
リビングでぼんやりとテレビを眺めていた秀が、振り返って二人を出迎える。
「おかえり、どうだったよ?」
「やはり芳しくない、いや、すこぶる酷い、が正しいのか。とりあえず、歩くだけで重い鉛を足枷にされているようだった。」
「そりゃ大変だったな。」
それから、まあ休めよ、と秀は征士とクロに言いおいて、キッチンへ向かった。茶とホットミルクを用意して、二人の前に並べると、正面に座り、征士に話の続きを促す。
「相変わらず、街のあちこちに、黒い、澱のようなものが凝っている。邪念や、怨念といった、そういう類のものだと思う。大気にもわずか腐臭がまじっていて、息苦しい。街を歩く人たちは気付いていなかったようだが、あれが、人々に無害だとは到底思えない。」
「お前がそういうのに敏感すぎるんじゃねえの?」
のんきな秀の言葉に、ホットミルクの入ったマグをさすりながら、クロは憤った。
「違うな。この社会自体が、そういう見えないものに対する感覚を鈍らせているんだ。本来なら、コイツが見えているものは、他の人間にも見えていて当たり前なんだよ。それが、見えていない。他に刺激物が多過ぎるせいでな。しかし、実際、あの腐臭は体内に入って積もり積もれば、悪い影響は間違いなくでるだろう。」
「じゃあ、前みたく、妖邪みたいなのが現れるってのかよ。」
「ないとも言い切れんな。」
表情を曇らせて、征士は答えた。湯呑みからたつ湯気に目を遣り、彼らしくもなく、溜め息をつく。
「そして、このタイミングに鎧玉の活性化だ。どう考えても、鎧玉が悪いモノに惹かれているとしか思えん。」
ジャケットの内ポケットから、征士は水晶のようなそれを取り出すと、手の上に載せて眺めた。若葉色に輝く珠は、息をしているかのように明滅を繰り返す。
秀もズボンのポケットから鎧玉を取り出すと、同じように手のひらに載せた。こちらも鮮やかな橙色に脈打っている。
「こいつ、十年前のあの事件以来、自分からはうんともすんとも言わなかったのにな。」
秀が手のひらで鎧玉を転がしていると、クロはそれをじっと見つめてから、目を細めた。
「同調している。」
「同調? 何にだ?」
「この悪い気にだ。」
しらじらと、寒い間があってから征士はクロに静かに尋ねた。
「この珠は、ある人物が、十年前の災禍の折に、我々が戦えるようにと与えた物だ。そして、その役割を十分に果たした。悪いものではない、と思うが。」
「どんな謂れがあるか、何をしてきたか、俺は知らない。だが、その珠から清らかなものは感じられない。街にあふれる悪い気に同調してエネルギーを発している。」
「……なるほど。どんな経緯があろうと、元は阿羅醐の鎧であったという素性は消せない、という訳か。」
征士は、三ヶ月前に田無神社の境内で、渡井に「鬼の鎧」と言われたことをぼんやりと思い出しながら、鎧玉をジャケットのポケットにしまった。それから、一口、茶を口に運んでから、視線を上へ遣った。
「で、伸は、やはりまだ起きて来ないか?」
「ああ、今日もずっと当麻がつきっきりだ。」
言って秀も、視線を二階の方へ向けた。
六月三十日の田無神社の大祓から、タクシーで帰って来た伸は、当麻に体を預けたままようやくの体で寝室にたどり着くと、一言も発することなくベッドに横たわった。それから十日が過ぎている。目を覚ます兆しは一向になかった。その間、書籍とパソコンを持ち込んだ当麻がつきっきりで様子を見ている。征士や秀が、何度も交替しろと声をかけたが、当麻は頑なにそれを断った。征士も秀も、二人の事情についてはある程度、察しているので、それ以上の干渉は避けた。
「とりあえず、今から夕飯、作るから。できたら当麻の分を持って、上に行こうぜ。伸のやつも目を覚ましてるかもしれないしさ。」
言って、秀は、自分の飲んでいたコーヒーの入ったマグを持って、キッチンへ足を向けた。
昏い万華鏡を伸は見ていた。
それは過去の記憶だと分かっているのに、生々しく蘇る。
戦いたくないと願いながら鎧を身にまとっていた。向かって来る敵をなぎ倒す。なぎ倒した敵の向こうには、また新たな敵がいる。終わりの見えない、救いのない戦い。見回すと、助けるべき遼の姿がない。そうだ、遼はいつからいなくなったんだろうか。叫びたくても、なぜか、声が出ない。呻くだけの悲鳴をあげた瞬間、がらりと風景が変わる。
ふわり、とした浮遊感。以前、ここに来たことがある、そう思ったとき、頭に声が響いた。
『汝は誰ぞ。』
脳を直接、揺さぶる割れ鐘のような大きな音が伸に問いかける。
目の前に、黒光りする長い胴体と、金色の目を持つ蛇がいる。
ああ、あの蛇神だ、と思い、応じようとした伸は、やはり、己の声が出ないことに気付いて、自らの喉を右手で掴んだ。
『汝は我を害するものぞ。この国ごと屠ってやろう。』
違う、と伸は心の中で叫んで、目の前の何もない空間に手を伸ばす。赤子がするように、何度も何度も手で空気を掴むように足掻いた。どおんと大気が震え、体が放り出される。一瞬、下を向いたその視線の先に、瓦礫と成り果てた吉祥寺の街の風景を見てとって、壊れた機械のように唐突に動きを止めた。倒壊した家屋の中に、ゲストハウスも見えた。大切な仲間が瓦礫に挟まれ、悲鳴をあげている。
これが、未来なのか?
なす術もなく、伸はそのまま凍り付いて。声も出せずに、喉を引き攣らせたまま。
一粒だけ、涙を零した。
……助けて、当麻。
瞬きする間の、わずかな時間、唐紅の色がふわりと視界を舞った。色が去ったあとには、街の姿も蛇神の姿もなかった。
ただただ、ふわりとした浮遊感があって。
伸は、夢にしてはひどくリアルに、左手が温かいことに気付いた。
昏い夢の中、それはわずかな光となって、意識が暗い方へ落下するのを引き止める。温かい左手に、意識を集中する。やがて、左手は目映いばかりの光を放ち、空間全体を覆い尽くした。あまりの激しい眩しさに伸は目を閉じて、再び、目を開いたとき。
ぼんやりとした視界に、見慣れた天井があった。
「おい、伸?」
左耳から、薄い膜を通したような、耳に心地のいい低い声が聞こえて、伸はわずか、そちらへと頭を傾けた。そこにもまた、見慣れた紺藍の、二つの瞳。
ああ、そうか、当麻がいるんだ。じゃあ、きっとあの怖い夢から覚めたんだ、とおぼろげに考えて、伸はゆっくりと瞬きをした。
「伸? 目が覚めたのか?」
ひどく憔悴しきった当麻の声が聞こえて、ああ、また心配をかけてしまったんだ、謝らなくちゃ、と思い、声を出そうとした。しかし、意志に反して、声帯はうまく動かない。それではこれは、あの夢の続きなのかと、底のない恐怖の沼地に足をとられかけたとき。
左手が力強く握りしめられた。
「伸! 起きるんだ!」
肩を強く揺さぶられ、伸ははっと我に返った。意識が急激に、現実へとフォーカスされる。
「……当麻。」
ようやくのことで、その名を口にして、声が出たことに伸は安堵した。呼ばれた方は、ふう、と大きく息を吐いて、ばたりと、伸の肩口に顔を埋める。そのままの体勢で、当麻は握っていた左手をすっと離すと、今度はその手で小さな伸の頭をいとおしげにかき寄せた。
「……起きて来なかったら、どうしようかと思った。」
「ごめん。」
「苦しいところや痛いところはないか?」
訊かれて、伸は自分の体を意識した。と同時に、じわじわと染み出るように、記憶が蘇る。
田無神社の大祓で、異様な光景を見た、そこまでははっきりと覚えているが、そこからの記憶がほとんど断片的にしか残っていない。あのあと、どのようにして、ここまでたどり着いたのかも思い出せない。安らぎかけていた心に、不安の陰がさす。
「当麻。」
「なんだ?」
「僕は……どれくらい、ここでこうしていた?」
束の間、当麻の体が強ばった。どうやら自分がここで悪夢にうなされている間に、状況は悪化しているらしい。
「十日。」
耳元にひっそりと囁かれて、伸は一瞬、何のことか理解しかねた。
ゆっくりと体を持ち上げて、ベッドサイドの椅子に座り直した当麻は、目を伏せて、今度は伸の問いに省略せずに答える。
「あの、田無神社の大祓の日から、今日で十日目だ。お前、あれからずっと、眠り続けてたんだ。」
「十日も?」
せいぜい、二、三日、そんな甘い予測を裏切られて、伸は綺麗な形の眉を潜めた。
伸の思いを見透かすように、当麻の右手がすっとその頭に伸びて、やわらかな髪をいつくしむように撫で始める。紺藍の瞳に安堵の色を宿し、口元をほんの少しあげてやさしげな微笑を浮かべ、言った。
「今は何も考えるな。料理は秀がしてくれてるし、家事だって、征士と俺でやれるから。今は、休め、伸。」
仲間の名前が出たことに、ほっと息を漏らしかけて、その中に、大切な名前が欠けていることに伸は気付いた。夢の中で、探した彼の姿は。
「遼は?」
「……残念だが、まだ見つかっていない。」
髪を撫でる手を止めて、当麻は抑揚を押さえた声で応えた。柔和であたたかな色を湛えていた目がすっと細められる。
「街は? あの大祓のあと、街はどうなってる?」
矢継ぎ早の、焦りを隠せない様子の伸の質問に、当麻はわずか、痛みをこらえるような表情を見せてから、やはり静かな面持ちで言った。
「俺は直接、見てるわけじゃないから詳しくは言えないが、征士によると、街には腐臭が漂い、無防備に外を歩くのは躊躇われるそうだ。」
その言葉を聞いて、伸は、ひゅっと息を呑んだ。次いで、唇を噛みしめる。
大祓の日に全身で感じた、恐ろしいまでに禍々しい冷気。肺を侵す瘴気。あれが、街中に広がっているのだ。
自分が十日も眠っている間に、この都市は、取り返しのつかない事態に陥ってしまったのだろう。
ひどい脱力感を覚え、伸は目を閉じた。
あまりにも、自分は無力だ。
目の前で、遼がさらわれた。その遼は、いまだ、帰って来ない。
事あるごとに、当麻に助けを求めてしまい、当たり前のように彼は自分を助けてきた。
こんな状態では、いくら蛇神と契約していても誰も守れない。
当麻すらも。
黙り込んでしまった伸を不審に思ったのか、当麻が体を傾けて、伸の顔を覗き込んだ。先程までの無表情とはうってかわって、不安の混じった気遣いの色が広がっている。
「心配するな。伸。焦っても始まらないさ。とりあえず、今日はお前が目を覚ましてくれただけで、皆も喜ぶさ。」
伸にあやすように言い聞かせて、当麻はその髪を再び、撫でようとした。
そのとき、初めて、伸は当麻の顔をつぶさに見てとった。陰になってはっきりとはわからないが、目の下はうっすらと黒ずみ、顔色は病人のように青白い。疲れきっている人間の顔だった。
伸ばされた手から逃れるように、伸は体を右によじって、当麻に背を向ける。
「伸?」
「ごめん、当麻。」
背後で、当麻の驚きの声を聞きながら、伸はパジャマの、丁度心臓の上あたりに手を当てて、くしゃりとその布を握りしめた。
当麻はやさしい。
きっとこの十日間、僕につきっきりでろくに寝てもいないのだろう。
僕は君の気持ちを毎晩のように受けとって眠っていた。
でも今は。
こんな事態に至っては、君のやさしさが僕にはつらいときがある。
だから、夢の中でさえ君を頼ってしまう弱い僕を、今は見ないで欲しい。
再開しました。待っていてくださった方、本当にありがとうございます! 続きはブログにて。

