伸は、深い深い海の底から浮上するように、ゆっくりと意識を取り戻し始めた。
ああ、大気が澄み渡って清らかだ。先程のあれは、悪夢だったのか。
その証拠に、体も楽だし、息も大丈夫だ。
ぼんやりと思いながら、瞼を開ける。
四つの瞳を確認して、伸は無自覚にその名前を口にした。
「当麻、クロ。」
「伸、気が付いたか?」
すかさず、当麻は伸の呼びかけに応じた。
まだ上手く動かすことのできない声帯に、なんとか力をこめて、
「ここは?」
と伸は訊いた。
「神社の境内のベンチだ。今はこの辺りにだけクロが結界を張っている。」
そうか、クロの結界の中だからなのか、と伸は安堵して、それから一気に現実に引き戻された。
「どうして、クロがここに!?」
瘴気にあてられた後遺症で、うまく回らない頭に、いきなり電流が走った。気まぐれに現れるクロが(夜はなぜかいつも一緒だけれども)、今、ここに来ているその理由は、一体。
クロの、黒に近い焦げ茶の瞳を縦に過る瞳孔が、ちらと妖の光を放った。
「街の様子が、いきなり変わった。この境内と同じように、異常な瘴気に覆われている。ここほど濃いわけではないが、少しずつ、量は増えているようだ。同時に伸の身に何か起きたと感じたから、ここに来た。同行者はあまり頼りにないからな。」
最後の部分を強調して、クロは鼻で笑う。それに当麻は気付いたが、実際、クロの助言なしでは自分は何もできなかったのだから文句の一つも言えない。
「じゃあ、この街、全体が……」
それは、予感、ではなくて。
「そうだ。俺の想像だが、何者かがこの大祓の祭祀の力を逆用して、何か呪術的なことを起こした。結果がこれだ。」
「そんなことが可能なのか?」
わずか、声を引き攣らせて問うた当麻に、クロは真摯に答える。
「俺が生きてきた中で、清浄を蘇らせるはずの大祓の日にこんな事態が起こるのは初めてだ。ただの人間ごときの呪い師(まじないし)の仕業じゃない。こんなことができるのは……もし、いるのだとしたら、俺クラスの霊獣と同じか、それ以上の『力』を操れる妖か何かでしかない。」
「人間の仕業ではないと?」
「ああ、人間に、こんなことは絶対にできない。」
当麻の問いに断言して、クロは何かに気付いたかのように空を見上げた。
つられて、当麻も伸も、空を見る。
青い空から、ぽつり、ぽつり、と雨が降り始めた。
空が泣いている。
それを、天泣と言う。
大祓が執り行われているころ、中野の幸頭井宅に京都から一人の客が迎えられていた。
よく手の行き届いた、中庭の眺めが美しい和室の上座に、男は座していた。年の頃は五十代だろうか。濃紺地に青の細縞のちぢみの着物を品良くまとったその姿は、実に優雅だ。細面の白い貌、筋の通った鼻梁、薄い唇。シルバーグレイの頭髪は年齢を感じさせたが、決して衰えを見せるものではなく、しごく自然に威厳を醸し出していた。
男の名を、白川頼永(しらかわよりなが)という。
平安の世より、宮廷の祭祀を司る神祇官の長である神祇伯を世襲してきた一族の末裔だ。花山天皇の皇孫の延信王(のぶざねおう)が源姓を賜り臣籍降下して発生した一族だが、皇室祭祀を司る「神祇官」の長という特殊な地位を受け持ったため、臣下に下ったにもかかわらず「白川王家」と「王」を名乗ることを許された、日本で唯一の特異な一族だ。明治時代に入ってからは王家の名称は消えたものの、子爵の称号を与えられ貴族となった。白川頼永は、その高貴な一族の直系の血をひく者だ。当然ながら、現代においても、皇室祭祀を司る宮内庁及び神社本庁に対しては、圧倒的な権力を持っている。
木の机を挟んで下座に座す幸頭井は、いつもの、泰然自若とした風体を保ちながらも、やや萎縮して、額に、じわり、と汗を滲ませている。
幸頭井の話を一通り聞き終えた白川は、ふむ、と一言頷いて、庭の美しい緑に目を遣った。
「そうでしたか。東の都でそういうことが起きているとは、宮内からも本庁からも聞いておりませんでしたね。こちらに着いた折の、奇妙な……いや、気持ちの悪い違和感の原因にようやく納得がいきましたよ。」
「宮内も本庁も、まだ白川氏の耳に入れる段階ではないと、判断しているものと思われます。」
「しかし、あなたの話を聞く限り、……日枝も神田も落とされて、東の都は相当の危機に晒されているということになりますが。」
「我々は影で動く者でございます。影の言い分は、公には出せないというのがこの国の歴史です。……しかも、この現代において、呪術によって街が守られているなど、誰も信ずることではありませんでしょう。」
「確かに。明治の世から、神道祭祀は呪術的には大きな力を失ったも同然ですから。呪力や霊力というのであればあなた達、陰陽寮の方が働きは大きい。」
「恐れ入ります。」
「いや、事実を言ったまでですよ。」
そうやわらかに言って、白川は、庭の緑から目を引き離すと、幸頭井を真直ぐに見た。
「そういうことでしたら、石上神宮にかけあって七支刀はなんとかいたしましょう。向こうも私に対して拒否することはできない。国土あっての、天皇(すめらみこと)あっての我らの存在ですから。石上も了承するでしょう。」
「お力添え、深謝いたします。」
幸頭井が深々と頭を下げるのを見て、白川は小さく溜め息をついた。
「で、つかぬことを伺いますが、その北辰結界とやらが、この都を守ることのできる確率はどれくらいですか。」
「それは……」
幸頭井の表情に、一瞬、苦いものが走る。
「あなた方の力は認めます。が、安倍晴明の世より誰もがなし得たことのない術を、いくら強力な五行の力を持つ者の協力があるとはいえ、本当に成功させることはできますか。」
どこまでも白川の声はやわらかい。貌も穏やかだ。だが、言葉の端々に刺が含まれている。
応じない幸頭井を半ば、圧するような形で、白川は言った。
「もし、成功をみずに玉体に危機が及ぶようであれば、我らは天皇に、西の都にお戻り頂くことを奏上いたします。それがこの国を守る、本来あるべき形ですから。」
そうである。
東京……つまり東の京は現在、政治経済の中枢であり、また千代田区の皇居には天皇家が住まう。東京というメガロシティは世界公認の「都」のはずだ。
だが、正式に、都が京都から東京に遷都されたという公の法令はない。同じく日本の現行憲法下においても「首都」を「東京」と制定すべき法的要請もない。そのため、今でも皇室は京都に戻るべきであると主張する人々もいる。その例にもれず、白川氏もまた、皇室のあるべき場所は京都であると主張するのだ。
ふと、二人の間に沈黙が訪れた、そのとき。
風が止んだ。
中庭から緑を渡って室内へと流れ込んでいた微風が、ぴたりと途切れた。
異常を察し、二人して、外に視線を走らせる。
「……これは一体、何事か。」 そう、幸頭井が呟いたとき、プルプルと携帯電話の音が静寂を破った。
失礼します、と白川に言いおいて、幸頭井は携帯に出る。陰陽寮の部下が電話で知らせてきた内容を、一部始終、聞き終えて携帯を切ったあと、唇を引き結んで、白川を見た。
「やられましたな。」
「何が起きましたか?」
「都内で執り行われていた大祓が、何者かの手によって逆手に取られたようです。邸宅の結界の向こうに見えるあの異様な瘴気、そのせいでしょう。」
それまで、悠然と落ち着いた物腰だった白川の表情が、一気に険しさを帯びる。
「大祓? そういえば、少し前に宮内庁から、今年の都内の大祓は全ての神社で統一して行って欲しいとの旨を伺いましたよ。その件で東京神社庁に圧力をかけましたが。」
そこまで言って、何かに気付いたように白川は目を瞬かせた。
「……いや、まさか、そんなことは。」
「『太祝詞事』の力、ではないでしょうか。」
幸頭井の言葉に、白川は白い面に血を上らせて豹変し、半ば激するように声を荒げた。
「ありえない! あれは秘事中の秘事であり、延喜式祝詞にさえ記されなかった。千四百年以上の間、誰も知ることのできないもののはずです。この私ですら知らないんですよ!」
「しかし、もし、この事態を引き起こしたのが、天孫神話をさらに遡る上古の時代の一族の血をひく者なら、もしくは。」
幸頭井の一言に、白川は完全に凍り付き、言葉を失った。
この日をもって、都内の社寺の浄化機能は完全に失われた。
東京という街は、マイナスのエネルギーをただひたすら溜め込む、無防備な都市へと陥った。
それが、どのような事態を招くのかを知るのは、千早樹、ただ一人である。
天泣の祓、最終回です。長かったですね。ありがとうございます。その他呟きはブログにて。

