第38話 天泣の祓


 「……天津菅麻を本刈り断ち末刈り切りて 八針に取裂きて 天津祝詞の太祝詞事を宣れ。」
 そう読み上げたあと、千早は祭壇の前で頭を項垂れた。神憑っている千早の髪は振り乱されて、その玲瓏な貌を銀鼠の覆いで隠す。髪が一筋二筋、汗ばんで口にはり付いているのにも構わず、ゆっくりと唇を動かし、自分の耳にすら届かないほどの微音で、何かを呟いた。それは、現代で使われる言葉でも、現代に「古語」として伝わる言葉でもなかった。誰も知ることのない、神代に使われていた、古い言葉。その言葉で、千早は「秘め言葉」を奏上したのだ。
 次の瞬間、千早の細い体が仰け反った。雷に打たれたように大きくしなり、それから痙攣して小刻みに体を震わせて、正座したまま敷物の上に倒れかかった。
 すかさず、千方は前に進みでて、手を差し伸べ、千早の上半身を自らの胸に受け止める。ぜいぜいと荒い息を吐き、着物を、髪を乱して、錯乱状態にある千早の瞼にすっと手のひらを当てる。それから小さく、一言だけ、言葉を発した。
 「千早さま」と。
 力を込めて発せられた名前とは、最大の呪言である。
 幾筋もにほつれた銀鼠の髪の間に見え隠れしていた千早の、焦点の狂った瞳が、ふと千方のそれに合わされた。少しずつ、少しずつ、瞳に正気が戻って来る。幾許かの静けさのあと。
 千早が、かすれ気味の声で言った。
「千方。」
「はい。ここにおります。」
「私は、大丈夫だったか?」
 一瞬、口をつぐんでから、千方は応じた。
「はい。千早さまは、無事、仕事を成し遂げられました。」
「そうか。」
 千方の言葉と、ようやく治まった息に、安堵して千早は目を閉じ、しばらく身を預けていた。
 それから浄闇のような、神さびた夜の闇にも似た静謐な笑みを浮かべて。流れる髪を掻き分け、額に汗を浮かべたまま、千方に語りかけた。
「成功だよ。千方。これでもうこの街は誰にも浄化することはできない。どんな霊験あらたあかな神職でも術者でも、だ。主立った守護を失い、祓い清める術を失ったこの街にこそ、泡嶋さまは相応しい。」



 田無神社、宮司の加陽は、周囲に広がり始めた光景を信じられず、祭事の最中だというのに祝詞を途中で止めてしまった。宮司に合わせて祝詞を読み上げていた神職たちもまた、それに従って祝詞を止めて、ひそひそと小声で、何事かと言葉を交わし合う。
 参列者もまた、何が起きたのかと、互いに「何があったんですかねえ」「マイクの故障でしょうか」、などと声を掛け合っていた。
 その列の中、伸は真っ青に顔の色を失い、自らの体をかき抱くようにして、体を強ばらせていた。その体が徐々に震え出す。
「おい、伸、どうした?」
 様子のおかしい伸の肩に手をかけて、当麻はその顔を覗き込んだ。あまりの血色の悪さに驚き、
「具合でも悪いのか。」
 と尋ねた。心配そうな当麻の声に、伸は小さく頷いてから、浅い息をつく。
「……当麻には、これが見えてないのかい?」
「何だ?」
 言われて当麻は周囲を見渡した。来たときとほとんど変わらない、神社の境内の様子に、頭を傾げる。
「俺には何も見えないが……」
「そう……なんだ。」
 俯いたまま、伸は再度、自らの体を抱きしめた。
 『天津祝詞の太祝詞事を宣れ』、その一文を唱えた直後、音もなく大地が震えた。地の深い深いところから、何かが這いずり起き出してくるような感覚。それと同時に、地面から幾筋もの黒い瘴気が立ち上り、肺に入り込んで呼吸を苛んでいる。立ち上った瘴気は神社の上空で薄い紗幕を成し、黄金の光を遮った。
 仄暗い境内に、もはや斎庭特有の清浄な空気など、ひとかけらも残っていない。
 周囲を覆うのは、ただひたすら、禍々しい冷気だけだ。
 尋常ではない瘴気にあてられて、伸は吐き気を催し、うっと唸って口元を押さえた。
「おい、伸!」
 当麻の声を遠くに聞いて、伸は応えようとしたが叶わなかった。瘴気が体中を蝕んでいる。痺れるような痛みが全身を駆け巡る。
 その体の中で、どう、と動いたものがあった。
 ……蛇神が反応している。
 しかも、あまり良い反応とはいえなかかった。この状況に怒りをもって伸に知らしめている、そんな感じだ。
 ……だめだ、もう、体がもたない。
 そう、心の中で弱音をはいたとき。
 境内にアナウンスが響いた。
「申し訳ありません、ただいま、機械の故障により、一時、祝詞を中断いたしました。今から再度、冒頭から読み始めますので……」
 アナウンスを聞いた参列者が、「なんだか験が悪いねえ」などと言葉を掛け合う。
 無意味だ、と伸はひとりで零した。意識が途切れかける。足元が覚束ずに倒れそうになった、そこを大きな腕が支えた。
「伸、辛いんだな?」
 意識の幕の向こうで、慣れ親しんだ声を聞いた。
 そう、辛いんだ、と応えようにも、声帯は思うように動かない。
 明け方の夢のように、霞んで行く景色の遠くで読み上げられる祝詞の声を聞いて。
 感覚の全てが闇に閉ざされた。



 細い体を支えたその両腕に、ぐっとかかった重みに驚いて、当麻は刹那、声をあげそうになるのを堪えた。
 抱きかかえた身体の、細い首が露になって日の光に晒されている。力なく垂れ下がった腕、閉じられた瞳、ひどく青ざめた貌。周囲で何が起きたのか計り兼ねて、当麻はしばらく狼狽えていたが、このままでは不味いと判断し、ひとまず、伸を境内の端のベンチに移動させて、その身体を横たえた。
 あらためて、伸の様子を確かめる。
 意識は完全にない。浅い呼吸を何度も繰り返し、ひどく苦しげだ。
 普段から白いその面は、完全に血の色を失い病人のようにやつれている。額にはうっすらと冷や汗が浮かび、わずかに綻んだ唇は、黒に近い紫に変色していた。
 ……これは、やばい。
 伸の身に何が起きたのか、周囲で何が起こっているのかはわからない。ただ、現在の伸の状態は、命の危機を孕んでいる、それだけは、すぐに理解できた。
 しかし、解ったところで、原因を知ることができなければ、対処の方法がわからない。伸を苦しめている、その元凶が何なのかが把握できない。どくん、どくんと鼓動が早くなる。額からつっと、一筋、脂汗が流れた。
「伸、聞こえるか?」
 その肩を揺らしてみる。反応はない。ただ苦しげに、薄い胸が上下するだけだ。
 ……どうすればいいんだ。
 当麻は唇を噛みしめ、全身を凍らせた。
 ……俺に今できることは、何だ。
 立ち行かない当麻の耳に、ふと再び祝詞の声が聞こえてきた。先程と変わらず、粛々と奏上される神聖な呪文……。
 倒れるその寸前、伸は聞いてきた。「当麻には、これが見えてないのかい?」と。
 伸には、何か尋常ではないものが見えていた、それが理由でこんな状態になったのだ、それでは、伸は何を見ていた? と思い至った、そのとき。
 境内の湿った空気を割いて、黒い乾いたつむじ風が走った。
 それは、当麻の前で黄金の公孫樹の葉をくるくると巻き込みながら、やがて見慣れた子どもの姿を成した。
「クロ!」
「伸……?」
 それは、半ば問いでもあり、残る半分は、すでに状況を理解している断定の口調だった。 
「やはり遅かったか……」
 当麻を無視して、クロはベンチに横たわる伸の顔を覗き込むと、そのまま、顔をあげて周囲を見回した。
「神社の境内の方が、酷い有り様だ。」
「お前にも何か見えているのか?」
 当麻の問いに、クロが胡乱な表情で睨み上げた。
「俺の方が逆に聞きたい。お前には、これが見えていないのか? この、酷い瘴気が。」
「……見えていないから、対処に困っている。少なくとも、神職をはじめ、境内の他の人間には何も起きていない。」
「つくづく、役立たずのお前のことを恨むぞ。」
 真剣に応じる当麻に、クロは、そう告げてから続けた。
「とりあえず、俺がこの場に結界を張る。こうなってしまっては、神社の斎庭もまったく意味をなさないからな。今は、伸の身体にこれ以上、瘴気が流れ込むのを防ぐのが先決だ。命が危ない。」
「伸の身体に、瘴気が流れ込む、だと?」
 息を呑み、繰り返す当麻を横目に、クロは境内に転がる砂利の中で、黒光りする大きめの石を四つ、集めて来ると、伸の横たわるベンチを中心に東西南北、四方に置いた。その石の間を、東から南、続いて西へ、そして北へ、最後に再び東へ、手の指で丁寧に線を引っ張り、天を仰いで「断(ダン)」と吠えた。
 キン、と時間がずれるような耳鳴りを頭の中で聞いて、当麻は眉間に皺を寄せた。周囲を見渡したが、特に変化はない。
「おい、何も変わらんぞ。」
 文句を言いながら、伸の顔を再び覗き込む。
 相変わらず、その貌は血色を失い、今にも消えそうに、ひどく儚げだ。ただ、その浅い呼吸は次第に、ゆっくりと深い呼吸へと変わり始めた。
「伸、気が付いたのか?」 
 わずかの変化に希望の光を見いだして、口をついて出た言葉に、クロが苛立ちを含んだ声音で応じた。
「まだだ。次はお前の番だ。」
「俺?」
「伸の身体に入り込んだ瘴気を祓う。残念ながら、俺にはそれが出来ない。だから、お前の力が必要だ。」
 急くように言われ、当麻もまた、焦りながら答える。
「瘴気を祓うといってもな……。俺には伸のように癒す力は、多分、ないと思うぞ。第一、この斎庭じゃ、鎧玉の力は発揮できないと、以前に試している。」
 そう言いながら、当麻はズボンのポケットに手を突っ込んで、いつもそこに収まっている鎧玉に触れた。
「えっ……」
 驚きに、思わず声が漏れる。
 ……鎧玉が、反応している。それも、かなり強烈に。
 慌てて取り出し、手のひらに載せる。
 鎧玉は、深淵な宇宙の色にも似た深く蒼い光を放ち、力強く輝いていた。命があるかのように、脈打って、強く、弱く明滅している。
「以前、この境内で鎧玉の力を出そうとしたら、斎庭の霊力に押さえられて使えなかった。こいつは、そういう由縁のあるものだからな。しかしなぜ、今……」
「それならば簡単なことだ。現在、この境内には全く霊力はない。よって、お前のその玉の力も使える。お前は風の力を使うのだろう?」
「ああ。」
「それを使え。」
 当麻を下から睨み据えて、クロは低く唸った。その威圧感に気圧されて、当麻は言葉を詰まらせる。
 伸を、助けたい。だが、自分には癒しの能力は、ない。
 思考の迷路の行き止まりで、その壁の高さに圧倒され、行き詰まっていた当麻の耳に、ふと、祝詞の声が届いた。

 ……此く聞食してば罪と言ふ罪は有らじと 科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く 朝の御霧夕の御霧を朝風夕風の吹き掃ふ事の如く……遺る罪は在らじと祓へ給ひ清め給ふ事を……

 『科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く……』
 その一節を耳にした、瞬間。
 雷が空を打つように、当麻の頭に閃いた。
 ……そうか、祓う、のではなく穢れを「吹き放つ」のか。風の力で。
「わかった。やってみよう。」
 天空の鎧玉の力は、大気を操ったり天空の鎧を顕現させるだけのものではないのだとしたら。
 クロの言うところの、伸に流れ込んだ瘴気を、この天空の鎧玉の力で、吹き払うことができる。
 そう確信して、当麻は伸の頭上にかがみ込み、右手に光を放つ鎧玉を持ったまま、左手で伸の額に手を当てた。そして、頭の中でイメージする。
 大空を駆ける清浄で明るい風。伸の身体を吹き抜けて、穢れを持ち去ってまた空に戻る、輝くおおらかな風の力を。
 ……伸、目を覚ましてくれ。


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