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湿度の高い空気に、むっと血の匂いが立ちこめている。嗅覚の鋭い者であれば、それ以外にも、新鮮な肉の匂いや魚の生臭さを嗅ぎ取れるであろう。
そんな異臭とは裏腹に、目と耳に飛び込むものは限りなく美しい。見上げれば梅雨の晴間、夏の空は濃く青く鮮やかに広がっている。周囲の針葉樹は、昨夜の雨を未だ、その枝葉に留め、水滴は夏の光を反射して、きらきらと小さな貴石のごとく輝きを連ねている。耳に心地よく響くのは、そよと流れる風にこすれ合う木々のざわめき。そのささめきと語らうように、ポロン、ポロン、と琴の音が鳴っている。
そこは、千早宅の敷地の南の一角だった。邸宅を東方向に望むこの場所は、広い屋敷の中で特に鬱蒼と生い茂った木々の中に、ぽっかりと空いている。千早をはじめ、この屋敷に住む誰もが、普段は決してここには立ち入らない。屋敷の神域だ。
今、その神域に、祭壇が設けられていた。
質素だが大きめの案に、神への贄が捧げられている。
白鷺、山鳥、兎、フナ、ブリ、その脇には餅、山芋など種々の捧げ物が置かれている。その中でも、圧倒的な存在感を示しているのが、立派な角の生えた鹿の頭。捌いたばかりなのだろうか、乗せられた台の上に赤黒い血が流れ、したたり落ちている。焦げ茶の被毛の毛づやは良く、うっすらと閉じられた目は、すぐにでも開いて動き出しそうに、生々しい。
その祭壇の前に、千早樹が座していた。
三角の透かし鱗紋様と、梶の神紋の入った麻の着物を身にまとい、姿勢を正している。その背後に、千方がいた。いつもの黒のスーツ姿とはまったく趣が違う。彼もまた、千早と同じ着物を身にまとい、檜の櫛で丁寧に丁寧に、千早の髪を梳いていた。千方の手から、銀鼠の髪が何度も流れ落ちる。それは日射しを浴びて、神の宿る幾筋もの小さな滝にも見える。
無言の二人の耳に届く音を操るのは、これまた二人と同じ衣装を身にまとう花月だった。彼らから少し離れたところで、琴をつまびいている。
そんな三人を守る結界のように、神域の四隅には白木の棒が立てられていた。ゆうに2メートルはあるだろうか。梶の木を削り出した白い楔が、東西南北、大地に突き刺さっている。
腐臭を含んだ風が、千早の頬を撫でる、それに導かれるように、脳裏に遠い、そして痛みを伴う記憶が蘇る。
生まれて初めて、斎主として祭壇の前に座ったのは、六歳。諏訪の霊山、守屋山の山麓の小さな祠での祭祀だった。あの時も、こうして、丁寧に、丁寧に、何度も髪を梳いてもらった。その役目を担うのは、同い年の兄の「千方」だった。諏訪の中でも特殊な役目を務める一族であった「夏直路(なすぐじ)」地区を守る社の跡継ぎとして育てられ、二千年以上に渡り伝えられてきた呪力も秘法も全て受け継いだ。そして、自分に仕える兄の千方と一緒に、村を守るはずだった……あの惨劇が起こるまでは。
「私はずっと千早と一緒だよ。」
兄は、いつもそう言って髪を梳いてくれた。自分の前で命を落とすその日の朝にも。
ポロロン、とひと際、強く、琴の音が鳴った。花月は手を休めて、今晩のメニューでも尋ねるような軽い調子で言った。
「お手並み拝見と行きましょう。千早と出会った六十年前の、あの混乱がまたこの街で再現されるというのも一興。」
「ああ、そうだったねえ、花月。君が私に声をかけてくれたときも、この街は戦後の混乱の中だったね。」
正面を向いて、千方に髪を梳かれながら、千早は応じた。その貌にふっと懐かしげな表情が過る。
「千早様、整いました。」
髪を梳き終えて、千方は立ち上がるとそのまま一歩、後ろに下がり、そこで正座をした。感情の見えぬ漆黒の瞳が、正面の千早の背中をじっと見ている。
「ありがとう。ようやくこの時がきたよ。千方。泡嶋さまをお迎えする準備が整う、この時が。」
言って千早は、笑んだ。その笑みはあまりにも冷たい喜色を浮かべている。半身をもぎとられ、いまや神をも恐れぬ千早の、「神」への宣戦布告の笑みだった。
征士と秀が下北沢の喫茶店で話し込んでいるころ、当麻と伸は田無神社の大祓の行列に並んでいた。遼がさらわれ、戦うべき相手もよくわからないこの現状が、神様に祈って好転するなら、という一縷の望みを持っての参列だ。
黄金の公孫樹の木々の向こうに、夏の青い空が見える。やや強い日射しは、本格的な夏の到来を予感させた。
ちらちらと黄金の葉が舞う斎庭には、大祓の準備が整っていた。
拝殿正面に設えられた、直径2メートルあまりの茅の輪(ちのわ)。そこから少し離れたところに、スサノオ神を降ろす祭壇、その正面にイグサで織り上げられた敷物が敷かれ、続いて、人形(ひとがた)を炊き上げる火室(ほむろ)が開かれている。
茅の輪を前に並ぶ行列は、社務所の前を過ぎ、鳥居を入ってすぐの階段の手前まで続いていた。氏子崇敬者の多さが伺われる。
ちょうど、その列の中ほどに、伸と当麻はいた。
「当麻は名越の祓は初めてなんだっけ?」
祭事を前に配られたA4の紙と、小さな紙の袋を興味深く眺めている当麻に、伸は訊いた。
「ああ、初めてだ。名前だけは知ってたけどな。だいたい、梅雨のうっとうしい最中に外に出るのは億劫だろ。雨の日は家で読書するもんだ。」
「まあ、確かに梅雨の最中ではあるんだけどね、この、名越の祓の日に限っては、雨は降らないそうだよ。実際、僕も参列できる日はなるべく参列してるんだけど、降られたことは一度もなかったな。晴れていなくても、曇りだったり、ぎりぎり小雨だったりしてね。」
「それは、お前のせいじゃないのか。」
「そんなことある訳ないじゃないか。」
吹き出すように笑った伸は、当麻の持つA4の紙の裏を指差した。
「ほら、ここに名越の祓の、茅の輪の由来が書いてある。」
「ああ、ちょっと調べて来た。スサノオ神が蘇民将来の子孫を守るって話だろ?」
「うん、そう。諸説あるんだけど、大筋はこんな感じ。スサノオ神が旅先のある村で、一夜の宿を借りようとしたんだ。その村には蘇民将来という貧しい兄と巨旦将来という裕福な弟がいた。巨旦将来は裕福にもかかわらずスサノオ神に宿を貸すのを断り、蘇民将来は貧しいながらも宿を貸し、手厚くもてなしたんだ。やがて年月が過ぎ、この村に疫病が流行るんだ。そこへ、スサノオ神が再訪し『蘇民将来の子孫は、茅の輪をつけよ。我が救うは茅の輪をつけた蘇民将来の子孫!』と言って、蘇民将来の子孫を守ったというんだ。これが起原で、茅の輪を潜れば、疫病をはじめ、すべての災いを祓え除けられると伝えられたんだ。」
「『備後国風土記』だな。俺が読んだ話もそれだった。スサノオじゃなくて武塔神だったけどな。……それよりも、俺はこっちの方が気になる。」
言って、当麻は紙を裏返した。
紙一面にびっしり、漢字とひらがなの文字列が並んでいる。それも現代語ではなく、古語だ。表題には「大祓詞(おおはらえことば)」と書かれてある。
「大祓詞、別名、中臣祭文。原型になった祝詞は、九二七年に編纂された法令集『延喜式』中、最重要の祝詞らしいな。で、この部分。」
そこで、言葉を止めて、当麻は文章の羅列の、丁度、真ん中あたりを指差した。
『天つ祝詞の 太祝詞事(ふとのりとごと)を宣れ』、と書かれてある。
「この、『太祝詞事』というのが解明されてないそうじゃないか。いくつか資料をあたったが、この『太祝詞事』が何を指すのか、納得できる有力な説がない。」
それが許し難い、とでも言うようにしかめっ面で、祝詞を睨む当麻の横顔を見て、伸がくすくす笑う。
「当麻、祝詞は数学式でも化学式でもないんだよ。そこの部分はね、本当に誰も知らないよ。伝えられなかったんだよ。そのあとに、特別な言葉を奏上するとか、霊力の高い神様の名前を口にする、とかいろいろ言われているけどね。どれも正解じゃないんだ。でも、それは太祝詞事に限った事じゃない。神社にまつわる歴史を調べると、穴の空いた箇所なんていくらでも出て来る。だから、そんな難しいことを考えずに、ちゃんと心をこめて読み上げること。神職の方々は、命をかけて祝詞を奏上するんだ。僕たちも、そこまではいかなくても、きちんと神様に届くように綺麗な言葉を奏上しなきゃ。」
「俺をなめるなよ。半年前まではリアル受験生だったこの俺に、古文において死角はない。しかもこいつには御丁寧にルビまでふられているじゃないか。」
自慢にならないことを、偉そうに言い放つ当麻に、伸は少しだけ、意地の悪い笑みを浮かべた。指先で、当麻の持つ祝詞の後半部分の一節を指し示す。
そこにはこう記されている。
『荒潮の潮の八百道(やおじ)の八潮道(やしおじ)の潮の八百曾(やおあい)に坐す速開都比売(はやあきつひめ)と言ふ神 持ち加加呑みてむ』
指されたところを、何事かと当麻は見つめて、それから納得したとでも言うように頷いた。
「ここを現代語訳しろ、と?」
「違うよ。そんな簡単なことを聞くほど、僕は失礼じゃないよ。そこをね、読み上げてみて。」
「は? そんなことか?」
「簡単かどうかは、読み上げてみてから言うんだね。」
くすり、と何かを期待するように伸は口元を緩ませた。その隣で、当麻が不審そうに首を傾げて、じっと祝詞を見たあと、読み上げ始める。
「こうだろ。ええと『あらしおのしおのやおじのやし……やしおじのし……しおの……や、やあ、やおあい…………』 なんじゃこりゃ!! かむわ! 何の早口言葉だよ!」
まったく予想していなかったのだろう。当麻は、行列の中にいることも忘れて、声を跳ね上げた。隣で伸が、肩を震わせて笑いを噛み殺している。
「ほら、ちゃんと音読できないだろ? 大祓詞は、そりゃ古文の知識があれば大体の内容は分かるだろうけどね。一朝一夕で奏上できるものじゃないんだ。この部分もそうだけど、他にも『神集へに集へ給ひ』とか、『天の八重雲を伊頭の千別に千別て』みたいにね、何度も同じ言葉が重ねられているんだよ。だからちょっと、読み辛いんだけどね。こうして言葉を重ねることで、霊威が増すんだ。大祓詞はね、言霊の幸わう国、日本の、美しい言霊の結晶だから、本当に力を持っているんだよ。神職につくためには、まずこれを一字一句間違えずに奏上することが、最初の難関なんだ。そういう話を聞いたことがある。」
「……俺、絶対、無理だな。」
「うん、君には向かないと思う。」
真摯な当麻に、伸はまだ堪えられない笑いを喉元で押さえながら言った。そんな伸を横目に当麻は真面目な顔で続ける。
「しかしまあ、俺はこれでも一応、古い文献や歴史を調べるのは趣味だから、結構、知識はあると思っていたんだ。しかし、どうも、この関係、神社関連、陰陽道関連、その周辺というのは、知らないことだらけだ。しかも調べれば調べるほど、分からないことが増える。その上、やっかいなことに資料がなかなか見つからない。」
「そうだろうね、神道は仏教と違って、明確な教えがあるわけじゃないから。一般的な歴史上に登場することもなく、祭祀に携わってきた人々だけが面々と受け継いで来た部分が多いから、独特のものが多いんだろう。途中で途絶えるものもあれば別の宗教や学問と混じったりして、違うものに変わっていったものもあるし。全てにおいて答えがない、というのが本質かもしれないね。僕も実家の小さな祠に伝わる伝承を知っているけれど、それは決して文字に残るものではなくて母さんから聞いたものだから。そういうものなんだと思う。だから、陰陽寮の人たち、というのはかなり特別なんだ。」
なるほどな、と当麻は口の中で呟いてA4の紙を折り畳んだ。
「伝承といやあ、この大祓にまつわる伝承を、昨日、何かの本で見かけたな。」
「どんな伝承?」
「ほら、ここに並ぶ前に人形(ひとがた)を社務所に預けただろ。あれに俺たちの『穢れ』を移したわけじゃないか。で、このあとに神職が炊き上げるんだろう。それが昔は、ああいう紙じゃなくて生きている人間に『穢れ』を移して、そいつを殺していたらしい。つまり生け贄ってわけだな。」
目を丸くして、伸は息を呑んだ。
「……その話は初めて聞いたよ。」
「そうか? 民俗学の話だと結構あるぞ。双子なんかは忌み嫌われて、片方を殺しちまうんだよな。多分、その殺される方というのは、片方の穢れを引き受けて殺されるんじゃないかって、ふと思った。」
「……双子?」
その言葉に反応して、伸が言葉を継ごうとしたとき。
「お待たせ致しました。ただいまより二〇〇九年、水無月の祓を執り行います。」
境内に設置されたスピーカーから、アナウンスが流れた。
「宮司一拝。」
アナウンスに続いて、白絹の浄衣姿の宮司が拝殿の前にすすみ、拝殿の向こうの本殿に鎮まる田無の大神に一拝をして、短い祝詞を唱える。これから、この境内で祭祀を執り行うことを奉告するものだ。
続いて、
「みなさま、それではお手元の白い袋の中の切麻(きりぬさ)を手に取り出して、肩の上から左、右、左、とかけてください。」
と、アナウンスが流れると、参列者は慣れた様子で自分の肩に切麻をかけ始めた。細かく切り刻まれた白い半紙と麻の布が、ひらひらと流れ舞う。
伸と当麻もまた、周囲に合わせて切麻を自らの体に振りかける。伸の隣でぼそりと、当麻が「これ、掃除大変だろうなあ」などと不信心なことを言ったが、伸は聞かなかったことにした。
再び、スピーカーからアナウンスが流れる。
「では、今から神職が大祓詞を読み上げますので、みなさまもご一緒にお願いします。」
列の先頭に立つ神職の一人が、数言、何かを唱えた後、参列者が神職にあわせて一斉に祝詞を唱え始めた。
……高天原に神留まり坐す 皇親神漏岐神漏美の命以て 八百万神等を神集へに集へ給ひ 神議りに議り給ひて 我皇御孫命は 豊葦原瑞穂国を 安国と平けく知食せと 事依さし奉りき……
周囲に遅れず、滔々と祝詞を唱え始めた伸の横で、当麻があたふたと言葉を追っている。詰まったり、飛ばしたりしながら、周囲の音からずれないように必死だ。
祝詞は粛々と読み上げられ、厳粛な祈りの場を作っている。
夏の日射しを反射した、公孫樹の枝葉の間から、黄金の木漏れ日が参列者に降り注ぐ。祝詞の力なのだろうか。光を受けた公孫樹の葉、一枚、一枚が、砂利に落ちずに、ふわり、ふわりと宙を浮いている。
俗世とはかけ離れた幻想的な光景。
その中に人々の祈りの声は続く。
……天津菅麻を本刈り断ち末刈り切りて 八針に取裂きて 天津祝詞の太祝詞事を宣れ。
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