第35話 天泣の祓

 天泣の祓(1)





 天空にも地上にも星が瞬いている。
 やさしい夜風が吹き抜ける丘の頂で、二人は街を見下ろしていた。
 唐紅の着物の童女と純白の袍の少年。
 二人の間には、ほんの少し隔たりがある。それでも互いに手の伸ばせば、触れられる距離だ。
 唐紅の衣の童女は、抑揚のない声で呟くように零した。
「綺麗な都ね。」
 ゆっくりと、右手の裾を持ち上げわずかな明かりに揺らしながらそちらを見下ろした。赤や橙、緑や白の人工照明と流れる車のライトで彩られた、眠ることを知らないきらびやかな街を指す。そして一歩、前に踏み出した。
「そう、いつも都は綺麗だった。」
 童女の声は、ひどく哀しげだ。過去形の言葉に諦めの色が浮かぶ。
「この街は星屑の花が咲いているみたいだ。」
 少年は明るい声で言って、童女の横顔を覗き込んだ。しかし、その貌には声と同じく必死に何かを堪えているかのような哀しみしか浮かんでいない。
 夜の溜め息が、ふわり、と一枚、花弁を運んで二人の間を通り過ぎる。
 やがてずいぶんと時間も過ぎたころ。
 異変が起きた。
 街の灯りが、少しずつ、消え始めた。まるでイルミネーションが壊れたとでもいうように。
 少年が驚いて、数度、目を瞬かせている間にも光という光は夜の闇に飲み込まれ、とうとう地上の星は消え去ってしまった。あとに現れ立つものは、夜の奥深くにある沼地にも似た、どろりとした水の面に覆われる闇の凝り。
「どうしたんだろう。灯りが消えてしまったみたいだ。」
 それから間を置かず、少年は声を跳ね上げた。
「おかしい! 街の様子が変だ。みんな逃げてる。泣いてる。街で何が起こってるの?」
「わたしが……」
 少年の言葉に応じるように、ひそやかに言った童女は、その小さな体を自らで抱き締めた。俯いた瞳から、一粒、二粒、つうと透明な涙が流れ落ちる。
「わたしのせいなの。」
「えっ?」
「この都か、私か、二つの選択しかないの。」
 どうして? と少年が言葉を重ねようとしたとき、童女は面を上げた。涙の痕をうっすらと残しながら、口元だけで寂しげに微笑んだ。
「……ごめんなさい。」
 言葉と同時に、童女の体はきらきらとした唐紅の粉に溶けて、夜風に流されるまま消えた。
 束の間、それに見入っていた少年は、眼下に広がる漆黒の沼に視線を転じる。
「止めなきゃ……街を守らないと。」
 もう一度、止めなきゃ、と口の中で反芻して、少年は丘を駆け下りた。


「止めなきゃ……」
 自分の寝言に気付いて、伸は目を覚ました。時計に目を遣ると、午前三時を過ぎたころだ。
 また、あの唐紅の夢だった。内容の仔細は覚えていないが、夢から醒める直前に、非常に切迫した気持ちになっていたその名残がいまだ抜け切らない。
 もう一度、丁寧に頭の中で夢を思い出す。
 どこか遠くを見ていたような気がする。
 きらびやかな光の街……東京。
 そこを、眺め降ろしていた、そんな夢だったような記憶の欠片がある。
 ふう、と溜め息をついて、片手で額に手をあてた。
 ……止めるって、何を。
 神田明神の一件以来、重い枷を付けられているように体が気怠い。皆には気付かれないように細心の注意を払ってはいるけれども、何のきっかけで見破られるか分からない。
 特に、当麻には。
 ここ数日、時折、ふと自分の顔を覗き込んで、何か言いたげな表情で見つめたまま、黙っていることがある。そういうときは紺藍の瞳に全てを見透かされているようでひやりとする。いっそのこと、全てを白状してしまいたくなる。
 あの日、神田明神の守護が落ちてから、吉祥寺の空気が一変した。梅雨のせいで空気が重いのは仕方ないが、それ以上に妙な臭気が漂うようになった。死んだ獣の肉がどこかで爛れ落ちているような息苦しさを街に出るたびに感じる。他の三人は気付かないらしい。黄昏時は、奇妙な影をあちこちで見かける。人にあらざるものが、そこここに息づいているのが分かる。多分、あの影は、少しずつ成長して日中にも現れるようになるのだろう。
 おそらくこの現象は吉祥寺だけではないはずだ。東京という街にすべてに及んでいるはずで、それは望まない大事件の予兆にも思える。新型インフルエンザも、遼を含む神隠し事件も、まったく解決の糸口をつかめないまま、時は過ぎている。すべてが、梅雨の雨のヴェールに覆われているように。
「伸……」
 思いに耽っている伸の耳に、声が届いた。
「当麻、起こしちゃった?」
 頭をずらして、ひそやかに声の主に問いかける。
 答えはなく、規則正しい静かな寝息だけが聞こえる。どうやら、寝言らしい。
 安心してふっと、緊張がほぐれたとき。
「あれ……」
 伸は自分の額にあてていた手を頬に滑らせた。次から次へと、生暖かいものがこぼれ落ちる。
「僕、泣いてる?」
 驚いて、思わず声をあげた。自分の意志に反して、とめどなく流れる涙が、枕を濡らす。
 ……ああ、やっぱり、僕は怖いんだ。
 当麻も他の二人も何も言わないけれども、神田の事件の折に、蛇神がこの体に体現したようだ。その際の記憶は全くないけれど、意識を取り戻したあとの神田明神の神職の自分への接し方が尋常ではなかった。まるで化け物を見るような目でこちらをちらちらと見て、明らかに敵意に近いものを投げかけていた。渡井のフォローがなければ、そのまま、異形としてその場で処分されていてもおかしくない状況だったのだろう。 
 当麻とは、ずっと一緒にいたいと思う。
 でも、当麻の住む世界を守ろうとすると、自分の身は多分、保たない。
 再会してから約二ヶ月、ちょっとずつ距離が縮まってきたことが、今ではどうしようもなく辛いときがある。
 何気ない会話も、スキンシップも、重ねる手から流れ込んで来る感情も、今の自分にはあまりにも心地が良すぎて、失うのが恐ろしい。
 ……手を離せなくなる前に、身をひいておくべきだったのかもしれない。君との未来に光が見えないこの現実を耐えるには、自分は脆すぎたなんて今更気付いた。君と会えなくなる日が確実に来てしまうのがこれほどに辛いことだなんて、田無の大地の下であの「神」と契約したときは想像もつかなかった。大切な人を置いていくことの罪悪感がこれほど重いとは考えられなかった。
 夢を見ていたことがある。君と二人っきりで暮らす毎日を。
 寝坊する君を起こして、一緒に朝ご飯を食べる。パン派の君のために、僕はサンドウィッチを作ろう。君は珈琲、僕は紅茶。天気のいい日は、近くの公園でランチをして、それから散歩。何気ない会話、それと沈黙。夕飯は二人で作る。きっと、君は頭がいいから、料理だってコツを覚えればできるはずだ。一緒に作った夕飯を一緒に食べる。テレビを見ながら、今日、一日、平和に暮らせたことに感謝をする……。そんな日常の繰り返しを、夢見ていた。
 ……やっぱり、君と生きたいよ。
 また、ほつり、と生温い涙が零れる。
「ねぇ、クロ。君はどう思う?」
 涙を拭いた手で胸元でくるりと丸くなる獣の、艶やかな被毛を撫でた。獣はちらとも起きることもなく健やかに眠っている。
 そのまま、手を心臓の上に乗せて、拳を握る。
 ここに、自分の安寧と引き換えに力を貸すと契約した蛇神が眠っている。
 夜の闇の虚ろを見つめながら、伸はそっと呟いた。
「当麻、君はもう、僕がいなくても眠れるかい?」

今回は短めです。いや、短過ぎる……! ちょっと忙しかったので。その他呟きはブログにて。