「何かあったのか?」
鳳凰殿の裏を通り過ぎ、御社殿の屋根の端が見えたとき、当麻は斎庭の異常に気付いて一歩、立ち止った。しかし、時は一刻を争う。考える暇もなく、御社殿に向かい駈け出した。
拝殿にあがる階の下に一人、あがったところにもう一人、浄衣姿の神職が倒れていた。
「遅かったか……」
無意識に呟いて、当麻は階を駆け上る。
拝殿の扉を乱暴にあけて、そこに人の姿を認め、当麻は立ち止った。
「誰だ?」
思わず零した言葉に、おかしな感触を覚える。自分で言っておいて妙な問いだと当麻は思う。倒れていた神職のことを考えれば、おのずから、そこにいるのは「鬼」でしかないはずだ。
誰何され、人影は動きを止めた。顔だけで振り返る。
長身の体躯に、黒の細身のスーツをきっちりまとっている。短い黒髪と、光を宿さぬ黒い瞳。人であるなら男前の範疇に入るその貌にはおおよそ感情というものが見当たらず、次の動きが読めない。
当麻は持たされた桃の弓を握った手を握りしめていた。額に一筋、つうと冷や汗が流れる。
……こいつは、やばい。
本能が、五感が警告している。目の前の、寸分なく人の姿をしたものが、己の手におえる者ではないと。
男は、当麻に興味をなくしたように再び奥の本殿の方に向くと、低く命令するするように言い渡した。
「……消えろ。」
声と同時に、男の輪郭が黒いきらめきを帯びて縁取られる。ふわり、と彼を包み、燐のように輝く。輝きは額のところで一層、強く光を放ち、形を成した。
天を仰ぐ二本の、角。
異形。
その姿に呼応して、社殿の中の乾いた風が渦巻いた。風が枷のように、当麻を縛り付ける。意志があるかのように、床に当麻を叩き付けた。
「っつ……」
反射的に受け身の体勢をとって、怪我は免れたものの、したたかに打ち付けた背中の痛みがひどい。起き上がりざま、ポケットの鎧玉を握り力を込めるが、反応はない。やはり神域では鎧は発現しないようだ。
「待てっ!」
奥に進もうとする異形を当麻は呼び止める。もちろん止まるはずもなく、拝殿と本殿をつなぐ幣殿にさしかかったところを、当麻は弓で鬼の背を薙いだ。確かな手応えが、あった。
鬼の足が止まる。
今度は全身で振り返り、当麻の前に立ちはだかった。
当麻、ではなく、桃の弓を一瞥して、苛立ちの色をその貌に浮かべてから。
鬼を中心に、風が湧いた。
生まれた風は、大気を切り裂く突風となり御社殿内をのたうちまわる。祭具が、供えられた神饌(みけ)が、奉じられた榊の枝が、泣き叫ぶような音を立てて渦巻く風に飲み込まれる。
「くそっ!」
当麻自身も立っているだけで精一杯だ。それでも、再度、桃の弓で鬼に斬り掛かる。強い力で跳ね返されるが、それでも風の檻に守られている鬼をなんとか薙ぎ倒そうと、力の限り、何度も何度も弓を降り下ろす。渡井が言っていたように、桃の弓に鬼を伏せる力があるというのなら、いつかは体力が削がれて好機が訪れるのではないか、そう思っていたのだが。
何度、攻防を続けた頃だろうか。
どこか遠くで、轟く音がした。人の声か大地の声か判別のつかない、体に直に響く音。
瞬間、当麻の握っている桃の弓が、すっと軽くなった。同時に、鬼に斬り掛かる力が、消滅した。
この時、外では将門が現れて混乱状態に陥っているのだが、当麻には何が起きているのかわからない。ただ、その「場」から神聖な力が失われたことだけは理解できた。
……何が起きた?
一瞬の戸惑い、その隙をつかれた。
荒れ狂う風の一束が、剣のように形を変えて当麻の腹を直撃し抉った。
真剣で刺されたような痛みに堪え切れず、呻き声をあげて当麻は幣殿の床に倒れ込む。
……所詮、鎧なしでは俺はただの人間か。
悔しさに、倒れたまま拳を握りしめる。
鬼はその姿に一瞥をくれてから、本殿へと歩みを進める。
風に抑えつけられ、這いつくばったままの姿勢で、当麻は鬼に叫んだ。
「お前の、いや、お前達の目的はなんだ!」
ぴたり、と鬼の足が止まる。その表情は恐ろしいまでに静謐だ。
「なんのために、こんなことをしている!」
二度目の問いに、鬼は、呟くように応じる。
「……あの方の望みを叶えるためだ。」
言葉は風音にかき消され、当麻には届かない。
斎庭の中央に、略式の祭壇が設けられていた。
四方を忌み竹で囲い、案を置いて榊や神饌を供える。
その祭壇の前に、宮司を筆頭に八人の神職が左右に別れて座している。
修祓、献饌を終え、将門の御霊鎮めの祭祀は山場に差し掛かっていた。
「将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太が はかりごとにて。」
低く唄うように、朗々と宮司が唱える。続けて八人の神職も同じ歌を唱和する。
『……我は新皇なり。我を再び害しようするのは何者ぞ。』
御社殿上空の将門の姿が、ゆらりと揺れる。
ごう、と大風が吹いて、榊が引き千切られそうになびく。
細かな雨が降り始め、空は鳴動をやめない。
「あの祝詞は、何ですか?」
祭壇から離れた神楽殿の前で、渡井と伸たち四人は斎庭の様子を伺っていた。
伸の問いに、渡井は目を祭壇からそらすことなく応じる。
「歌です。」
「歌?」
「歌の語源は、『打つ』から来ているそうです。相手の心を、魂を、『打つ』。それが日本の歌の本義です。あの歌は、かつて歌人の藤六左近が将門の首級を封じた歌です。その歌に浄化の念をのせて、再度、御霊を鎮めようとしているのです。ただ、将門級の御霊ですから、一時しのぎの鎮めにしかならないでしょう。」
「ひとつ、お伺いしてもいいだろうか?」
伸と渡井の会話に、征士が加わる。
「なぜ、皇居を守る表鬼門に、朝敵である平将門が祀られている?」
もっともな問いだった。渡井は、やはり斎庭の中央から目を離すことなく続けた。
「東京と呼ばれる前、この地は江戸と呼ばれ、武士の都がありました。彼らは古から京の都人が蔑んできた東のこの地に自らの王国を作り上げました。その象徴が江戸城です。その表鬼門に、かつての朝敵を祀ることで、武士の護りの力とし、朝廷に屈しない自分たちの力を誇ったのです。
しかし皮肉なことに、江戸幕府が終焉を迎え、明治天皇がこの地を都に選び、江戸城に入城し宮城(きゅうじょう)と定めました。それが今の皇居です。ですから、一旦は、逆賊であったことが問題視され、神田明神の祭神から平将門の名前は外され、将門神社に移されましたが、一九八〇年代半ば、氏子、崇敬者の強い要望により、再び、神田明神の祭神として祀られることになりました。
おそらく、このような……皇居の表鬼門にかつての朝敵を祀ることになってしまうとは、誰も予想がつかなかったでしょう。」
唱和される歌が幾度も繰り返される。
夜闇に充満し、霊気を満たす。
将門の登場によって乱れ穢された斎庭の大気が、少しずつ、少しずつ、凛とした清らかなものに変わって行く。
やがて。
蜃気楼のように曖昧だった将門の輪郭が、溶けるように闇に滲んで消滅した。
彼に呼応した軍勢たちも姿を消し、禍々しい夜気は山奥に湧く泉のごとく清冽な気に搦めとられ浄化された。
動けない当麻の目の前で、鬼が御社殿最奥部へと入って行く。
本殿へ、そのご神座へと近付く。御扉をあけて、スーツの胸元から何か取り出すと、その奥へ入れた。
まさにその瞬間。
ごぉん、と大地が鳴り響いた。
御社殿ごと大きく上下に揺れた。地球の最下層から突き上げて来るエネルギーが、一気に解放されたとでもいうように。
立つことも叶わぬ大きな揺れに、思わず当麻は目を閉じる。
コンマ数秒の時間を置いてご神座を見た。
鬼の姿はかき消えていた。
枷となっていた風も今は止み、御社殿内は薄気味悪いくらいに沈黙している。
立ち上がっった当麻は、背中の痛みを堪えて御扉に近付く。
普段は宮司しか開けることを許されない扉が、無防備に開け放たれていた。
その中を覗きこんで、当麻は唇を噛みしめる。
素人の自分でも分かるくらいに、そこには全く霊力も神聖な気も感じられない。気配を感じ、足元に目をやる。
子どもの手を広げたような形の、奇妙な葉を拾い上げて観察する。
……やはりこの蒲葵の葉が呪具なのか。
「くそっ!」
己に対する怒りに任せて、当麻は右の拳で手近にあった柱を殴った。
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