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神田古書街の中央を貫く靖国通りから、ずいぶんと奥まった裏道のとある古本屋で、当麻は資料に埋もれていた。この店は、古書街で唯一、宗教と呪術に関する書籍を専門に扱っている。そんな店の性質のせいか、客は一人もいない。八畳もあるかないかの狭い店内は、黄ばんだ和綴じの文献や、破れかけの紙の束のような冊子、草書体で表題を綴られた巻物などが所構わず溢れかえっている。店主は余程、整理が苦手なのか、もはや本屋の様相は呈していない。歳を重ねた紙の匂いの充満する倉庫と成り果てている。
それでも辛うじて、分野ごとに分けられていたのは幸いだった。当麻は陰陽道呪術関連書籍を手当たり次第に棚から引っ張り出して、気になる部分を拾い読みしていた。
遼が神隠しにあったのは昨日。
そして今日は朝から皆、彼の捜索を始めた。
といっても、手がかりとなるものがほとんどない状態だ。鎧玉の力と奇跡を信じて、伸たち三人は都心に出た。秀以外の伸と征士は、路面図なしに入り組んだ都会の交通網を使うのは困難ゆえ、自然と単独行動を避けることになった。
当麻は朝一で古書街に出た。数軒の古本屋を回り、ここに至る。
「……やっぱり、ここにもないか。」
手にした和綴じの本を棚に戻し、深い溜め息をつく。
……かつて、朝廷に仕えていた陰陽師がいた。陰陽道の秘儀秘術は国家機密であり、外部には知られるはずのないものだった。しかし、時代が下り権力の在処が激変するに従い、秘儀秘術は外部に漏れ、公的機関に属さない術者も出現した。洞真法人は、その生き残りではないか。かつての陰陽寮が、現在、別の名前で存在しているように。
それが、当麻の立てた仮説だ。その仮説を証明して、洞真法人の正体を見定めるために、もうかれこれ二時間ほどこの店で時間を費やしているのだが、いっこうにその類の資料は出て来ない。どれもこれも、暦や方位、星辰信仰、陰陽と五行の基礎理論など、陰陽道の技術と歴史の説明に尽きる。
「どこかの大学の学生さんかね。」
高く積み上げられた本の向こうから声がした。
無精髭をそのままに、分厚い眼鏡をかけているのは五十絡みの男だ。風貌のわりには若い声で、眼鏡の奥からじっと当麻を観察していた。どうやら、この店の店主らしい。
「……ええ、まあ。」
曖昧に返して、当麻はどうしたものかと迷った。店主に聞けば、もっと詳しい陰陽道関連の資料が見られるかもしれない、と思った、その矢先。
「さっきから陰陽道関係の資料を漁っているようだが、そういうのが専門かね。」
「ええと、民俗学を。」
「なるほど。」
店主はあご髭を右手でざらりと撫でてから、面白そうに問いかけた。
「鬼には興味があるかい?」
「鬼、ですか?」
当麻の脳裏に咄嗟に閃いたのは、銀座での伸の言葉。角のある人間に彼は襲われたと言っていた。つまり、鬼、だ。
沈黙を肯定ととったのか、にやりと笑って店主は続けた。
「昨日、この近くで鬼が出たんだよ。」
「えっ……」
「公にはなっちゃいないけどねえ。昨日の夜、神田明神さんに鬼が入ったって、古書街界隈じゃちょいとした話題になってるよ。鬼門を護る神社に鬼とは、縁起が悪いねえ。」
「すみません、その鬼について、もう少し……」
言いかけた当麻の言葉は、ガラリという扉の音にかき消された。客だった。グレーの細身のパンツスーツに元気なショートカットの女性。古びた紙の匂いの中に、ふわり、と柑橘系のフレグランスの香りが漂う。
「おお、乃千先生。」
「お久しぶりです、吉野さん、お手数かけます。資料を受け取りに来ました。」
吉野さん、と言われた店主の眦が下がる。先程まで話していた当麻のことなど、すっかり忘れてしまったかのように、視線はそちらに釘付けだ。
「いやいや、乃千先生の頼みならどんな資料もうちは取り寄せますよ。」
言いながら、店主はのれんを潜って、店の奥へ入っていった。
ヒールの音を二回、鳴らして、女性、乃千清美は歩みを止めた。視界に入った人物に驚いて、瑞々しい笑顔を浮かべる。
「あら……確か、羽柴君?」
「あ、どうも。」
もごもごとはっきりしない口調で応じた当麻は、居心地が悪そうに視線を彷徨わせる。
ドアが開いて、その姿を見た瞬間、乃千清美だと分かっていたのだが、どうにも挨拶をするタイミングを逃してしまった。
「こんにちは。こんなところで再会できるなんて思いもよらなかったわ。」
「……俺もです。」
やはり、曖昧に応じて当麻は頭を掻いた。どうも、乃千清美という人物には調子を狂わされる。そもそも、五十を過ぎて、学者で、この色気は反則だと思うのだ。
清美は薄い紅色の唇にほのかに笑みをためて、当麻の持つ書籍とその辺りの本棚を見渡した。
「こんな胡散臭い古本屋に何の用かしら? 民俗学系の本なら、もっといい店が表通りにあるわよ。」
「いえ、ちょっと調べものがありまして。」
「……陰陽道関係?」
直球だった。前回会ったときも、清美はまっすぐに聞いて来た。遠回しな言い方を選ばないのは、どうも彼女の性格らしい。
……彼女なら詳しいのではないだろうか。
少なくとも、ここ一ヶ月と少し、書類や文献を漁っている自分より知識はあるだろう。だが、自らの抱える疑問を尋ねてよいものかどうか、躊躇った。遼が神隠しにあってしまった今、誰が味方で誰が敵なのか、分からない。頼ることができるのは時間を一緒に重ねて来た仲間だけだ。それでも、限界があることは、頭で分かっている。
「私でよければ、答えるわよ。知ってる範囲だけれどね。」
真摯で静かな声だった。古書が喋ったかのような、重みのある誠実な声音。
それは、当麻を突き動かすのに十分な理由を与えた。
「……陰陽寮や陰陽師について調べています。」
「へえ、民俗学の範疇からはちょっと逸れるわね。でも、最近、ようやく研究が始まった分野だから、私も興味があるのよ。」
「最近?」
「そう。資料となる文献が少なすぎたり、これまで伝わっている内容があまりにもオカルティックだったから、誰もまともに研究しようとしてこなかったのよ。あとは、陰陽道関連を調べようとすると、触れてはならない領域を犯すことになるから……」
皇室の禁忌に触れるのだと、清美は暗に言って、当麻から目を逸らした。本棚から一冊、ひどく退色した本を取り出して表紙を眺めながら、隣の当麻に尋ねる。
「羽柴君が調べているのは、陰陽道の何かしら。」
問いかけられた言葉を心の中で反芻して、当麻は丁寧に言葉を選んで応じた。
「明治時代に廃止された陰陽寮が、現代に残っている可能性はあると思われますか?」
「……どうでしょうね。廃止されたといっても、暦と天文地理の権限は政府に移管されただけだわ。その最高統括者は明治天皇。つまり往古の陰陽寮の仕組みを、明治天皇は王政復古とともに再び自らのものにして古式に帰ったことになるわ。そういう意味で、陰陽寮という名前ではなくても、その役割が今でも残っている可能性は否定できないわね。」
手に取った黄ばんだ本を開いて、目次らしき頁を目で追いながら、清美は応じる。
「陰陽寮」的な組織は残っているのだと……今、現存する渡井や幸頭井たちの組織の存在を、清美は認めた。
「……では、かつて陰陽寮に仕えなかった、いわば在野の陰陽師や術者が、明治政府が公式に陰陽道を禁止したあと、現在に生き残っている可能性はありますか?」
「質問の内容は同じね。いくら政府が禁じたからといって、民間に流れた呪術者が消えるわけがないわよね。そもそも、陰陽道の管轄していた暦は、江戸時代、深く市井の人たちに親しまれて文化の一部として定着したのよ。節分や七五三といった年中行事がその名残でしょう。修験者や陰陽師、密教僧、千年以上もの歴史を背負った彼らがたった百四十年程度で消えるはずがないでしょうね。」
「じゃあ、彼らは……」
当麻は手にしていた本から清美に視線を向ける。清美は相変わらず、黄ばんだ本を湛然にめくりながら、とても簡単なことのように答えた。
「論理的に考えて、例えば道端の占い師、新興宗教の教祖、そんな姿に身をやつして、この時代に生き延びているんでしょう。」
言い切った清美は、ぱん、と本を閉じて、隣の当麻を見た。視線がぶつかる。清美の瞳が、当麻に問いかける。これでいいのか、と。
「……ありがとうございます。」
ふいと視線を逸らして、当麻は正面を向いた。
洞真法人は陰陽寮に属さない、いわば、在野の陰陽師としてこの東京に存在している確率は極めて高いというわけだ。かつて朝廷にのみ恩恵をもたらしていた陰陽道の秘儀秘術を現代に伝えているのは、渡井たちだけではなかったのかもしれない。乃千清美の言うことを信じるなら、伸の言った一連のことに納得がいく。同時に、遼を攫ったのが十中八九、その彼であり得るということも。もちろん、それは彼女の説を鵜呑みにした場合のことで、実際はそうではない可能性もあるが。
しかし、最初、渡井と会った時、彼は迦雄須のことを「外野に存在していた陰陽道的な流れを汲む術者の一人」と言っていた。その迦雄須の鎧を一千年後の自分たちが受け継いでいたことを考えれば、明治時代の幕開けから現代に至る百四十年の時間などとるに足らないではないか。ならば洞真法人の存在もまた……。
「熱心なのね。」
「え?」
当麻の思索を、清美の静かな声が遮った。
「この前、会ったときも、あなたはそういう目をしていたわ。誰かのために、必死になっている、そんな目よ。研究者によくあるような、己の妄想に耽った目じゃない。現実を見据えて、何かと対峙している強い瞳よ。」
答え兼ねて、当麻は視線を虚空に彷徨わせる。頭の中で、ひとつひとつ、丁寧に考えをまとめてから、躊躇いを捨てて応じた。
「……護りたいものがあるんです。」
わずか、沈黙があった。
清美が驚いたように目を瞬かせて、当麻を見つめる。
「ロマンチックな言葉ね。ますます研究者らしくないわ。でも、私、そういうのは好きよ。貴方が護りたいものは、誰?」
「友人と、それから……」
そこまで言って、当麻の脳裏に伸の笑顔が過る。
……毎晩、抱き締めているあの温もりを、友人として括ることはできない。
一瞬の躊躇を見透かしたように、清美が女性特有の艶のある声音で問い返す。
「愛する人かしら?」
「え?」
「友人を護るって、変じゃない。友人なら『助ける』でしょ。『護る』なら、その相手は『愛する人』だわ。」
当麻が清美の言ったことを理解するのに、ゆうに十秒はかかった。その意味するところを解し、息を呑んで清美を見返す。そこには、先程の快活な研究者ではなく、この世のものとは思えない、彼岸に咲く花に似た妖艶な美しさをまとった女の姿があった。
「いいわよ。協力してあげる。わたしね、誰かを愛している人って応援したくなるのよ。それがどんなにひどくても、歪(いびつ)でも、純粋であるなら、ね。その身を異形に変えてまで己の欲望を貫き通したものたちを私は研究してきたの。あなたは、そんな彼らの魂に近いわ。」
そう言った清美の、黒い黒い瞳が当麻を観察している。そこに一切の余計な感情はない。ただただ、心の奥底を探るように見つめている。
清美の言葉の深いところの、本当に意味するところを知って当麻は目を離せない。
欲望を貫き異形に成り果てた者、それはかつての阿羅醐だ。
伸への思いはそんなにいびつではない、と当麻は自分に言い聞かせる。護りたい、ただそれだけなのだ。そんな己の欲望のために決して他人を不幸にしたりしない、と。
「勇気があるなら、この国の禁忌の系譜の謎を問いてみなさい。そこに、あなたが本当に護りたいものの手がかりがあるわよ。」
清美がそう言って、再び蠱惑的な笑みを浮かべた時。
「お待たせしました、乃千先生。」
のんびりとした声が、のれんの向こうから聞こえた。同時に手に紙束のような資料を抱えた店主が姿を現す。
清美は、今、さきほどまで漂わせていた妖しいまでに女性的な雰囲気をすっと消して、そちらに向く。そこにはもう、研究者然とした乃千清美の姿しかなかった。当麻を背後に、そちらに向かう。
「ありがとうございます。本当に助かります。」
清美と店主は、当麻のことを全く無視してしばらく歓談したあと、ふっと話題をもう一人の客に向けた。
「あの青年は、乃千先生のお知り合いですかね。」
「ええ、最近、熱烈なアピールを受けましたわ。」
「乃千先生はお美しいから、隅に置いておけませんなあ。」
当麻に聞こえるように言い放って、大きく店主が笑う。それに相槌を打った清美は、「じゃあ、お手数かけました」と店主に背を向けて、店を出ようとした。その途中で、当麻に声をかける。
「護りたいものがあるなら、全力で護りなさい。」
低く呟くような声で言い残して、清美は店を出た。
当麻は呆然とその後ろ姿を見送ることしかできなかった。
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