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六月十六日、深夜。
千代田区、江戸総鎮守・神田明神。
皇居の鬼門に位置するこの神社は、東京十社のひとつで、首都の護りであると同時に、都心……神田、日本橋、秋葉原、大手町、丸の内など、政治経済に関わる一〇八か町会(ひゃくはっかちょうかい)の地区の総氏神である。
昭和のはじめに造営された、朱色の美しい総漆朱塗の権現造りの社殿、随神像を奉る大きな随神門、屋根の両端に鳳凰をあしらった鳳凰殿……それらいくつもの建造物が、この神社の氏子や崇敬者たちの経済力を伺わせる。それ以上に、都心にあって、広々とした斎庭を誇っているというその事実だけでも、神田明神を支える者たちの絶大な力を物語っていた。
しかし、昼の陽の光の下では荘厳な社殿も、夜の暗闇にあっては重く黒いコンクリートの固まりでしかない。
広い斎庭に光はなく、暗い闇を溜めた澱みにも見える。
けれども、闇を透かす千方の目にははっきりと、鮮烈な霊力がこの場を覆っているのが分かる。境内の外から何重にも施された結界。境内に入ってからは、地面から建物に至るまで、うっすらと仄白い呪力をまとっている。鬼である千方がここに侵入できたのは、千早の施した術によるものだ。
反対に、人や生き物の気配というものは全くない。
しんとした静寂の帳の中は、時間が止まっているようにさえ感じられる。
社殿に向かって右にある獅子岩に体を潜めて、千方は周囲を伺っていた。人ならざる異形としての全ての感覚を研ぎすまし、万全を期する。花月から受けとった社殿の図面から、本殿とご神体のある神座の位置は頭に叩き込んである。同時に、今日、この時間に何の祭祀も行われていないことも分かっている。
誰にも気付かれずに、神田明神本殿に鎮座するご神体を霊力をおとしめその呪力を無効にすること。
それが千方の仕事だ。
夜陰に沈む黒いスーツの袖をずらし、腕時計で時間を確認する。午前零時。千早の指示のあった時間だ。
獅子岩からそっと離れて、千方は社殿に近付く。
一歩、そしてまた一歩。
人の気配も、特別な呪術が施されている様子もない。
社殿の階(きざはし)に足をかけた瞬間、千方の本能が警告を鳴らす。
……おかしい。
何か、違和感を感じる。これまでも、いくつかの神社を襲撃してきた。それらの神社はご神体を祀る本殿には、圧力を感じるほどの呪力を施し、また、一般人が迂闊に近づけないように強力な結界を張っている社もあった。
しかし、この社殿には今、全くそのような防御の霊力が働いていない。東京十社の鬼門を預かるはずの神社がこれほど無防備であるのは、おかしすぎる。
……なぜ。
その疑問が浮かんだ、瞬間。
「誰だ!」
人の声がした。
振り向くと、浄衣姿の術者がいた。夜の闇の中、青白く揺らぐ霊気をまとうそれは、この神社の神職か、それとも別の術者か。気配を絶って近付いてきたとは、一体、何者か。躊躇ったその隙をつかれた。
「……鬼か!」
二度目の誰何の声に、千方は唇を噛みしめた。応じず、そっと獅子岩に身を潜めようと、動いた、いや、正確には動こうとして失敗した。
足元を白い霊気の帯が這い上ってくる。それは足枷となって千方を足止めする。
霊気をまとった術者は、すっと腕を持ち上げた。
手には、やはり仄かに青白い霊気の帯を揺らめかせる、弓。
それを見た瞬間、千方の体に緊張が走る。一層、唇を噛みしめ、鉄の味を舌で確認する。
……桃の弓だ。
ぞくぞくと悪寒が走る。古来、桃は鬼を退治する辟邪の力を持つ。鬼である千方にとって、それは最悪の呪物だ。
異形に変じて力を出せば、足元の霊力を振り払って逃げることも可能だろう。それでは、千早から命じられた仕事を成し遂げることができない。
迷いがさらに、事態を悪化させた。
キン。
術者が弓の弦を引くと、人の聴覚には届かない聖なる音が、神田明神の斎庭を貫く。
同時にそれは千方の体をも切り裂いた。ぐらりと階に膝をつく。
……弦打ち(つるうち)だと。
それは、古から妖魔の類を退散させる呪術。
全身を千々に引き千切られる痛みを覚え、息を呑む。知識としては知っていたが、実際に、射られるのは初めてだった。底のない恐怖が千方を襲う。
「申し訳ありません、千早さま。」
小さく呟くように言葉を零した千方は、己の失敗を認め、一旦、退くことにした。しかし退くにしても、この足枷となる霊気を破らなくてはならない。
深く息を吸い、呼吸を整え、己に念じる。
……真の姿を見せよ。
頭が燃えるようにカッと熱くなる。その熱が全身を巡り、妖の力を呼び覚ます。
地上の光を反射して、かすかに灰色に明るい梅雨の夜空を千方は見上げた。
頭には、天を狙うがごとき二本の異形の証。
千方が変化(へんげ)した短い間にも、境内には仄白い浄衣をまとった者の姿が増えている。皆、一様に、桃の弓を持ち、千方を狙っていた。
「鬼だ!」
「鬼が出たぞ!」
声と同時に、千方の体を引き千切り蝕む、弦打ちの音が空間を埋め尽くす。
漲った力で、足元の霊気の枷を振り切った千方は、弦打ちの音から逃れるように社殿の裏にまわり、鎮守の木々に姿を眩ませた。木々の影に身を忍ばせながら、そっと裏参道に移動する。
社殿から離れた裏参道に、人影はなかった。
参道の脇の太い樹木に体を預けて、千方は目を凝らす。闇の奥を見透かして、注意深く周囲の気配を観察する。
……大丈夫か。
異形の姿を解き、人の形に戻る。ぎしり、と体中に痛みが走り、弦打ちの音が直撃したところから、じわじわと熱が広がる。体力を消耗している、そして怪我をしたな、と冷静に判断を下して、参道に足を踏み出した。
その先に、あるはずのない人影を認めて、千方は体を凍らせた。
闇の凝った夜の中、人が立っていた。まるで、それは千方を模写したかのように、細身の黒いスーツにきちりと身を包み、黒いサングラスをかけている。漆黒の中にぽっかりと人の形をした洞穴が空いたかのように、身動きせず千方を向いていた。
殺気はない。人の気配もない。
しかし、その黒い影は静かに腕を上げる。
……銃だ。
千方が夜目を凝らしてそれに気付いた瞬間、音もなく銃口が火を吹いた。
「かつて、神田の地に伊勢神宮の御田(おみた)を作ったそうです。その土地の国津神を鎮めるために祀ったのが、神田明神の起こりだとか。」
なよやかに言って、千早は冷たく笑んだ。目は笑っていない。まっすぐ庭を向いて、何も映さずただ白々と輝く池の面を睨んいる。縁側で脇息に預けた体を、隣に座る女に向けた。銀鼠の髪は湿度の高い闇の中、淡く輝いて流れている。
「迷惑な話じゃありませんか。勝手に土地を奪って、架空の神様に献上するといって田圃にしてしまうんですから。」
「それがこの国の歴史よ。ここまでくると、逆に面白いって思う時はあるくらい。」
女、乃千清美は静かに笑って、やはり池を見つめていた。黒く短い前髪を掻き揚げて、隣の千早を見る。
「この国と、そう、あとはユダヤだけね。神話の血筋が人間の血筋に繋がっているのは。だから人でも祀れば神になる。そうでしょう。」
返事はなかった。ただ、相槌を打つかのように何度か瞬きをして、それから再び池を見た。
「しかし、流石、皇居の鬼門を護る神社ですね。私の呪力をもってしても、垣間みることが叶わないくらい、強力な結界に護られている。江戸時代、天海の施した結界、明治時代、明治天皇が施した結界、二重の結界の要であるとは了解してましたが、これほどまでとは。」
結界のせいで見えないことが腹立たしい、とは千早は言わなかった。逆に、くっくっと押し殺すように愉快げに笑って言葉を継いだ。
「それでも、たった四百年たらずのモノです。まだ、浅い。それでも、失われればこの都市は混乱するでしょうねえ。」
「そうねえ、京の都は千年保ったものね。」
そこで一旦、言葉を区切って、思い出したとでもいうように清美は尋ねた。
「金烏玉兎集が再生されたそうじゃない。」
「ええ、聞きました。」
「北辰結界の呪法が『それ』に載っているそうだけど、放っておいて大丈夫なの?」
「そうですね。こちらものんびりしていられない。彼らが新しく結界を張ってしまう前に、この都市の主導権を奪いますよ。その詰めの前準備を、今日、千方がしている。」
まるで、子どものおもちゃを壊すとでも言うような軽い口調で千早は答えた。隣で清美は肩を竦めて、自分たちの未来を握る妖しく美しい人を眺めた。
……あなたが本当に求めているものをお教えしましょう。
五年前、初めて千早が清美にかけた言葉。
彼の力で取り戻した記憶は、あまりにも凄絶で、狂気に満ちていた。同時に、最高に甘い陶酔ももたらした。
それは人を愛する、ということ。
四十五歳のそのときまで、清美がその真実を知らなかったこと。
それ以来の付き合いの中、時折、思うことがある。
千早は、本当に人なのか、と。
束の間、思いに耽っていた清美の耳に携帯の着信音が届いた。それが、自分のものではない、と気付くのに、わずか、時間が必要だった。
隣で、千早が袂から携帯を取り出して、応じる。
「千方、早かったね。」
労うように、やさしげな声音だった千早は、しばしの沈黙のあと、墨ですっと描いたような美しい眉を潜めた。
「どうした、千方?」
『千早さま、すみません。失敗しました。』
携帯の向こうの千方の声は、感情を持たない彼にしてはひどく焦燥に満ちたものだった。
「何があった?」
『どうやら、スケジュールになかった祭祀が執り行われていたようです。神社には神職か、おそらくは術者と思われる者が十人ほど、詰めておりました。』
「それで、今、どこにいる。」
『神職が神社周辺を捜索しておりますので、湯島聖堂に身を隠しております。』
「……動けないのか。」
電話に応じる千早の声が、剣呑なものになる。
『申し訳ありません。祈祷を受けていた者のSPが周囲を警護していたらしく、脇腹を一発、撃たれました。出血がひどく、公共機関を使うには目立ちますので……』
「もういい。」
ピシリと、言い止して千早は握っていた携帯に力をこめた。
「花月を行かせる。そこに待機していろ。」
『分かりました。』
ぱん、と音が鳴るほど強く携帯を折り畳んで、千早は縁側に立ち上がる。
その瞳の縁が、ゆっくりと金色の円を描く。
風もないのに、ふわり、と銀鼠の髪が、浴衣の裾が揺れ始める。体の縁もまた、金色を帯びて、うっすらと千早を包む。
彼のまとう空気は、音もなく人に非ざる妖しいものに変化していた。
「……よくも千方を。」
声が、漏れた。
その音は、普段の千早の深く澄んだ声色とはほど遠く、野太く地響きにも似て湿った夜の闇を圧した。
隣で清美が、体を凍らせる。
この姿を見るのは二度目だ。
己が蛇体に変じるように、千早も人ではないものに変じる。しかし、千早の場合は形ではなく中身が変じるのだ。その中身の正体について、清美は何も知らされていない。
「花月。」
低く這うような声で問う。座敷の奥から声が返った。
「はい。」
「悪いが千方を頼む。湯島聖堂にいる。」
「……わかりました。」
神とも鬼ともつかぬモノに変じた千早の、不気味なまでに感情を失った声に、花月は逆らうことはできない。
ふっと座敷の暗闇から縁側に躍り出て、そのまま濡れ羽色の羽根を広げると、灰みがかった曇天の夜空をめがけて飛翔した。
その姿を金に縁取られた瞳だけで見遣って。
千早は誰に言うともなく、唸るように零した。
「……そちらがその気なら、こちらも本気で叩かせてもらう。かつて坂東を支配した朝敵に登場していただこうか。鎮魂など無力だと、思い知るがいい。」
物語が転がっていく感じを味わってもらえたらなあと思いながら書きました。第一稿を読んだうーたんさんいわく「千早が千方を溺愛している」とか。そうか、そんな風には、あまり考えてはいなかったんだけどな……(笑)その他呟きはブログにて。

