第32話 鬼門攻防




 スーパーの自動ドアを出た途端、遼は、深く溜め息をついた。隣の伸に抗議めいた口調で尋ねる。
「あのさ、俺、なんか悪いことした? あの肉売り場の店員にずっと睨まれてたんだけど。」
 あははと乾いた笑いを浮かべて、伸もまた小さく溜め息をついた。精肉部のとある男性アルバイトにうっかり告白されてしまったのは記憶に新しい。
「うーん、ごめんね。遼が悪いわけじゃないから。気にしないでいいよ。」
「なんで、伸が謝るんだよ。」
「うん、いろいろね。」
 ここはもう笑ってごまかすしかないと思い、買い出しの荷物を持っていない方の手でかりかりと頭を掻いた。スーパーのアルバイト社員から愛を打ち明けられていたと、遼に答えて当麻にでも伝わってしまえば、このスーパーには二度と来られなくなってしまう。
 やがて、横断歩道の信号が青に変わり、大通りを渡り終えた二人は駅前の人混みに紛れ込んだ。平日の昼間だというのに、吉祥寺駅周辺はいつも、肩が触れ合うほどに人に溢れている。
 ねえ、遼、と振り返って伸が声をかけようとした、その刹那、ひやり、と怖気を感じた。危険の前触れに、肌が粟立つ。
 覚えのある感触だった。
 昏くねっとりと燻る憎悪。陰湿な闇路へと誘うような力。
 何か、耳元で囁かれたような気がして辺りを見回したが誰もいない。
 いや、全てのものが止まっていた。
 まるで、伸だけが、時間の断面に取り残されたかのように、人々は流れ行くそのままの姿で静止していた。
「りょう……?」
 慌てて、仲間の姿を探す。しかし、どこにもそれらしき影は見当たらない。
 止まってしまった時間に、躊躇っていたのは一瞬かそれとも永遠か。
 伸の背中に冷たい汗が、つうと流れる。まるでそれが合図のように、どっと街角に喧騒が戻った。
「りょう?」
 恐る恐る、声に出す。人混みの中に、その向こうに、黒い瞳と黒い髪の大事な友人の姿を求める。しかし、流れる人々の中にそれらしき人影はない。
 瞬くことも忘れ、目を大きく見開いて、伸は呼吸を止める。ふと見下ろした、その足元に、遼の持っていた買い出しの荷物が無情にも転がっていた。


 ゲストハウスのドアが、バタンと大きな音を立てた。
「お、おかえり、伸。お前にしちゃ、乱暴なドアの……」
 キッチンから顔を出した秀は、そこで言い止して、太い眉をしかめた。
 玄関の上がり口に、伸は両手をついて小刻みに震えながら中腰に立っている。走って来たのだろうか。息は荒く、薄い肩が上下に揺れている。
「おい、伸!」
 尋常ではない伸の様子に、秀は慌てて駆け寄った。覗き込んだ伸の顔色は白を通り越して、青く透き通っていた。
「どうした? 何かあったか?」
「遼が……」
 頼もしい仲間の声に、引き攣るような伸の声が応じる。
「……神隠しにあった。」
 ようやくそこまで言って、伸は力尽きたとでもいうように、玄関の床に座り込んだ。同じ床には、買い出しの荷物が三袋、転がっている。赤い林檎がひとつ、転がり出して靴箱の底にぶつかっていた。
 玄関の騒動に気付いた当麻と征士が姿を見せる。ただごとではない伸の様子に、やはり二人とも一様に表情を険しくして駆け寄った。
「大丈夫か?」
 当麻がわずか、声音をやわらげて、気遣うように声をかけた。それから、膝を折って焦燥に駆られた青い顔を覗き込む。玄関に座り込んだままの伸は、ゆるゆると顔をあげて、声の主を見た。いつも通りの知的な紺藍の瞳と視線が絡む。そこでようやく、伸はわずか、その青白い貌に安らぎの色を取り戻す。ゆっくりと呼吸を整えて、平静を取り戻しながら、ようやくのことで言葉を紡いだ。
「ごめん、遼を守れなかった。」
「慌てないでいい。何があったか、分かる範囲で俺たちに説明してくれ。」
 噛んで含めるように言いながら、当麻は自分の体がひどく緊張していることを自覚した。
 皆の前でこんなに混乱している伸は、見たことがない。桜の時期、職場で世話をしていたという老人が亡くなった時でさえ、必死に冷静さを取り繕おうとしていた。その伸が、これほどまでに心を乱している。
 ……とうとう、事件が重大な局面を迎えているのか。
 そんな当麻の思いを証明するように、伸が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……スーパーを出て、ユザワヤの前の通りで、突然、景色が止まって。ひどい寒気がした。それから……時間が動き出したその時には、もう、遼の姿はなかったんだ。」
 しばらくの息苦しい沈黙を置いて。
「つまり、遼は……神隠しにあったのか。」
 途方に暮れたように、征士は言葉を零した。彼らしくなく、その白い面にみるみるうちに焦慮の色が広がる。目を大きく見開いたまま微動だにせず、紫水晶の瞳は伸に自らの焦りを訴えかけていた。
 征士の瞳の問いに答えるように、ぽつり、と伸は言った。
「ごめん、征士。僕がついていながら……。」
 弱々しい言葉に、征士は、はっと我を取り戻す。遼を失う痛みは自分一人のものではないのだと、むしろ、守れなかった伸の方が辛いのだと一瞬のうちに理解して。
 征士は深呼吸した。
「伸のせいではない。そんなに自分を責めるな。」
 一秒でも責めてしまったことに、謝罪の念を込めて、伸に応じた。
「とりあえず、渡井さんに連絡しとくか?」
 振り向いて、秀は征士と当麻に尋ねる。が、当麻が小さく首を振ってそれを否定した。
「いや待て。正直、俺は今、この状況で誰を信頼していいのかわからん。」
 渡井氏がどうこういうのではない。ただ、金烏玉兎集再生の時に会った陰陽寮の術者たちに、当麻は不穏なものを感じていた。
「でもよ、遼がいなきゃ、あちらさんだって困るだろうが。」
「しかしな……」
 煮え切らない様子で、当麻は左手を顎にあてて考え込む。自然、残りの三人は、彼の結論を待った。
「伸。」
「なんだい?」
 先程よりも、少し落ち着きを取り戻した伸は、秀に促されて上がり口に腰をかけていた。そのまま、当麻の方に顔を向ける。
「思い出せるだけでいい。他になにか、手がかりになるようなものはなかったか?」
「手がかり?」
 言われて伸は、先程の不可思議な出来事を体中で思い出す。
 再び、肌に怖気が走る。
 瞼を伏せた、その瞬間、耳元で囁かれた呪文が口を付いて出た。
「……北斗の要は頂く。」
 その言葉に、伸以外の三人は互いに視線を交わし合い、互いの胸の裡を理解した。
「北斗の要、と言ったのだな?」
「そう、北斗の……」
 征士の問いかけに、伸が頷いて、それから雷に打たれたように、ぱっと顔をあげて、当麻を見た。
「僕、知ってるかもしれない。」
 あの、昏い陰湿な気は、かつて出会ったものではなかったか。
 最初は、ナスティと歩いた深夜のサンロードに見通占の占い師として現れた。彼は術者とはほど遠い風貌だったが、ほんの束の間、人に非ざる表情を見せた。
 二度目は、金烏玉兎集再生の時。陰陽寮の作り上げた結界を破り、当麻の気と喰らい合ったのは、あの気配ではなかったか。
「僕の勘が間違いなければ……洞真法人っていう人だと思う。」
「洞真法人?」
 当麻の疑問の声に、伸はその場の皆に分かるように、手短かにこれまでの経緯を説明する。
「なるほど。では、私と遼が吉祥寺で陥った罠も、その人物の結界だった可能性があるというわけか。」
「それはどうか、僕には分からないけれど……」
「そいつがこれまでの事件の首謀者ってことかよ。」
 怒りを隠さず、秀が唸った。正義感の強い彼にとって、これまでの出来事は腹立たしいを通り越して、強烈な嫌悪すら抱くものだ。
 秀の言葉を遮るように、当麻がしごく冷静に言った。
「いや、違うな。」
「なんでだ?」
「話を聞く限り、そいつは陰陽道系の呪術を使っているが、少なくとも、青梅の事件、銀座の事件を起こしたのは、もっとタチの悪いやつだ。天狗や鬼がただの術者に従うとは思えん。」
 ……安倍晴明ならともかく。
 その言葉を飲み込んで、当麻は腕を組んだ。
 事件が始まってから、日本神話や陰陽道の文献を漁って、いくつか気付いたことがある。例えば、陰陽寮というのは、非常にオカルティックな存在のように見えて、実は天文を読み、地理を読む、「科学技術」に精通する集団だ。かつて、陰陽寮は遷都など重要な事案に対して、場所や日にちを権力者に請われて奏上した。その遺跡を研究すると、非常に都としての地理に叶っているのだ。つまり、大昔でさえ陰陽寮は科学技術を駆使する技術者集団であったのだ。彼らの予言は正確には、現実の理にのっとった「予測」だった。それ以外の能力に長けたもの、例えば鬼や式神を駆使するというのは、術者の中でもほんの一握りにすぎない。歴史を紐解けば、彼らこそが本物の異端である。
「では、我々は、その洞真法人という人物と、別の第三者という二つの勢力を相手にしているといわけか。」
 征士の険を孕んだ声に、当麻はふむ、とそちらを見た。
「三つにならないことを祈るがな。」
「三つだと?」
 硬い紫水晶の瞳に問い詰められたが、当麻はそれ以上、応じることはなかった。
 ……陰陽寮は、本当に味方か?
 その疑問を仲間に伝えるには、今は状況が悪すぎる。
「今はそれはいい。遼のことだ。」
「助けに行くに決まっているだろう。」
 即答する征士に、皆が頷いた。
「とりあえず、ナスティには知らせておこうよ。僕たちだけじゃ、力不足かもしれないから。」
 青ざめた顔に、わずか、血の色を取り戻した伸は、ポケットから青空色の携帯を取り出した。



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