第31話 鬼門攻防



 台所の古時計の針が三時きっかりを指すと同時に、千方はそれまで見ていた小さなテレビを消して椅子から立ち上がった。アトリエで作業をしている千早が、そろそろ仕事を終える時間だ。
 ジーンズと黒いシャツの上に、目にも眩しい白いエプロンを着けると、慣れた手つきで茶の準備をする。
 丸い盆に急須と湯呑みと櫛を揃え、台所を出る。向かう先は屋敷の一番東奥にある千早のアトリエだ。
「千早さま、お茶の時間です。」
 トントンとアトリエの扉を叩く。しかし、返事はない。感情を表さぬ黒い瞳はやはり驚いた様子も見せず、千方は躊躇うことなく扉を押し開いた。
 軽く十畳は超えるであろうその部屋の真ん中で、千早樹が倒れていた。
 銀鼠の長い髪が畳の上を流れるように這っている。紅藤色の浴衣の裾は乱れ、細く白い足が艶かしく露になっていた。
 千早の頭上には、鎧をまとった勇猛な男の絵がある。その周囲には仕事で使った絵の具皿や絵筆などが散乱していた。
 しかしそれも慣れたことなのだろう。千方は戸惑いなど全く見せず、千早に近付くとその細い体を抱き起こした。
「千早さま、起きて下さい。」
 応じる言葉はない。ただ、抱き起こされた体からうすぼんやりと「あぁ……」と声が漏れただけだ。
 それからずいぶんと時間をかけて、千早の瞼は開けられた。しかしまだ、その瞳には光は戻らない。
「千早さま。」
 変わらない、落ち着いた低い声音で言葉を重ねる。すると、徐々にその瞳が焦点を結び、魂が現世に帰って来たとでもいうようにふるりと体を振るわせた。
「ああ、千方。もうそんな時間かい。」
「はい、お茶の時間です。」
「ありがとう。」
 くつくつと笑いながら、千早は千方から体を離す。自力で立ち上がって、ゆらりと柳のように揺れて倒れかけたところを、また、千方に支えられた。絵を指差して、問う。
「これは、誰だと思うかい?」
 しらじらとした間があった。千方は黙ったまま、応じる術を持たない。未だ、千早に神が寄り憑いて絵を描くという事象の本質が飲み込めないでいる。
「この国では戦人(いくさびと)も神になる。人を殺めても、血を流しても、御霊として祀れば神になる。それがかつて中央の敵であったとしても、だ。面白い、本当に面白いよ。この武人も、そういう神なのだろうね。」
 千早は自分に言い聞かせるように呟いてから、くっくっと咽の奥で笑いを殺す。ただ、その顔色は血の色が失せて病み上がりのようであった。
「疲れていらっしゃるでしょう。お茶をお持ちしました。」
「そうだねえ。仕事とはいえ、いちいち神様に取り憑かれるんじゃ、疲れるね。」
「……。」
「千方、今のは笑うところだよ。気付かなかったかい?」
「いえ、全く。」
 残酷なくらいに静かな面持ちで千方が応じる。千早の面が、すっと冷たく翳りを帯びた。
「……お前を作ってもう六十年だ。それでもやはり……。」
 言い止して、千早は口元を引き結んだ。その先の言葉は、長い長い間、心の奥底で昏い炎のように燻っている。
 かつて激しく想いを寄せ愛した人の姿形がそのまま目の前にある。けれどもそれは器だけで、魂魄までは繋ぎ止めることは叶わなかった。
 千早がすっと千方の頬に手を伸ばす。濡れた瞳を向ける。
 けれども漆黒の黒い瞳は動かない。非情なまでに冷静に千早を見返した。
「千早さま?」
「……千方。」
「どうかされましたか?」
 千早は小さく溜め息をついて肩を落とした。
「いや、なんでもない。お茶をもらう。」
 千早は千方から離れると、傍の丸い座卓の前に座る。それに従うように、千方は持って来た盆を座卓の上に載せ、湯呑みに茶を煎れ、千早に出す。それから、音もなく千早の背後に座り、茶と一緒に持って来た黄楊(つげ)の櫛で、大柄な体からは考えられないほど繊細な所作でその乱れた髪を梳いた。繰り返し、繰り返し、丁寧に。まるで、愛しむように。
 しばらく、やさしい空白の時間があった。
 出された茶を口にして、千早は、目を見開いた。
「お茶を変えたのかい?」
「はい。『若月茶』というお茶です。テレビで話題になっていたので買ってみました。いかがでしょう。」
 今度は千早が返す言葉を失う番だった。まるで主婦のようだ、と思い、黒いスーツ姿の彼がスーパーでこれを買う姿を想像して、茶を零しかけた。
「ああ、おいしいよ。ありがとう。ところで……。」
 湯呑みを置いて、背後で未だ髪を梳いている千方に声をかける。これまでの遣り取りとは打って変わって、険しい声音で問うた。
「明日の夜、決行だ。準備は整っているかい?」
「はい。手に入らなかった本殿の間取りも、先程、花月から見取り図を受けとりました。」
「そうか、花月は相変わらず仕事が早いな。」 
 千早が銀鼠の髪を掻き揚げた。千方が丁寧に梳いた髪がまた乱れた。引き攣れて失われた左目が玲瓏な美貌を冒して現れる。天井を仰ぐ鳶色の右目は、神すらも畏れぬ妖しの色を孕んでいる。朱ですっと描いたような整った唇が笑みを湛え、白く浮かんだ喉元が生き物のように蠢いた。
「江戸総鎮守を破る。政治と経済の要の霊力を失えばこの都市はどうなるのだろうねえ。」
 背後で千方は、己の主の狂気にも似た姿を眉ひとつ動かさず見守っていた。

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