鬼門攻防(1)
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梅雨に入って一週間が過ぎた。
厚い鉛色の雨雲は太陽を隠し、しのつく雨は人々を屋内へと追いやる。
伸たち五人もまた、その例外に漏れず、ゲストハウスに半ば軟禁状態になった。再生された「金烏玉兎集」は現在、陰陽寮が解読作業中で、五人の出る幕はない。当麻は唯一、何かを調べているので忙しくしているが、他の四人は手持ち無沙汰になってしまった。そこで、屋内で建設的に時間を潰す遊びを編み出した。それは、トランプだ。
負けた者が、伸の買い物の荷物持ちをする。一石二鳥だ。
今日のゲームはババぬき。取引や画策の苦手な遼のために、小学生ができる範囲のルールのゲームしか遊ばない。
すでに伸と秀は抜けて、遼が最後の一枚、征士が二枚のカードを持っている。
「なあ、征士。トランプ始めてからの俺の記録、知ってるよな?」
黒い瞳でじっと征士を見つめて遼が問う。
「見事に全敗だな。」
ほんの少し、口角を上げて征士は答えた。
「だったらさ、なっ?」
身を乗り出すように遼は征士のカードを覗き込もうとする。すっとそれはかわされた。
「征士のケチー!」
「ゲームは公正に行わねばなるまい?」
「ちぇっ。」
言って、遼は向かって右側のカードを引く。普段は表情にとぼしい征士の面が愉快そうに笑みを浮かべた。
「……あ」
遼が間抜けな声をあげるのと同時に、征士は遼からカードを引く。
華麗な動きで征士は二枚のカードを揃えて、テーブルの上に置いた。
「おお、今日も見事に連敗記録達成だな、遼!」
秀がニカっと笑って、隣の遼の背を叩く。
「あー、もう、俺、弱過ぎだ。やだなぁ、あのスーパーに伸と行くとすんごい気まずいんだよ。昨日はレジで旦那さんですかなんて言われるし。」
「遼が嫌ならば、私がかわりに行ってもいいぞ?」
征士が遼の手に残ったジョーカーを取り上げようとする。その手を伸は躊躇うことなく止めた。
「ダメ。征士は甘やかし過ぎ。第一、僕は君とは行きたくないんだよ。」
「なぜだ?」
「これ以上、あのスーパーで目立ちたくないからね。」
笑いを噛みしめて伸が応えた。伸自身が目立っているのだ。その上、金髪に紫水晶の瞳の仲間を連れて行けば、人だかりが出来てもおかしくはないだろう。
ふと目を遣ったリビングの時計は、あと少しで三時を指すところだ。
「さあ、今日のゲームは終えて、おやつにしよう。遼も疲れただろう? 甘いものでも食べて、元気出してよ。」
言いながら、伸は立ち上がる。追いかけるように、秀が尋ねた。
「お、今日のおやつ、なんだ?」
「頂き物のおまんじゅう。人数が多いでしょって、たくさん頂いちゃったよ。」
「お、話がわかるな!」
嬉しそうに返して、秀はテーブルの上のテレビのリモコンを手にする。電源を入れると、昼のワイドショー番組が液晶の画面に映った。
ダークブラウンのスーツの男性キャスターが、パネルを示しながら話している。
「……それでですよ、この事件、警察はまだ犯人の目星らしい人物を誰も特定していないんですね。一連の神隠しと言われているこの事件、今月に入ってこれで十二件目なんですが、……」
テーブルに散らかっていたカードを集めてまとめながら、遼はちらりと映像を見て、低い声で言った。
「今朝、隣のおばさんから聞いたんだけど。区内に住む親戚の小学生の娘さんが、やっぱり神隠しに遭ったんだってさ。梅雨に入ってからすぐ、学校から帰って来なくて、警察も探してるけど見つからないらしい。」
しん、と息の詰まるような沈黙が降りた。
「新聞にも出ていたな。梅雨に入ってから、都内で十人以上の子どもが『いなくなって』消えてしまったそうだ。……さらに言うと、今年上半期の自殺者は去年の同じ時期に比べて二倍だという。特に三月以降、増えたらしい。」
征士の言葉に、それまで賑やかだった場の空気は一気に冷えた。三月といえば、東京に原因不明の赤いオーロラが現れた時期だ。
一方、マスメディアは別のニュースで騒然としていた。
豚インフルエンザは「新型インフルエンザ」と名前を変えて世界中に蔓延しはじめた。先週の終わりには、世界保健機構が世界的流行病(パンデミック)であることを宣言、警戒水準はフェーズ6に引き上げられた。日本では五月半ばに感染者が報告され、それ以降、患者は増加の一方だ。どこもマスクが品薄状態で、一時はネットのオークションで高値がつけられるなどの騒ぎも起きた。
「……信じたくはないけど、渡井さんや陰陽寮の人たちの言った通りになってるね。」
伸が俯きがちに呟く。吉祥寺の街もまた、こちらに来た二ヶ月前よりも陰鬱な気に覆われている。
「金烏玉兎集の解読を待つしかあるまい。残念だが、今の我々にできることは彼らを信じて、北辰結界とやらを作ることだ。その方法でしか、この事態は改善されないのだろう。」
「そうそう、俺たちがここで焦ってもどうにもならないぜ。それよりも、今の俺たちにできることはだな。」
征士の意見に神妙な態度で賛成した秀は、向かいに立つ伸に目配せをした。
「おやつを喰って元気になることだ。」
おやつの準備のためにキッチンに向かった伸は、入り口で立ち止り、そこから見えたものにくすりと小さく笑んだ。
ダイニングテーブルに、当麻が器用な格好でつっぷして眠りこけている。ノートパソコンは開けたまま、本も散らかし放題。読んでいる途中の本だろうか、広げられた状態で伏せられている厚い本に右手を挟んでいる。
起こさないようにそっと近付いて、伸はその青みがかった堅めの髪に手を伸ばした。指を搦めながら撫でる。
……ああ、安心するなあ。
ひそりと音にせず、その言葉を口の中で転がす。先程までの会話でぎしぎしと痛んでいた胸のつっかえが取れたように思えて、ほうと溜め息をつく。
金烏玉兎集が無事、自分たちの力で再生されて、ほんの少し、精神的に余裕ができた。蛇や鬼といった異形と戦いながら、それらを完全に封じる術を持たなかった状態から、少なくとも、一歩、前進した。この都市が十年前のような災禍に見舞われるかもしれないという漠然とした不安がわずか、軽くなった。
同時に、もう一つの決意も、堅くなる。誰かから言われたことではないのに、体の奥底から納得してしまうことがある。
……多分、僕はこの事件で何らかの形で命を落とす可能性が、高い。
手の内に感じる当麻の髪の感触。撫でる仕種を続けながら瞼を伏せる。
……触れてるだけで、こんなに幸せなのに。
この幸せを永遠のものにすることができない切なさと、大切な人が存在する世界を守りたいという想いが、せめぎ合う。
当麻から髪から手を離した伸は、テーブルの上に視線を投げた。
『安倍晴明大全』『陰陽道の歴史』『日本の天文学』『星辰信仰と民俗学』などなど、陰陽道や安倍晴明と、星にまつわる本ばかりだ。
金烏玉兎集を再生したあの日から、当麻はそれまで見向きもしなかったそれらの本の知識を一気に吸収するように調べ始めた。理由は分からない。金烏玉兎再生の儀で何が起きたのか、当麻は何も言おうとしなかった。
「あ、伸……」
物音に気付いたのだろうか。当麻がのっそりと起き出して、眠そうにひとつ、欠伸をする。
「ごめん、起こしちゃった? でも、もうおやつの時間だから、当麻も起きなよ。」
「ああ、もうそんな時間か。」
ぐっと上半身を反らして伸ばす。それから当麻はスリープ状態のパソコンのキイに触れてディスプレイに光を戻すと時間を確認した。良く寝た、とぼそりと呟く。
そんな当麻を背後に手早く一人分のお茶を入れた伸は、そっと本の隙間に湯呑みを置いた。自分はその隣の席に座る。
「最近、安倍晴明と星の本ばかりだね。」
「ああ……。」
当麻は曖昧に相槌を打ち、湯呑みを口にした。安倍晴明の声を聞いた、というのはあまりにも非現実的で今でも半分、信じていない。だから仲間に言うのも憚られたし、こうして調べてなんとか確信を得ようとしている、その最中だ。
しばらくの間をおいて、当麻は言った。
「伸は、気にならないのか?」
「え、何を?」
「陰陽寮のいう『北辰結界』の『北辰』が誰なのかって。」
「あ……。」
伸はわずか、言葉を零して当麻を見た。紺藍の瞳とぶつかる。
言われてみれば確かにそうだ。自分たち五人とナスティと純の七人が『北斗』であると渡井氏は言っていた。しかし、結界を作るには『北辰』と『北斗』が必要であって、その『北辰』は陰陽寮の方ですでに準備は整っていると最初に会った時に言い渡されている。だが、それが誰なのかは知らされていない。
「一体、誰なんだろうね。」
一旦、そこで言葉を区切ってから、何かを思い出したように伸は言葉を継いだ。
「昔ね、ほんと、まだ小学校にあがって間もない時のことだよ。姉さんの地学の資料集を見て、初めて星に名前があるって知ったんだ。母さんたちに黙って浜辺に出て、夜空を見上げて、北極星を探したよ。他の星々はくるくると回るのに、その星だけが動かないって思うと、なんだか可哀想になってね。それから案の定、探しに来た母さんに見つかっちゃって。北極星が動けなくて可哀想だって話をすると、北極星には『北辰』という名前があるって教えてくれたんだ。そして実際には四季を巡る大切な役割があるんだって教えてくれた。僕が『北辰』という言葉を覚えたのはその時かな。」
嬉しそうに頬を緩めて話す伸の顔を見ながら、当麻の脳裏にある仮定が閃いた。眉根を寄せて苦い表情を浮かべる。
北辰の「北」は北方水気を指し、「辰」は伸と同じ『シン』と読める。
……どちらも伸に通じる。ならば、「北辰」はもしかすると伸なのでは。
そこまで考えて、当麻は頭を軽く振って否定した。北辰が伸なら北斗の伸の座は誰が埋めるのか。
「どうしたの、当麻。」
突然、なんとも言えない不安げな表情を浮かべた当麻を覗き込んで、伸が尋ねる。
「いや、なんでもない。俺の考え違いだ。」
自分の不安を払拭するかのように断定して、当麻は再び湯呑みを口に運んだ。先程は気付かなかった甘い味が口の中を仄かに広がる。
「……いつもと茶が違う?」
半ば、独り言のような当麻の言葉に、伸が嬉しそうに笑みを浮かべた。
「あ、君でも分かる? スーパーで試飲して美味しかったから買ってみたんだ。今、主婦の間で人気急上昇中のお茶なんだって。『若月茶』だそうだよ。美味しいよね。今日のおやつは、このお茶と、頂き物のおまんじゅうだよ。テーブルを片付けて、リビングにおいでよ。」
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