第30話 金烏玉兎


 それから十分も経たないうちに、社務所から浄衣姿の術者が走り出して来た。
 ずいぶんと慌てているらしく、遠目でもその表情に緊迫しているのを見て取ることができた。
 何事かと思い、伸は整った眉をわずか、しかめる。
 術者は渡井の元に駆け寄り、社務所の方を指差しながら何かを説明したあと、再びそちらへ駈け戻った。
「何だ? 当麻のヤロー、何かしでかしたのか?」
 秀は仲間の入っていった建物を睨みながら唸る。その隣で伸も小さく首をかしげた。
 ……当麻に何かあったのか?
 術者の言伝を受けた渡井は四人の元にやってきた。
「お疲れではありませんか?」
「いえ、大丈夫です。」
 気丈に返した遼は、渡井に四人を代表して尋ねる。
「あの……当麻が何か?」
 一瞬、痛みを感じる沈黙があった。
「社務所で羽柴さんが倒れたそうです。」
「なん……だって!?」
 遼が声を上げた。口調に抗議の色が滲んでいる。その傍で伸は身体中から血が音をたてて引いてゆくのを聞いた。
「社務所に待機していた者の話では、洗面台で顔を洗って、振り返った瞬間、倒れたのだと。」
「分かりました。俺たち、行きます。」
 遼の言葉を合図に四人は社務所へ向った。
 小走りに駈ける三人の背後で、伸は唇を噛み締める。先程の不可解な出来事に巻き込まれて当麻に何か悪いことでも起きた……そんな昏い想像から逃げるように頭を振った。
 社務所はさして広くはない。
 その廊下の突き当たりに、浄衣姿の数名の術者の姿が見えた。四人の姿を認めると、その意味を知っていたかのようにすっと身を引いた。
 そこに、当麻がうつ伏せになって倒れていた。
 ぴくりとも動かない。
 嘘だ、と何度も心の中で繰り返して、伸は一歩ずつ当麻に近付く。
「当麻、嘘だろ?」
 板張りの廊下に膝を付き、恐る恐るその肩に触れて揺さぶる。返事はない。ただ屍のように彼は横たわっている。
 伸の視界がすっと暗くなった。体中から力が抜けてゆく。
 何も見えない。
 何も聞こえない。
 そういえば、喧嘩をしていたんだっけ。
 ためだ、当麻。僕はまだ君に大切なことを伝えてない。そして、君からも聞いてない。
 がくり、と肩を落とす。
 一週間前、自分を包んでくれた温もりが身体中に蘇る。
 ……この温もりをなくして僕は生きていけないって、当麻、君は知っていたかい?
 出会ったのは海。二度目は新宿。十年前、別れる前に、唇に触れられて、僕は一方的に自分の想いを知らされた。
 ……君はいつも、一方的だ。こんな時まで。
 嵐のような激しい感情が胸に吹き荒れる。いつもは凪いでいる海が暴れている。……哀しい、と。
「伸。」
 その時、嵐の音を割って声がした。
 のろのろと顔をあげると、征士だった。いつもと変わらない静かな面で伸を見下ろしている。
「何?」
 それには応じずに、征士はかがみ込んで、当麻の腕を取った。手首に指を当てること一分。次に首筋に手を当てること一分。
 うつ伏せの当麻を仰向けに起こし、両の瞼を開けて、ふむ、と唸った。
「案ずるな。寝ているだけだ。」
「え?」
 ひどく間の抜けた声を伸はあげて、征士を見上げた。
「ここ数日、当麻は睡眠不足だったのだろう。その体調であのような荒技を使ったのだ。一段落ついたところで、睡眠欲に負けたらしい。」
 誰もが言葉に困ったような奇妙な間があった。
 伸は身体を小さく震わせる。
 身体中から一瞬にして哀しみが吹き飛び、かわりに襲って来たのは安堵と怒りがないまぜになった、複雑な感情。
 ……寝てる、だって?
「起きろ!!! 馬鹿当麻!!」
 熱くなった目頭からこぼれるものを止められないまま、伸は当麻の胸ぐらを掴んで叫んでいた。腕にさらに力をこめて、揺さぶる。
「ちゃんと一緒に寝てやるから、いくらでも抱いていいから、こんなところで寝るな!」
 その言葉に、一緒にいた三人と術者たちがギョッとしたのはいうまでもない。事情を知らないものが聞けば、あらぬ妄想をかき立てるのに十分な台詞だった。
「ああ、伸……。」
 ぼんやりとした声が、返った。
 胸ぐらを掴まれた格好のまま、当麻が眠そうな声で抗議めいた言葉を継いだ。
「もう朝か。」
「いい加減にしろ!」
 涙声の混じった言葉で応じた伸は、当麻の上半身をやさしく抱き締め、肩口に顔を埋めた。
 勘違いも甚だしかったことと、止まらない涙を場のものに見せないためだった、が。 
 その腰にすっと腕が廻された。
 まだ、ねむたげな声で。
「なんだ俺、また伸を困らせたのか。すまんな。」


 夜明けが近付いていた。
 祭儀は全て終え、今は術者たちが片付けに追われている。宮司の許可があったとはいえ、ここは田無神社。早朝の参拝客に深夜に何かを行っていたということを気取られてはならない。何もなかったように見せるには、相当の気配りが必要だ。
 術者たちがそれら細々とした作業に追われているころ、幸頭井は神社に隣接する宮司宅の応接室にいた。
「この度はご協力のほど、感謝する。」
 太く響く声は、やはり感情の片鱗も伺わせない。泰然自若とした様は、何者をも逆らわせない気迫を滲ませていた。
「田無の大神様もお喜びになられているでしょう。この度は金烏玉兎が無事再生できたことをお喜び申し上げます。」
 こんな時刻にも関わらず、幸頭井を出迎えている宮司の加陽は狩衣姿。つまり、職務中、ということだ。民社とはいえ、地に根付く神社を継いできた家の長として当然のことだった。
「今回の……いや、今年はこちらの神社と何かと縁もあろう。その時はご助力のほどお願いしたい。」
「断る理由もございません。渡井をそちらに向わせた折から、こんな日も来るだろうということも考えておりました。」
 幸頭井ほどではないが、どっしりとした体格の加陽が薄い笑みを浮かべる。言葉を継いだ。
「ところで、渡井は役に立っておりますか。」
「今のところは、十分役に立っている。」
「それは安心しました。この界とそちらの界と、相容れぬ世界ゆえ、適任者は少ないでしょう。」
「そうだな、渡井君は珍しく、任務をこなしておる。今はまだ、知らぬことも多いからであろうが。」
 そこでふと、幸頭井は言葉を止めて、沈思した。
 目の前の後輩を見遣って、わずか、目を細めた。
「もし、我々が神を相手取ることとなったら、どうされる。」
「……神、とは。」
「いかなる神かは分からぬ。ただ『神』と名のつくものだ。」
 加陽は笑みを湛えたまま、躊躇うことなく答えた。
「私は神社本庁に連なるもの。天照大神を奉ずるもの。どのような『神』か分かりませんが、天照大神の生した神に徒なすというであれば、我々はそちらに協力はできません。」
「そうか。」
 短い言葉で確認してから、幸頭井は立ち上がり、部屋を退出しようとした。
 見送る加陽を振り返り、独り言のように漏らす。
「君は昔から、私と違って真面目だったな。」

金烏玉兎、終わりました。書いていて楽しかったです。またしばらくは浄衣姿描けないので……。楽しんでもらえた……かな(汗 続きはブログにて。