金烏玉兎(3)
それから半時も経たないうちに、祭祀は再開された。
祭壇の正面に遼が座す。
その左後ろに征士、秀と座り、右後ろに当麻、伸と並ぶ。幸頭井をはじめとする他の術者たちが、それに続いた。
先程よりも場の空気が硬く強ばっている、そう肌で感じて、当麻はわずか眉根を寄せた。渡井たちがどんな話し合いを行ったのか分からない。だが、即席で作られた祭式の方法に疑念を抱くものは多いはずだ。それが、ただでさえ重役を担う遼の重荷にならなければいい、そう思った。
「火生土大吉、円満成就。」
遼が拝詞を唱える。結界の中は風もないのに、やはりゆらりと灯火が揺れた。
続いて秀。
「土生金大吉、円満成就。」
先程よりは滑らかに拝詞を口に乗せる。
「金生水大吉、円満成就。」
続いた征士が紡ぐ呪言はあぶなげなく、慣れたもののそれだ。
「水生木大吉、円満成就。」
金の気を受けて伸が続ける。当麻の正面には彼の背中が見える。浄衣に身をまとったその姿がわずか、ふわりと揺れた、ように見えた。
「木生火大吉、祈願円満。」
伸の拝詞を受けて当麻は続ける。十年前、輝煌帝を呼び出す時のような激しい情動ではない。ただ、遼に自らの力を預ける、それをイメージして。
ひそやかな間が降りた後。
「ここに五行和合せしめんとす。円満成就。」
遼の力強い拝詞が呪力の混じる春の夜気を轟かせた。幸頭井のそれとは違った威圧感のある遼の声に、場が音もなくざわりと震えた。
刹那、変化が起きた。
金烏玉兎集の灰を収めた箱が、仄かに冷たい白銀の光を帯び始めた。
ざわり、と場が音を取り戻した瞬間。
目も眩むばかりの光輝が箱から吹き上がり、天を貫いた。
同時にどぉんと結界が鳴動する。
慌てた術者たちが立ち上がろうとする隙もなく、ごう、と大風が吹き荒れた。
斎庭の神木が枝葉をかき乱され悲鳴を上げている。闇を焼いていた炎は、荒ぶり、火の手を触手のように伸ばす。
誰かが「結界が破られた!」と甲高い声で叫ぶのを聞きながら、当麻は信じ難い光景を見た。
金烏玉兎集を収めた箱の蓋が、そこに誰かの手があるかのように、ぱかり、と開いた。荒れ狂う風の中、蓋は吹き飛び、夜の闇へ消えた。その中から、黒い長虫のようなものが、何かに導かれるように狂風に乗って夜空を目指し、飛び立ち始める。
よくよく見れば、それは、文字そのものであった。金烏玉兎集を構成する文字が、書物から引きずり出されようとしている。
「なんだと……?」
眼前の奇怪な出来事を脳内で処理できずに膝立ちでそれを眺めていた当麻の心に沁みるように、天空から声が降り注いだ。
……神の息吹を操るものよ。
え、と当麻は周囲を見渡した。他の四人は、呆然とこの成り行きを見守っている。術者たちもまた、己の仕事を忘れて荒れ狂う空を見上げていた。誰も当麻に話しかけた様子はない。
……正しき者にこの文を伝えよ。
耳元で呪文のように囁く低い声と一緒に、当麻の意識に映像が入り乱れる。
京のきらびやかな都の風景、貴族たちの華やかな彩りの典雅な着物姿、うってかわってはびこる鬼たちの醜怪な姿、都を覆う陰気の闇、そして……星空。それに続く星を祀る祭文。五芒星。未来を視る者の哀しみ……。
「安倍晴明……なのか……」
自分で零した言葉を信じられず、当麻は息を詰める。
しかし、その躊躇いを一瞬で払拭して確信する。
……千年もの過去から、この声は届いている。
いや、千年後を予見した晴明が未来に残した言葉なのかもしれない。
どちらでも良かった。
当麻は風に浄衣を翻して祭壇に駆け寄り、箱を抱え込む。
しかし、いまだ箱の中の文からはつらつらと文字が風に搦めとられ逃げ出している。
「どうすれば……。」
このままでは、金烏玉兎集の中身が何者かの手に渡ってしまう。
背筋に冷たい汗を感じたとき、先程の言葉が脳裏に蘇った。
……神の息吹を操るものよ。
咄嗟に閃いた。
風。
古来より風は神の息吹だと、この国では言われてきた。
上空に目を遣る。
ごうごうと渦巻く風が、文字を攫おうとしている。それは当麻の身体をも吹き飛ばす勢いで荒れ狂って斎庭に逆巻いている。
……これを止めなければ。
頭の中で風を操る自分の力をイメージする。
その身体が青い燐光で縁取られる。
瞬間、爆発するように青の光輝が天に向って駆け上った。荒れ狂う風とせめぎ合い、絡み合い、斎庭を駆け巡る。
猛り狂うエネルギーのあまりの凄まじさにその場の皆が体を伏せ、数呼吸を数えたとき。
風が止んだ。
凛とした静寂が戻る。
大きく肩を喘がせて、当麻は自分の腕の中を見た。
箱の中には、「金烏玉兎集」と流れるような墨文字が表紙を飾る、黄ばんだ和綴じの本が収められていた。
「手間をかけて申し訳ない。」
背後からかけられた声に当麻が我に返って振り向くと、口元を引き結んだ幸頭井とその補佐二人が立っていた。野太く響く幸頭井の声に感情の色は伺えない。あくまでも彼らは職務中、そんなどうでもいいことが頭を過る。
嵐が過ぎ去り、冷静になって場を見渡すと、痛いくらいに視線が突き刺さる。
不安げにこちらを見る四人。
化け物でも見るかのように、遠巻きに自分を伺う術者たち。
その視界の隅に、ちらと赤い炎が見えた。風が止んだためか、浄化の炎は朱の帳を静かに揺らめかせている。
「あんたたちのお望みのもんだ。」
素っ気なく言って、当麻は箱ごと金烏玉兎集を幸頭井に押しやった。受けとった陰陽頭は何の感慨も見せず、ちらと箱の中を見遣り、日知に渡す。
「深謝いたします。」
斎部が言い添え、さらに言葉を継いだ。
「東方木気を司る風の力、しっかりと拝見させていただきました。」
天空の鎧の力なんだがな、という反論を心の裡で留めておいて当麻はふんと鼻を鳴らした。とりあえず、文句を言われない程度には自分たちは役割を果たしたという安堵が、全身を気怠い疲れで蝕む。
「すまんが顔を洗いたい。」
まだ祭祀は終わっていない。ここで気を緩めるわけにはいかない。冷たい水でも浴びればすこしは頭も冴えるだろう。いかんせん、睡眠不足がここにきて祟りはじめてきた。
「ああ、それでしたら社務所に洗面台がありますので、そこをお使いください。」
斎部の温和な笑みを無視して、当麻は即座に社務所に爪先を向けた。
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