金烏玉兎(2)
「おや、そろそろ祭りが始まるようだ。」
独り言ちて、千早樹は女のように赤く薄い唇の端をすっと持ち上げた。
鉄色の浴衣に身を包み、脇息に体を預けて、開け放された座敷から庭を眺めている。今宵の春の闇は一層濃く、庭は夜色が凝って何も見えない。ただ一箇所を除いては。
千早が眺めているのは、明鏡のように輝く池だった。深い闇の中そこだけが、地上におりた月のように光を放っていた……もっとも、新月の今宵、天上に月はなかったが。
池が映し出しているのは、田無神社の斎庭であった。強固な結界に守られ人の足すらも拒むその風景の像を難なく結んでいる。燃え盛る炎も、設えられた祭壇も、斎庭を行き来する術者たちの霊気も、千早樹の目には手に取るように見えていた。
が、流石に音までは聞こえない。かわりに耳に届くのは、部屋の奥で花月がつま弾く琴の音だけである。春の夜にふさわしい艶やかな調べだ。不思議とこの屋敷には、上空で暴れる風の音は全く聞こえて来ない。
と、その趣のある雰囲気に、障子が開く音と明朗な声が割り込んだ。
「来たわよ、千早。楽しいことって何かしら?」
語尾に笑い声が滲む。
「ああ、清美さん、ちょうどいいタイミングでした。」
脇息から体を持ち上げて、千早は顔だけで振り返る。相手の顔を確認すると、再び、庭に視線を戻した。
その隣に、清美が足を崩して座る。
「これはまた、ずいぶんと楽しそうね。」
庭の池が紡ぎ出す風景に気づき、清美がほうと溜め息をついた。
「ずいぶん、大袈裟な仕掛けというか、ねえ。」
苦笑まじりに問いかけた清美に千早が頷く。
「力の本質を知らないものは、力のあるものを力でなんとかしようとする、その良い例です。」
くくっと笑って、千早は言葉を継いだ。
「それよりも清美さん、僕、面白いことに気付いたんですよ。」
「面白いこと?」
「そうです。僕は陰陽も五行も興味ありませんが……彼ら五人の関係は非常に面白いんです。」
言ってゆうるりと、千早は、手元から少し離れたところにある資料に目を遣った。
「十年前、天津美禍星がもたらした災厄を中心になって封じたのが、真田遼。火の力を持つ人間。火とは霊(ヒ)、つまり、神の御霊です。一方、彼らの精神的守りになったのが毛利伸、水の力を持つ人間。水とは実(ミ)。神のヒの宿る物実(ものざね)、器です。つまり二人によって神が顕現することになります。」
「へえ、その話、面白いじゃない。」
言って、清美は資料をたぐり寄せてぱらぱらとめくる。遼のページで手を止めた。
「ところで、この二人を庇護しようとするものがいます。一人は真田遼を守る伊達征士。光の力を持つ人間。光とはすなわち霊(ヒ)狩り。神のヒを狩り神を征すものの名です。もう一人は毛利伸を守る羽柴当麻。当麻はタイマ、すなわち大魔。神に徒なす魔の名です。」
「つまり、彼らは決して相容れることのないはずの存在なのね。」
「そうです。そして、前にもちらと話したと思いますが、彼らの言う中央土気ですか、その中央を占めるのは秀麗黄。麗は美称ですから本質は黄。黄(キ)とは気と解釈すればヒトであり、鬼と解釈すれば神にまつろわぬものの名です。どちらに転ぶかは本人次第。……そんな彼らが」
そこで千早は一旦、言葉を切って満足そうに笑みを湛えた。庭に輝く池を存分に眺めて。
「我らの神に対抗しうる結界を創造できると思いますか。」
清美は答えなかった。ただ息を呑み、千早の冷たいまでに玲瓏な横顔に見入る。穏やかに笑ってさえいれば、どこかおっとりとした文学者のようにも見える千早の壮絶な本性を清美は知っている。それでも、時折、彼の言葉の物柔らかさと意味の落差の激しさに付いて行くことが出来ない。
数呼吸の間を置いて、清美が答えた。
「できるかどうかよりも、やらなきゃ面子の問題もあるでしょうし、彼らが災厄と思い込んでいる事態から逃れられないでしょ。でも、私は正直、興味あるわよ。安倍晴明が残したと言う金烏玉兎も、口伝で伝わっている北辰結界というのも。」
「職業病ですねえ。でも、僕たちには……。」
「分かってるわよ。」
ふと口を閉ざし、千早から屋敷の奥へと視線を転じた。清美はその奥座敷に『居る』ものの存在を知っている。快活な口調に相応しくない、畏れの色が面差しに浮かぶ。
「僕もね、興味はあるんですよ。彼らが、いや正確には『彼』が一体、どこへ向うのか。だからこそ、出来れば彼らの新しい結界は好ましくない。邪魔なんですよ。彼女のミアレのために。」
「『彼』って誰のことかしら?」
「毛利伸ですよ。」
口ずさむようにその名を言って、千早は声もなく笑った。
同時に、空間を彩っていた琴の調べが途絶える。部屋の暗がりから、鈴の音に似た涼やかな声が響いた。花月だ。
「僕は羽柴当麻に興味があります。」
「おや、花月、君が人に興味を示すとは珍しいね。」
「同じモノの匂いがします。」
「知恵比べで負けたからかい?」
子どもをあやすような千早の声音とは逆に、花月の返事は鋭い。
「僕がそんな了見の狭いものに見えますか。彼は知識欲が強く、風を操るのでしょう。」
「ああ、なるほど。無道の智恵者と団扇が起こす風という象徴は、君たちと同じだねえ。」
「彼はきっと、ほんの少しでも道を踏み外せば、僕ら天狗の仲間になりますよ、間違いなく。」
語尾を笑いで噛み殺して、花月は再び琴をつま弾き始めた。
資料をぱらぱらとめくっていた手を止め、清美が千早に尋ねる。
「ところで千方は?」
再び庭の池に視線を向けて、千早が夜の闇に向って密やかに笑いかけながら、応じた。
「一応、北辰結界などというものを迷惑に思っている存在がいることを、向うに知っていただきたくて。根津と芝に行かせてます。」
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