五月二十四日。新月。月のないその日の夜も更けた頃。
遼をはじめとする五人と、ナスティ、そして純は田無神社に到着した。
雨は降っていないが、風が強い。上空でごうごうと暴れる風の音が地上に響き渡る。今宵はやけに、夜の闇が濃い。それに気付いたのは、神社に着いてからだった。
「お待ちしておりました。」
出迎えたのは渡井だった。いつもの翠色の袴姿ではない。夜目にも仄かに光を放っている純白の浄衣姿だ。暗がりでその表情までは伺えないが、聞き慣れた穏やかな口調にわずか厳しいものが含まれている。これから行われることを暗示しているかのようでもあった。
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
年長者としてナスティは応えてから、小さく首を捻った。
「あの、なんだかこの神社、いつもと違って入り辛いというか……そんな感じがするのですが……。」
「今朝から寮の術者が結界を強化していますから。普通の人はイヤな感じがして当然だと思います。」
言って渡井は背後を見た。
異能の者だけが視ることができる、淡い燐光を放つ霊気の分厚い帯。それが、田無神社を取り囲んでいる。元々、神社と隣接する総持寺一帯は江戸時代から続く古くからの結界に守られてるため、今の田無神社の内側は一時的とはいえ、一般の人間が容易に足を踏み入れられぬ神域となっていた。
「しかし、これでは我々すら入れないのでは?」
渡井と同じものを見ていた征士が当然の疑問を差し挟んだ。
「大丈夫です。神社の北参道に私たちも使用している結界の抜け道があります。……非常に強い結界ゆえに私たち自身もそこ以外通ることができないんですよ。」
言葉の最後に、自嘲にも似た笑いがこめられていた。
渡井に案内されて道路沿いに神社を半周する。そこに北参道の鳥居が見えた。
何の躊躇いも見せず、そこに踏み込んで行く渡井に続いて七人も鳥居をくぐる。確かに、ここだけは人を寄せ付けぬイヤな感触はなかった。
短い参道を通ってすぐ目に飛び込んで来たのは、闇夜を焼く浄化の炎の朱。幾重もの帳になってゆらりゆらりとそれは揺らめき、飛び散る橙の火の粉が煽られ、宙に踊っている。まだ薄寒い春の夜気に呪力が混じり、肌を刺す。霊気に包まれた斎庭は異世界さながらの様相を見せていた。神が降りる、その真意をナスティたちは体感していた。
燃え盛る炎から少し離れたところに、祭壇らしきものが見える。四方を竹と注連縄で囲っており、結界の中になお堅固で強力な呪場を作りだしているようであった。斎庭の中には、ちらほらと白い影が行き交っている。渡井と同じ、浄衣に身を包んだ陰陽寮の術者だろう。
そこを通り過ぎて、本殿を背後に表参道に向かい、社務所の前に案内された七人は、渡井から「ここで待っていて下さい」と一言、言いおかれて取り残された。燃え盛る炎からはすでに遠く、社務所の玄関の弱々しい明かりだけが頼りなく七人を照らしている。
静寂の中、七人に言葉はなかった。
それぞれが今、自分の置かれた立場について考えを巡らせ、口を引き結んでいる。
上空でごうと大きな風が吹いた。しかし、斎庭の木々は揺れなかった。結界は自然現象すらも封じているらしい。炎に照らし出された公孫樹は、黄金に染め上げられて目映いばかりに神の居ます場所を包んでいる。
しばらくして、渡井が戻って来た。
一人ではない。後ろに三人、やはり浄衣に身を包んだ男たちが続いている。彼らを七人の前に案内して、渡井は一歩、後ろに下がった。
社務所の玄関の頼りない明かりの下に現れたのは、渡井よりも年嵩の男たちであった。三人ともうっすらと青白い霊気を帯びている。常人ではない、異能の証拠。彼らが陰陽寮というこの国の闇の系譜の呪術を引き継いできたもののトップに座すものたちだと存在そのもので示していた。
場に、身を切るような緊迫した静寂が降りる。
それを破ったのは、遼たちから見て左に立っている恰幅の良いやや小柄な男だった。
「この度はご協力ありがとうございます。私は『大規模災害予知対策研究室』室長補佐の斎部といいます。以後、お見知りおきを。」
斎部と名乗った男は、とぼしい明かりの下、大黒様に似た安穏とした笑みを七人に向けた。それだけ見れば、この男は余程、肝が座っているか、もしくは場慣れしているか、どちらかであろう。
自分に向けられる興味と猜疑の視線を気にとめる風もなく、斎部は言葉を継いだ。
「左端に控えているのが同じく、室長補佐の日知、隣が室長の幸頭井です。今日の祭祀は我々が中心となって執り行わせていただきます。」
斎部とは対照的なひょろりとした日知と、泰然と構えている幸頭井がナスティたちに目礼をした。
「この度は助力いただけるとのこと、真に有り難く思っております。」
中央の幸頭井が静かな面持ちで言った。樹齢数百年を経た木が喋り出したような、深く響く声だ。
それに応じようとしたナスティを、視線だけで止めた。
「あなた方は、十年前の事件で羅喉の精を封じたと聞いております。」
ひらり、ひらり、と公孫樹の葉が二枚、幸頭井とナスティたちの間に舞い落ちた。そのまま斎庭の闇に溶ける。
「渡井から聞いてるとは思いますが、あの事件以来、この都市の呪術的防御能力は格段に落ちてしまいました。寺社の霊力は回復せず、ただでさえ魔性のものを受け入れやすくなったこの都市が、今年、もう一度、災禍に見舞われます。……このままでは。」
そこで一旦、幸頭井は言葉を止め、ナスティの隣の遼を一瞥した。
「どうか、我々に力をお貸し願いたい。」
ずしりと言葉が響く。有無を言わせぬ迫力があった。
「そのために、俺たち、今日来たんです。こちらこそよろしくお願いします。」
遼の真摯な返事をその場の総意を受け止めたのであろうか。
幸頭井は会釈をすると二人の部下を伴い、祭壇の方へ踵を返した。
「なんだか、凄い人たちだね。」
三人の姿が視界から消えてしばらくの間を置いて、伸が安堵の溜め息をついた。
同時に、ぴりぴりと肌を焼く緊張感からその場の全員が解放される。
渡井が表情をやわらげて言った。
「あの三人が私の上司です。普段はもう少し人間味もありますが、今日は場が場なだけにいつもよりも神経質になっております。申し訳ありません。」
「時代が時代なら、室長が陰陽頭で補佐が暦方と天文方か。」
当麻が漏らした剣呑な独り言に、渡井は苦い笑みで応える。
「昔のように暦方と天文方というわけではありませんが、日知が天文を、斎部が卜占(ぼくせん)を専門にしております。室長である幸頭井は、私と同じ異界を視る能力に長け、さらに予見の力もあります。神社本庁にも身を置く私が言うのも奇妙ですが、この国の闇と穢れに関わる呪術的祭祀は実質、彼らにすべて一任されています。『大規模災害予知対策研究室』というのは、そういう異能の者の集団です。」
まるで用意してあったかのように滑らかに言って、渡井は腕時計に目をやった。
「ああ、申し訳ありません。そろそろ、準備をしていただきたく思います。今から皆様に着ていただく浄衣を持って参りますので、参集殿の方でお待ちください。今なら誰もおりませんので。」
そう言って、渡井は背後の建物に体ごと振り返り見遣りつつ、遼たちにそこへ入るように促し、社務所の中へ消えた。
社務所の玄関の扉を後ろ手で閉じて、渡井はどっと疲労の色を浮かべたあと、ひどく狼狽えた表情をした。小刻みに体を震わせる。
「なぜ……。」
先程の温厚な表情からは考えられない、切羽詰まった面持ちだった。項垂れて、ひそりと呟く。
「なぜ、死相など……。」
鳥居の前で七人を出迎えた瞬間、それを目にしてしまった。
毛利伸に、かすかな、けれども確実な死相が表れていることを。
前に会ったのは、銀座だった。そのときには全く感じられなかった死の気配が、彼にまとわりついている。
心臓を鷲掴みにされるような恐怖を覚えて、渡井は玄関の上がり口に座り込んだ。
もし。
もし、この祭祀で復活する口伝の北辰結界が、人の命の犠牲の上に成り立つものであるとしたら。それは間違いなく強力なものだろう。人の血はそれだけで圧倒的な呪物足り得る。その血が供儀として捧げられるなら、どんな神仏悪鬼でも願いを届け入れるだろう。
ならば安倍晴明が禁忌として燃やしてしまったという理由も納得がいく。強力な呪術ほど負担も犠牲も多い。永きに渡って陰陽師として王宮の闇に奉仕した彼は知ったのかもしれない。時代も権力もうつろってゆくもの。その変化を、流れを止めるために人の命を犠牲にする愚かしい真似は、後世に伝えてはならない、と。
ふと、幸頭井が口にした言葉が脳裏を過る。
……渡井君、君は彼らとのパイプ役でしかない。今回のことで彼らに何が起こっても、君に責任はない。
誰かが命を落とそうとも、それを悲しむ必要はないのだと。
幸頭井はすでに、何か予見していたのだろうか。
どちらにしろ、渡井は彼らを一回きりの付き合いの他人と切り捨てるには言葉を交わし過ぎていた。相手を知り過ぎてしまった。幸頭井から余計だと言われる感情を抱く程度には、親近感を持っていた。
そして、毛利伸、という人物はその中で際立って、渡井の胸の裡深くまで入り込んでいた。
ようやく金烏玉兎集が復活するようです。2009年5月24日が新月というのは本当ですよ!(笑)その他呟きはブログにて。

